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マルゼニアンの彰考往来

日本橋丸善を愛する私の大切な「宝箱」

「丸善駒込工場」と詩人・高村光太郎 そして妻・智恵子の人生

 

 

それでも善い方なのよ
傘貸してくれる工場なんか外(ほか)にない事よ」

番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ
午後五時の夕立の中を
足つま立って尻はしよりしをらしく
千駄木の静かな通を帰ってゆく

ああすれちがつた今の女工
丸善インキ工場の女工

(高村光太郎丸善工場の女工達』より抜粋)

 

 

 

 

これは、彫刻家で詩人の高村光太郎

自宅近くの夕方風景を詠んだ詩。

 

大正から昭和の初めにかけ、

駒込林町(現;東京都文京区千駄木5丁目)のアトリエに

愛する妻・智恵子と2人で暮らしていた、高村光太郎

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       ▶︎ 本郷区駒込林町25にあった高村光太郎のアトリエ(現;東京都文京区千駄木5-22)

 

 

 

 

 

当時この付近には「丸善駒込工場」があり、

オリジナルインキを製造していた。

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             ▶︎ 地図右手81番地に記載された「工マーク」と「丸善工場」の文字 

       同じ町内の25番地付近に光太郎のアトリエがあった

                            出 典;明治44年発行「東京市本郷区地図」

 

 

 

 

明治18年(1885)に日本橋丸善の敷地内で始まった

丸善工作部」のインク製造は、博覧会等に出品・

賞を受け、後に「丸善インキ」「丸善アテナインキ」として

一時代を築く商品となった。

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  ▶︎ 「丸善駒込工場」と当時の社員たち(昭和4年・創業60周年記念写真)筆者私物

                               前列左より5番目が工場長の斉藤豊四郎。

           ここでは、1人ずつのお名前は割愛するが、もれなくその記録は残されている

 

 

 

 

 

写真中央に座る人物が、工場長の斉藤豊四郎。

がっちりとした体格とくっきりした顔立ちが印象的だ。

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▶︎  本店勤務時代、当時42歳の斉藤豊四郎。(大正5年1月撮影) 筆者私物

前列左より)二代目社長・松下鐡三郎ご子息の松下領三、6代目社長となる、金澤末吉

 

 

 

 

昨年2016年2月のこと。

 

それまで全く土地勘のなかった、千駄木駒込方面に

それはそれは突然無性に行きたくなり、

何かに強く背中を押されるように出掛けた。

 

足の向くまま、たどり着いた先は「駒込林町」という町だった。

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なんともいえない、悲しいような懐かしい気持ちに襲われ

あまりの不思議さに、あれこれと調べた結果、

色々なことがわかった。

 

私の古い時代の家族がこの街を愛し、

長く暮らしていたこと。

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高祖母の少女時代からの「心友」丸善三代目社長

小柳津要人もこの町内に居を構え、高村家とも繋がりがあったこと。

 

そしてその目と鼻の先に「丸善駒込工場」があり

かつて賑わいをみせていたこと。

 

そのことに気づいた年は奇しくも

高村光太郎没後60年、智恵子生誕130年】という記念年。

 

私の足は自然と2人に所縁ある、二本松へと向いたのだった。

 

 

 

東京から車で約3時間。智恵子の生家に到着。 

 

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    ▶︎ 明治の姿をそのままに残す「高村智恵子の生家」(2016年10月27日訪問・撮影) 

 

 

 

 

智恵子は、裕福な造り酒屋の二男六女の

長女として、明治19年(1886年

ここ二本松市油井に誕生した。

 

            

 

 

     屋号「米屋」 酒名「花霞」

 

 

 

 

 

彼女が生まれたのは、東北本線が仙台まで開通。

「二本松駅」が開業する1年前のことである。

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         ▶︎ 「花霞」の酒樽が並ぶ明るい店内(2016年10月27日撮影)

 

 

 

 

成績優秀だった智恵子。

 

彼女が通った油井小学校には、

満点に近い学籍簿が残されている。

 

負けず嫌いで、よく勉強ができ、

図工が得意だったーー

 

気品と優しさに溢れる智恵子は、

男子の学友にさえ、一目置かれる存在であった。

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              ▶︎ 智恵子・生家の居間。この場所で少女時代を家族と過ごした

 

 

 

 

 

 

明治34年(1901年)福島女学校に入学。

 

手先が器用で、テニス好きだった智恵子は

卒業式には総代として、答辞を読んだ。

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 ▶︎ 智恵子が少女時代に使用したお琴。裏側には「長沼ちゑ用」と記載あり

 

 

 

 

 

         明治36年(1903年) 日本女子大学校に入学

 

 

 

普通予科を経て家政学部に進むも

彼女の心を捉えたものは「油絵」だった。

 

自由選択課目であった、洋画の教室にばかり

出ていたようだ。

 

日本女子大学校卒業後も、故郷へは帰らず

反対する両親を説得し、東京にとどまり

画学生の生活を続ける。

 

智恵子の美への渇望はとどまることを知らず

セザンヌゴーギャンに興味を持ち

熊谷守一らの元に出入りし

油絵制作に骨身を削った。

 

明治44年(1911年) 日本女子大学校時代の先輩

柳八重の紹介で、駒込林町の高村光太郎アトリエにて

光太郎と出逢い、その2年後、2人はともに暮らし始めた。

 

智恵子と出逢った時の様子を

光太郎はこう語っている。

 

「彼女はひどく優雅で、無口で

ただ私の作品をみて、お茶を飲んだり

フランス絵画の話をきいて帰っていくのが

常であった」

 

 

 

 

 

 

                      明治から大正へ

 

 

 

 

 

結婚後も光太郎の収入は、彫刻家であった

父・光雲からの下請け仕事やわずかな原稿料に過ぎず

2人の生活は充実しながらも、貧窮が続いてゆく。

 

智恵子に少しずつ忍び寄る、辛い運命の数々。

 

 

 

 

              大正 7年(1918年)5月

 

 

 

父・長沼今朝吉が57歳で没すると、

翌年11月には16歳だった妹・千代も死去。

 

前林家に嫁いでいた妹・みつも、

大正11年(1921年)30歳の若さで

結核により亡くなり、

 

昭和4年(1929年)父・今朝吉の死後

家庭内の問題や経営上の不振から

傾きかかっていた長沼家がついに倒産。

 

一家離散となった。

 

度重なる心労。

この状況を光太郎に話すことができなかった智恵子は

1人心を悩ませ、病みがちの日々を送るようになる。

 

心のバランスを崩した智恵子を連れ

光太郎は、病気の治癒に良いと聞く

川上温泉、土湯温泉、九十九里などに静養に行くも、

智恵子の病は進行するばかり。

 

ついには、南品川のゼームス坂病院に入院することになった。

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  ▶︎ 智恵子の生家裏にある、二本松市智恵子記念館(二本松市油井漆原町36 )

 

 

 

智恵子の生家裏にある「智恵子記念館」では

智恵子生誕130年、光太郎没後60年を記念した

企画展が行われていた。

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心のバランスを崩し、病院に入院した智恵子が

1人制作し始めたのは、「切り絵」

 

その時に作られた作品を中心に、

智恵子と光太郎の愛と美の世界を描いた展覧会。

 

折り鶴を作ることから始まった智恵子の創作は

やがて色紙の美しさから、インスピレーションを得て

切り絵へと形を変えていく。

 

幼い子どもが愛する父や母に

自分が目にしたもの全てを報告するように

彼女は日々目に触れるものを「切り絵」にしては

面会に来る光太郎に見せた。

 

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                      ▶︎ 智恵子作 「かに」 台紙は封筒を切り開いたもの

                               出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会     

 

 

 

下書きもなしに切り込んでいく、

智恵子のハサミ。

 

「美しいもの」「かわいらしいもの」を捉え

ハサミで形にしていく智恵子の創作は

離れて暮らすようになった光太郎への

「愛のうた」そのものだった。

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                                                 ▶︎「のり筒」      

                         出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会                

 

 

 

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                                      ▶︎ 「うさぎのもちつき」    

                   出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会

 

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                                       ▶︎ 「片口とりんご」

                              画家・熊谷守一の影響を思わせる

                出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会

 

         

 

 

智恵子の心、光太郎との日々を感じたく、

「智恵子の杜公園」へと向かう。

 

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智恵子の生家の裏手にある「智恵子の杜公園」は

鞍石山周辺に位置する、

智恵子と光太郎がよく散歩した場所。

 

ここがスタート地点。

 

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              ▶︎ 原生するたんぽぽの花。葉の力強さに目を奪われた

 

 

 

稲荷八幡神社への入り口。

写真ではわからないが、かなりの傾斜で

これより先に登ることを一瞬ためらってしまう。

 

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急な階段を登ると「稲荷八幡神社」がある。

土地神様へのご挨拶と旅の安全を願う。

 

 

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木の香りに満ちた空気、木陰を抜けていく風。

 

 

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智恵子が愛し歩んだこの道の先には、

「彫刻の丘」が広がっていた。

 

 

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稲荷八幡神社から、鬱蒼とした1本道の森の中を

恐れることなく歩くことができたのは、

須賀川市から遊びに来たという、3人の親子の存在あってこそ。

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何度も私のほうを振り返っては、

 

「あそこに大きな蜂がいるから、お姉さん気をつけて」

「ここに光太郎の碑があるよ」などと笑顔で教えてくれた。

 

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         ▶︎ 「智恵子の杜」中腹に佇む、高村光太郎「道程」の碑 

 

 

 

 

 

「鎮魂の丘」付近に広がる、墓所

お墓参りにいらしていた女性とすれ違い、挨拶をした。

 

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「詩歌の丘」に到着。

高村光太郎の「樹下の二人」が刻まれた碑があった。

 

 

 

 

 

あれが阿多多羅山

 

あの光るのが阿武隈川

 

 

 

 

光太郎がこの歌の中で、何度も繰り返した言葉。

その思いを感じることができる景色が広がる。

 

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遠く展望台が見えてきた。

 

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階段を登り、「みはらしの広場」へ。

 

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展望台を登りきると、美しい景色が広がっていた。

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展望台から臨む、阿武隈川方面。

 

あの光るのが阿武隈川

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あれが安達太良山

 

東京には「ほんとの空」が無いといった智恵子。

 

安達太良山の上に毎日出ている青い空が

「ほんとの空」だといった、

智恵子の “ あどけない空 の話 ” 

 

それはただ単に「空」に限った話ではなく

東京の街に馴染めず、本音や悩みを話すことができず

窮屈になった智恵子の「心の叫び」だったのかもしれない。

 

自ずからそう気付かされるほど、この町の空は美しかった。

智恵子の心が近かったーー

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        ▶︎ 智恵子の杜「みはらしの広場」 展望台からの “ 智恵子のほんとの空 ”

 

 

 

 

ありし日の智恵子と光太郎が、手を取り合って

登り歩いた鞍石山。

 

安達太良山阿武隈川とを同時に眺めることができる

この景勝地で、どんなことを語り合い、

同じ時間を過ごしたのだろう。

 

東京の街に馴染むことができず、

本当の空がない、といった智恵子の心を思い

なんだか寂しくなった。

 

帰り道、「鎮魂の丘」付近で挨拶をした女性が

お墓参りを終えて、こちらへ歩いてきた。

 

二本松の歴史資料館までの近道をお訊ねすると

「送っていきますよ」と仰って下さった。

 

聞けば、最初にすれ違った時からずっと

若い人がたった1人でここまで

一体どこから歩いてきたのかと

心配していらしたとのこと。

 

1度は遠慮するも「熊が出るかもしれないから」という

言葉をお聞きし、お言葉に甘えることに。

 

「鎮魂の丘」で出逢ったのは

二本松に暮らす、渡部(わたなべ)さん。

 

歴史資料館までの道すがら

智恵子の実家・長沼家の菩提寺

二本松城の場所をご案内して下さった。

 

遠い昔の家族が、光太郎の暮らしたアトリエ付近に

同じ時代暮らしていたことーー

 

見ず知らずの私の話を真摯に受け止め

ニコニコと興味深く聞いて下さる、心優しい方だった。

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                             ▶︎ 二本松市歴史資料館(二本松市本町1-102)

 

 

 

 

二本松市歴史資料館でも

高村光太郎・智恵子の記念年の企画展が行われていた。

 

切り絵や絵画のほか、智恵子本人のその時の心情や

苦悩を照らし出す書簡の品々。

 

心を患いながらも、最後にたどり着いた

智恵子の「切り絵」の世界は、光太郎への

愛と美に溢れていた。

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大正から昭和の初めという、抑圧された芸術界において

自らの目指すものを追い求めた、智恵子と光太郎。

 

2人の思い描いた世界は、智恵子の病・死を乗り越え

やがて『智恵子抄』という作品に昇華していく。

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智恵子が愛した「ほんとの空」を思い浮かべながら

今日1日のことを思い返す。

 

「智恵子の家」の入口受付で「智恵子の杜」のことを

「イメージはハリウッドの山な感じだけど、歩いていけるから」

とあれこれ教えて下さった女性の方。

 

稲荷八幡神社からの道すがら

色々とお話をした、

福島県須賀川市からいらした3人の女性たち。

 

そして、「鎮魂の丘」で出逢い、

見ず知らずの私を「二本松歴史資料館」まで

車で送って下さった、二本松の渡部さん。

 

智恵子と光太郎、2人の愛と美の軌跡を追求する途中に

この二本松の町で出合った、心温まる数々の親切は

私にとって忘れられない思い出となった。

 

 

 

 

 

それでも善い方なのよ

 

傘貸してくれる工場なんか

外(ほか)にはないことよ

 

 

 

 

 

光太郎が遠い昔に詠んだ「丸善工場の女工達」の

フレーズを1人思い出す。

 

ある日の夕方、突然降り出した雨。

 

丸善の番傘1つにそっと身を寄せ合うように入り

雨の雫を避けながら、夕暮れの団子坂をおりていく

若い女性社員たちの姿が、私の脳裏に浮かんだ。

 

工場で働く彼女たちに、そっと差し出された

「雨傘」という何気ない親切。

 

それを許可したのは、きっと

工場長の斉藤豊四郎なのだろう。

 

どの写真を見ても、自信に満ちた優しい笑顔で写る

彼の姿は以前からとても印象的であったが

やはり心優しい人だったのかもしれない。

 

昭和4年撮影の「丸善駒込工場」社員集合写真の中には

ありし日の光太郎と出逢い、雨の雫を避けながら

「こんな親切な工場はほかにはないわ」と笑顔で話した

女性社員も写っているのだろう。

 

 

いまでは、そのことを知る人などなく

高村光太郎のアトリエ」のあった付近に

そのことを伝える看板がひっそりと佇むのみである。

 

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             ▶︎ 高村光太郎のアトリエのあった場所に佇む看板

 

 

 

<参考文献>

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

 

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「日本橋丸善」と岡崎の八丁味噌〜 味噌が繋いだ、岡崎藩士と丸善社員たちの絆

 

徳川家康公の重臣と聞いて

思い浮かぶのは、どんな武将だろうか。

 

五世祖父の家系が、古くより本多岡崎藩士であった私は

まっさきに、藩祖・本多平八郎忠勝公を挙げるだろう。

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▶︎  本多平八郎忠勝公 (1548年〜1610年)出 典;Wikipedia    

戦の時には必ず鎧の上から大きな数珠を下げ、討ち取った敵方の供養をしていた

 

 

 

 

 

      14歳で初陣

 

 

 

 

生涯57度の戦に臨みながら、かすり傷1つ

負ったことがないという、その勝負強さ。

 

一言坂の戦いで、殿(しんがり)して

徳川家康公の窮地を救った、本多平八郎忠勝公。

 

この時の姿を見た、敵方の小松左近が

こういったという。

 

 

 

 

「家康に過ぎたるもの二つあり、

唐のかしらに本多平八

 

 

 

 

 

家康が被っていたという、ヤクの毛で作られた兜

そして、家臣・本多平八郎忠勝公の存在。

 

この2つは、家康にはもったいない。

そうした意味だろう。

 

 

多くの武将からも一目置かれた、本多平八郎忠勝公。

 

 

彼の家臣団一人ひとりも、そうした主君を深く敬愛し、

代々の家々がその遺訓である「惣まくり」を語り継ぎ、

胸に深く刻み、徳川の世を生きてきた。

 

 

 

 

 

「惣まくり」

 

 

 

 

「侍たるもの、どんなことが起きようと

最後まで主君に忠実に生きなければならないーー」

 

 

「武士としてのあり方」「生きるべき姿」を説いた

この言葉を胸に、幕末の動乱期、藩の決定に背いてまで

徳川幕府への忠義を貫こうと、脱藩。

 

榎本武揚率いる、旧幕府軍に加わった男たちがいた。

 

脱藩状を提出し、人見勝太郎、伊庭八郎ら

旧幕府軍・遊撃隊の元へと向かったその一団は、

小柳津要人ほか、30名ほどの岡崎藩士たち。

 

慶應4年(1868年)4月30日のことだった。

 

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▶︎ 亡くなる数年前に書かれた、小柳津要人直筆の「惣まくり」

これを生涯の信条とし、怠ることがなかったという 

    出 典;『小柳津要人追遠』  富澤淑子編

 

 

 

 

幼いころから時々見る

不思議な夢ーー

 

見知らぬ大きなお寺の山門がみえる景色から

その夢は必ず始まる。

 

自分はまだ小さい子どものようで

視界の感じからも身の丈は小さい。

 

男女の別はわからない。

 

周りの景色は、なんとなく古い感じ。

 

姿は見えないが、一緒にいる男性の声が

一言だけ、ささやく。

 

「ほら、見てごらん。

ここからだと、お城とぴったり重なる」

 

指差す先を見ると、確かに遠く城郭が見えーー

夢はいつもそこで終わってしまう。

 

ここは一体どこなのだろう。

幼いころからの謎だった。

 

昨年、自分の先祖の故郷を見てみたいと

訪れた、岡崎・大樹寺で鳥肌がたった。

 

お寺の山門を一目見て、間違いなく

あの夢の場所だと気付いたからだ。

 

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       ▶︎ 成道山松安院 大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元5-1)

徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代将軍の位牌が安置される(2016年5月1日参拝・撮影)

 

 

 

 

 

まわりの参拝者を見ると、皆遠くを指差し

山門から何かを見つめている。

 

指差す先には、遠く岡崎城が見えた。

 

夢の中の人物が教えてくれていた通り

大樹寺の山門と岡崎城とがぴったりと重なっていた。

 

生まれてから一度も訪れたことのない

この町のこの場所の夢を、なぜ幼いころから

何度も繰り返しみていたのか、本当に不思議で

なんだか怖くて仕方がなかった。

 

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                    ▶︎ 大樹寺・山門から、遠く臨む岡崎城

大樹寺からお城までの直線上に、高層建築物を建てることができないという

 

 

 

 

岡崎藩士たちにとって、家康公の菩提寺である

この寺は、大変に重要な場所とされ

事あるごとに揃って参拝していたことが

大樹寺文書』(上)(下)に書き残されている。

 

前述、幕末に脱藩、旧幕府軍に参加し

戊辰戦争で転戦、五稜郭まで北上し

新政府軍たちと戦った藩士たちも、

岡崎を出立する前、ここに参拝したことだろう。

 

私が大樹寺を訪れたのは、5月1日。

 

奇しくも148年前の同じ日、

同じ場所に参拝したかもしれないこの偶然を

不思議に思った。

 

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                         ▶︎ 岡崎城(2016年4月30日訪問・撮影)

 

 

 

 

戊辰戦争で敗者となった小柳津は

謹慎の後、気持ちを切り替え、

徳川の幕臣たちが移住した沼津の町へと向かう。

 

沼津兵学校教授・乙骨太郎乙のもと、

および慶應義塾で英学を学んだ彼は

明治6年(1873年)横浜丸屋商社(丸善)に入社。

 

 

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                ▶︎ 若き日の小柳津要人氏 (明治初年撮影)

 

 

 

 

創業者の早矢仕有的と深いつながりを持つ

福沢諭吉が入社を進めたであろうこと、そして

当時の丸屋に「三河武士」が多かったことが

その理由ではないかと、丸善OBの八木佐吉氏は推測する。

 

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▶︎『酒味の雑誌  壺 』第16号(昭和56年12月25日発行)発行人;深田三太夫

 

丸善OBの八木佐吉氏は、小柳津の故郷・岡崎エリアで発行される出版物にも

率先して寄稿。不安定な時代を力強く生きた、小柳津の人生を後世へと書き遺した

(本号に寄稿している「岡田金藏氏」は、元丸善名古屋支店社員であると筆者は推測する)

 

 

 

 

 

 

その言葉通り、丸善創業者には「三河武士」が多い。

 

岩村藩(大給松平分家)藩医であった、創業者の

早矢仕有的を筆頭にずらりと顔を揃える

岩村藩豊橋(吉田藩)藩、そして岡崎藩士たち。



 

 

「三代目社長」

小柳津 要人(おやいづ かなめ)

初代;小柳津助兵衛(諱不詳)

本多忠高公御代より出仕(本国駿河

 

 

「売り場出納係」

多門 傳十郎(おおかど でんじゅうろう)父上

多門 猶次郎(おおかど なおじろう)  ご子息

※子息・猶次郎は『学の燈』発行 兼 編集人

初代;多門越中重倍

本多忠勝公御代より出仕(本国三河

 

 

「辞書校正係」

志賀 重昂(しが しげたか)

※日本の地理学者、早稲田大学教授、日露戦争従軍記者

初代;志賀十左衛門重成

本多政勝公御代より出仕(本国近江)

 

 

「洋書係」 

栗本 癸未(くりもと きみ) 

初代;栗本市左衛門(江戸詰) 

本多政朝公御代より出仕(本国播磨)

 

 

日本橋丸善勤務 のち福岡支店勤務」 

栗野 彬(くりの あきら)

※ 新入店した社員たちが入る、寄宿舎の室長

初代;栗野主馬貴常

本多政長公御代より出仕(本国伊勢)

 

 

ほか多数

 

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 ▶︎『本多岡崎藩分限帳』年代別、岡崎・江戸の地域別に11冊存在する

 

 

 

  

私の祖父が丸善に入社を決めたのも

五世祖父一家と親しい間柄であった、

小柳津要人氏の導きによるもの。

 

新しい環境の中、不安な祖父の心を

支えたのは、厳格なるも心優しい社長の

小柳津要人氏と結束の硬い岡崎藩士たちの存在、

そして、毎日口にする、懐かしい郷里の「味」だった。

 

当時、丸善に入店した社員たちが

暮らした寄宿舎。

 

ここでは毎日朝食に、岡崎の八丁味噌を使用した

お味噌汁が出されていた。

 

徳川家康公が珍重した味。

郷里・岡崎の味。

 

様々な思いと考えをもって、社長の小柳津が

提案したのだろう。

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▶︎ 八丁味噌「カクキュー」本店(愛知県岡崎市八帖町字往還通69)(2016年5月1日訪問)

 

我が家では、子どもの頃から欠かしたことのない、カクキューの八丁味噌

本店窓口で販売されている「味噌カツ」や「味噌ソフトクリーム」は秀逸な味わい

 

 

 

 

 

 

毎食、毎食、同年代の仲間たちと囲む食卓。

 

少しだけいいことがあった日。

涙が出そうなくらい辛いことがあった日。

 

そこにはいつもカクキューの八丁味噌

作られた、あたたかなお味噌汁があった。

 

丸善OBの玉井弥平氏は、晩年

久々に顔を合わせた仲間たちとの会食の席で

こんな風に話している。

 

 

 

「弁さんの作る一つ釜の飯を食って

あの寄宿舎で寝起きした頃の思い出は多い。

 

今は各々環境を異にすれど

皆元気でこうしてまた夕食をともにできる。

 

この嬉しさは、他人様にはわからないだろう」

 

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▶︎ 丸善OBの日下定次郎氏もまた、八丁味噌のお味噌汁を味わい、

寄宿舎に寝起きした日々を懐かしく振り返っている

 

 

 

丸善に一生を捧げた人。

途中から、別の道を歩んだ人。

 

関東大震災や度重なる戦争の中、

互いに離れ離れとなり、それぞれの人生を送った。

 

それでも、若い時代に苦楽と寝食をともにした

大切な仲間の存在と、日々の食卓をあたためてくれた

八丁味噌の味わいは、生涯忘れられないものとなり

それぞれの心を支え続けた。

 

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           ▶︎ 丸善OB「温故会」会食の席で (昭和31年撮影)

 

写真前列左から)日下定次郎、五十嵐清彦、伊藤四良、玉井弥平

写真後列左から)斎藤哲郎、木内憲次、井上清太郎、福本初太郎、間宮不二雄(敬称略)

ほか 井筒静之助、広瀬市太郎なども、そのメンバーだった

 

 

 

 

 

明治という新しい時代を生き抜くために

刀をペンに持ちかえ、西洋のあれこれを学び

黎明期の丸善を必死で支え続けた、小柳津要人。

 

彼はまた、多くの岡崎藩士たちに手を差し伸べ

新しい時代、ともに生きるチャンスを与えた。

 

そうした彼の優しい心遣いからどれだけの人が

生きる希望を見出し、活躍の場を広げたことだろう。

 

そして、その後に続こうと、黎明期を生きた先輩たちの

背中を懸命に追いかけ、明治・大正・昭和という時代を

生きた、たくさんの丸善人たち。

 

彼らの心を1つにし、長きに渡り陰ながら

その人生を支え続けた「八丁味噌」という存在を

私はこれからも大切にしていきたい。

 

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    ▶︎ 小柳津要人 氏(1844年〜1922年)

 

  昭和36年(1961年)7月1日、岡崎市は市政45年を記念し、

  小柳津ほか、郷土の先覚24名を名誉市民に推薦した

 

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                     ▶︎ 岡崎公園内にある 「徳川家康公 出世のベンチ」

 

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   ▶︎ 本多平八郎忠勝公像(岡崎公園内)

 

岡崎藩士たちは、大正時代になっても「不忘義団」として、その交流を続けていく。

東京に出た藩士たちもまた、旧江戸藩邸内の龍城館に身を寄せ合い、支え合って生きた

 

 

 

 

<参考文献>

 

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

『小柳津要人追遠』富澤 淑子 編 

『本多岡崎藩士分限帳』

『圕とわが人生』間宮 不二雄 著(丸善OB・元日本図書館協会顧問)

「小柳津要人小伝」八木 佐吉 著(丸善OB・元丸善本の図書館長)

志賀重昂と郷土みかわ」長坂 一昭 著(岡崎地方史研究会 会長) 

 

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明治 大正を生きた、文芸評論家で翻訳家、小説家の内田魯庵と「日本橋・丸善」〜 夏目漱石との交流

 

作家 三島由紀夫が自ら命を絶つ9カ月前

英国の翻訳家、ジョン・ベスターと対談した

肉声テープが、赤坂TBS内にて発見された。

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    ▶︎ 三島由紀夫(1956年撮影;31歳)   出 典;wikipedia 

 

 

 

 

約1時間20分にわたり自身の死生観、

文学論などを淡々と語るそのテープ。

 

小説『豊饒の海』第3巻『暁の寺』の執筆を

その日の朝に終えた、と語っていることから

1970年2月19日に録音されたものとみられている。

 

 

数多くの作品を遺した三島。

 

 

2005年には、学習院中等科在学中の

10代半ばに書いた作品が、山梨県山中湖村

三島由紀夫文学館に所蔵される未発表作品の中から

発見され話題となった。

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▶︎『決定版三島由紀夫全集補完』(新潮社刊行)

この中に、2005年発見の作品が収録されている

 

 

 

『決定版三島由紀夫全集補完』に収録された

1937年(昭和12年)執筆のその作品のタイトルは

 

 

 

 

 

『我はいは蟻である』

 

 


主人公は、生まれたばかりの働き蟻。

 

重たいビスケットを運んだり、仲間の長老に

敵対する蟻のことを聞かされたりーー

 

なんだかどこかで聞いたことのある

そのタイトルに、思わず耳を疑ったことは

いうまでもない。

 

夏目漱石の『吾輩は猫である』に

似ていると感じた作品は他にもある。

 

明治大正を生きた、文芸評論家で

翻訳家、小説家の内田魯庵の書いた

『犬物語』である。

 

 

 

 

慶応4年(1868年)江戸下谷車坂六軒町

(現在の台東区東上野3丁目付近)に

誕生した、内田魯庵(本名;貢)。

 

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▶︎ 明治40年(1907年)39歳の内田魯庵   出 典; Wikipedia 

 

 

 

 

彼の父・内田鉦太郎(のち正と改名)は、

幕府の御家人で、上野東照宮警護役を担っていた。

 

魯庵の生後1ヶ月、戊辰戦争上野戦争が勃発するも

父・鉦太郎は上野市中を守る「彰義隊」に参加する

ことなく、上野東照宮の御神体を安全な場所へ運び、

そのまま1ヶ月の間、どこかへ姿を隠してしまう。

 

それからほどなくして明治の世となり、

父・鉦太郎は東京府に出仕するも

不安定な相場の世界へとのめり込んでいく。

 

明治11年(1878年魯庵11歳の時、

父は蛎殻町のコメ相場で失敗し

ついに広大な屋敷(旧松前藩下屋敷)を

手放すことになった。 

 

  

そんな父を反面教師としたのだろうか。

魯庵は文学の道を志す。

 

文芸評論で名を挙げた魯庵

明治34年(1901年)丸善株式会社に

書籍部顧問として入社。

 

その先駆的な知識や教養を活かし、

丸善のPR雑誌である『学の燈』(のちに『学鐙』)

への執筆・編集を精力的におこなっていく。

 

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   ▶︎ 『学鐙』 第113巻 第4号 

 

 2012年より年4回の季刊発行となるも

明治30年3月から続く、その “ 学びの燈(ともしび)” は、

今日も赤々と灯り続ける

 

 

 

 

 

                    丸善の骨格は、早矢仕有的がつくり

                   これに魂を吹き込んだのは、福沢諭吉

                    それに肉づけをした者こそ、

                      じつに内田魯庵であった

                                    (『丸善百年史』昭和55年発行より抜粋

 

 

 

 

 

20世紀の丸善にとって大変に重要だった

という、内田魯庵の存在。

 

現在の丸善でも、彼の「偉勲」を

目にすることができる。

 

今も “ 丸善の象徴 “ として

お買い上げ袋に印刷されている「フクロウ」

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明治30年代頃より、丸善から出版される本には

MとZの組み合わせで「フクロウ」を模った

マークを使用しているという。

 

このモデルとなったのは「知恵の女神・アテナ神」と

その使者である「フクロウ」

 

これらを “ 丸善の象徴 ” として考案したのは

内田魯庵ではないか、と出版人で

丸善OB の八木佐吉氏はそう推測する。

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                       ▶︎ 八木佐吉著『書物往来』(東峰書房刊行)

 

             ご子息・正自さんのご厚意により、いただいた1冊。

         丸善の歴史を後世へと遺した、佐吉さんの功績を忘れてはならない

 

 

 

 

 

大正 8年(1919年)  創業 50周年

 

 

 

 

 

丸善では、過去に功績のあった

先人たち6氏を選出。

 

3月22日にその追悼会が

本郷の駒込・吉祥寺にて執行された。

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              ▶︎ 本駒込「諏訪山 吉祥寺」(東京都文京区本駒込3-19-17)

           旧幕府軍総裁・榎本武揚がその妻多津とともに、静かに眠る吉祥寺

     

 

 

 

 

 

創業者・早矢仕有的岩村藩医)

伊村克己(岩村藩士)

金沢廉吉(岩村藩士)

三次半七(江戸出身・岩村藩士の従者)

斎藤豊

松下鐡三郎(豊橋藩士・2代目社長)

 



 

創業からの社員には、岩村藩士、岡崎藩士

豊橋(吉田)藩士など「三河武士」が多かった丸善


明治時代、日本橋丸善・二階売り場の出納係を

しながら、見習生たちに、電話での話し方や

取り扱い方を教えていたという

多門(おおかど)傳十郎。

 

丸善OBで祖父の親友だった、

間宮不二雄さんは

 

「いつも長い髭をたくわえ、

黒木綿の紋付袴を着用され

とても身だしなみの良い老人だった」

 

こう当時を振り返っている。

 

多門氏は、三代目社長の小柳津要人同様

岡崎藩士の家柄だった。

 

本多岡崎藩家臣団で、私の五世祖父の家系同様、

本多平八郎忠勝公時代から、その名を連ねる名家

(700石)で、子息・猶次郎とともに、

丸善に勤務していた。

 

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         ▶︎  徳川四天王本多平八郎忠勝公   出  典;Wikipedia 

 

その昔、本郷・森川町一番地にあった、本多岡崎藩江戸藩邸。

敷地内の「龍城館」には、藩士やその家族が暮らせる邸宅があった

 

 

 

 

 

関わり合う仲間を大切にーー

 

どんな時も先人への感謝の気持ちを忘れない、

そうした「三河武士」の心意気と、折り目正しさを

1人ずつが大切にしていたのではないか、そう思う。

 

この追悼会執行とともに、社員には祝意として

等級に応じ「フクロウ文鎮」ほか全3種の

新海竹太郎作・記念品が配られた。

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 新海竹太郎は、当時「帝室技芸員

 

優秀な美術家・工芸家に対して

宮内省(戦前)から与えられる「顕彰」を

背負った、日本を代表する著名な彫刻家だった。

 

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   ▶︎ フクロウ文鎮の裏面。丸善50周年の文字が刻まれている 

 

 

  

社員1人ひとりに配られた、社のシンボル。

 

丸善にとって「フクロウ」はそれほど

歴史ある “ 大切な象徴 ” なのだということを

今ここに伝え残したい。

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「フクロウ」を今日の丸善へと繋いだ、内田魯庵

 

前述の彼の著作『犬物語』は、夏目漱石

吾輩は猫である』を発表する3年前

1902年(明治35年)の作品である。

 

そのインパクトの強い江戸っ子口調に

心をぐっと掴まれた。

 

 

 

「俺かい。俺は昔しお万の覆した油を

 甞アめて了つた太郎どんの犬さ。

 

其の俺の身の上噺が聞きたいと。

 

四つ足の俺に咄して聞かせるやうな

履歴があるもんか」

(内田魯庵著『犬物語』『社会百面相』(博文館刊行)より抜粋) 

 

 

 

舞台はお屋敷町・千代田区番町。

 

外国帰りの裕福なご令嬢に飼われている

まじりっけなしの日本犬である「俺」

                                           

飼い犬の視点から、次々と人間模様を描写する

この小説は、まさに『吾輩は猫である』の

先駆的作品ともいえる。

 

魯庵ならではの、鋭い風刺加減はもとより

この中に描かれている、プードルやマスティフ、

スパニエル、ポインターブルドッグなどの

幅広い犬種には、目を見張るものがある。

 

この作品を発表した数年後に訪れる、

漱石の『吾輩は猫である』への反響。

 

魯庵は、どう感じたのだろうか。

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 ▶︎夏目漱石43歳頃(明治43年4月撮影)『漱石全集』第9巻 『門』 口絵

 

 

 

 

 

           明治38年(1905年)10月29日

 

 

 

 

 

 

東京音楽学校(現;東京藝術大学音楽学部)の

卒業演奏会を聴きに、寺田寅彦と上野を訪れた

漱石は、銀座・日本橋を通る、中央通りの

イルミネーションを見て、夜9時頃に

駒込千駄木町の自宅へと戻った。

 

書斎の机には、1通の手紙。

差出人は「内田魯庵

 

吾輩は猫である』を賞賛する書面と

ともに同封されていたのは

27枚もの「猫の絵葉書」だった。

 

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            ▶︎『漱石全集』第27巻 『書簡集』(岩波書店刊行)

               ここに漱石から魯庵への手紙の返信文が掲載されている

 

 

  

粋な計らいに漱石は感激したのだろう。

早速魯庵へ返事を書いた。

 

その追伸にこんな茶目っ気のある

一文があった。

 

 

 

猫儀只今睡眠中につき

小生より代わって御返事申上候

漱石全集』第27巻 『書簡集』より抜粋 (岩波書店刊行)

 

 

 

   

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 内田魯庵は、初めて漱石に会った時の印象を

「百年の知己」と表現している。

 

その感覚の鋭さ、上品な知性を賞賛。

 

好きな漱石作品として『文鳥

『猫』『坊ちやん』『草枕』『ロンドン塔』

そして『学鐙』に寄稿してもらった

「カーライル博物館」を挙げている。

 

また、漱石は気難しいところもあり、

何かと都合をつけ、来客を返してしまうことが

多かったというが、魯庵だけは、

突然訪ねて行っても、2〜3時間は話込んだという。

 

 

「毒舌家」の魯庵と「ちょっと気難しい」漱石

 

 

そんな嘘のつけない、正直な2人だからこそ、

お互い胸襟を開き、語り合うことが

できたのかもしれない。

 

 

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▶︎ 旧幕府軍方歳三が11歳の時、奉公に来た歴史あるデパート

 

 

昭和4年(1929年)2月、上野松坂屋のある

この街を舞台に『下谷広小路』を執筆していた

内田魯庵は脳溢血で倒れ、言葉を失う。

 

 

そして同年6月29日、61歳で旅立った。

 

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                                 ▶︎ 丸善株式会社 社員写真帖(昭和4年1月発行)

                       巻頭の重役・部長ページより     丸囲みの人物・右上が「内田貢」

                       この社員写真帖が発行された5ヶ月後、魯庵は旅立った

 

 

 

 

漱石が『吾輩は猫である』を発表した翌年

“ 猫年か ”と思う位、数多くの「猫葉書」が

彼の元へ届いたという。

 

漱石が保管し続けたといわれる、数百枚にも及ぶ

「猫葉書」のうち、数枚が昨年公開された。

 

その中の1枚に、内田魯庵が送ったとされる

ニューイヤーカードが紹介されていた。

 

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▶︎ 2016年5月4日付『朝日新聞』紙面 より

 

 

 

なんともかわいいらしい。

 

毒舌な魯庵が送ったカードとは

とても思えない。

 

 

 

        「失敬極まる――

          此奴め、ワンワンワンワン!」

                     (内田魯庵『犬物語』より抜粋)

 

 

 

魯庵からこんなお叱りを受けそうなので

そろそろこの辺で。

 

 

 

 

<参考文献>


丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

紙魚の昔がたりーー明治大正編』反町茂雄著(八木書店

『圕とわが人生』間宮不二雄著(丸善OB・温故会メンバー)

内田魯庵全集 第4巻』(ゆまに書房

 

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明治から昭和を生きた女医・荻野吟子と間宮八重〜 北の大地で力強く生きた母とその子息・間宮不二雄

 

女性にまだ医学への道が閉ざされていた時代。

 

数々の困難を克服し、

日本人第一号の女医となった人物がいた。

 

荻野吟子である。 

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 ▶︎  荻野吟子(1851〜1913)     出  典;Wikipedia

 

 

 

黒船来航2年前の、嘉永4年(1851年)3月3日。

武蔵野国幡羅郡(現;埼玉県熊谷市)に誕生。

 

19歳の時、診療の必要あって上京し、

順天堂病院の婦人科を訪れた彼女は

あらゆる診察にあたる医師全員が

男性であることに、恥じらいと苦痛とを感じた。

 

その日を境に、彼女は、女性が治療を受ける際

恥ずかしくないようにと、自らが女医を志す。

 

明治12年、お茶の水女子大学の前身である、

東京女子師範学校(一期生)を主席で卒業した

吟子は、陸軍医であった石黒忠悳(ただのり)に

女医の必要性を説く。

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                     ▶︎  東京女子師範学校卒業生(明治12年撮影)  

                         出 典;お茶の水女子大デジタルアーカイブ

 

 

 

石黒忠悳は、佐賀の乱西南戦争に従軍した

日本の陸軍軍医で、森鴎外の上官。

 

彼の仲介あって、下谷練塀町(現;秋葉原)にあった

私立医学校・好寿院に特別入学を許された吟子は、

男子生徒からのいじめを受けながらも、無事卒業。

 

明治18年3月、医師開業試験に合格し、

湯島に「産婦人科 荻野医院」を開業。

 

34歳にして、近代日本初の公許女医となった。

 

その後、北海道開拓を目指す、13歳年下の夫を追って

北の大地へと渡る。

 

渡辺淳一の『花埋め』は、

荻野吟子の力強い人生を描いた作品である。

 

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▶︎『花埋み』(はなうずみ)渡辺淳一著(新潮文庫

 

 

 

 

その吟子と同じ時代、同じような人生を

送った人物がいる。

 

慶應2年(1866年)生まれの「間宮八重」である。

 

吟子と同じく、東京女子師範学校を卒業した彼女は

済生学舎(現;日本医科大学)に入学し、医学を学ぶ。

 

済生学舎は、長岡藩医であった

長谷川泰が創設した医学校。

 

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▶︎  長岡藩医・長谷川泰   出 典;Wikipedia 

 

 

 

 

父・長谷川宗斎と同じく、長岡藩医だった彼は

戊辰戦争・長岡の戦いである、北越戦争に従軍。

 

「八十里越」の後、南会津・只見町で

無念の死を遂げた、長岡藩家老 河井継之助

最期を看取った人物である。

 

後に細菌学者の野口英世も通うことになる、

この医学校で、医学を習得した間宮八重は、

更に順天堂病院にて佐藤進、佐藤佐、両氏の指導を受け

明治24年(1891年)内務医籍登録5311号を取得。

 

女医となり、明治25年(1892年)本郷元町

(現;文京区湯島)で開業した。

 

明治29年(1896年)発行の『報知新聞』の記事に

“ 東京で有名な女医 ” 7名の1人として

東京女子医大を設立した・吉岡弥生とともに

紹介され、広くその名が知られるところとなる。

 

不思議なことに、八重もまた、荻野吟子同様、

北海道開拓を目指す夫の志を支えるため

北の大地へと渡ることを決め、診療所を閉める。

 

この時、八重42歳。

北海道浦幌町へと旅立っていった。

 

 

 

この間宮八重という女医の存在を知ったのと同時期、

我が家に保管されている古写真の中で

初めて目にするもの数点が、私の手元に送られてきた。

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                  ▶︎ 丸善大阪支店・社員集合写真  (明治43年〜大正3年頃撮影)

                     撮影場所は「大阪府中之島図書館(筆者推測)

 

 

 

 

撮影した写真店の名前だろうか。

「Emado〜大阪ヱマ堂」という刻印がある。

 

それ以外は、いつ撮影したものなのか、

メンバーの名前などの記載は一切なかった。

 

洋装と和装の若い人物たち。

 

会ったことはないはずなのに

写真前列右側に写る、洋装3名の顔が

なぜかとてもとても懐かしく、

不思議な気持ちに包まれた。

 

遠い昔、どこかで会った気がして、

仕方がなかった。

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▶︎ 写真左より)丸善大阪支店長・大塚金太郎、のちの京都支店長・村上英四郎、間宮不二雄(敬称略)

 

 

 

 

あれこれ調べた結果、この3名のことがわかった。

 

写真左側の人物は、明治末から大正3年まで

丸善大阪支店長を務めた、大塚金太郎氏。

 

彼は、創業者・早矢仕有的氏を筆頭とする

丸善の四人衆」の1人・大塚熊吉氏のご子息だ。

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▶︎ 丸善創業に関わった、4人のうちの1人、大塚熊吉氏    出 典;『丸善百年史』

 

幕府の御家人であった彼は、戊辰戦争時、彰義隊に加わり上野に籠もったとも、

旧幕府軍に従軍しようと、栃木まで部隊を追いかけたともいわれている

 

 

 

 

 

明治28年2月18日に旅立った、早矢仕有的を悼み、

大塚熊吉は、丸善を退社。

 

小石川同心町(現;文京区春日、小日向付近)に、

書籍と文房具の専門店「冨美屋」を開店させる。

 

この店舗の裏手には、早矢仕有的の廟所があったことから

熊吉は、残された人生の時間を、恩人の墓守をしながら

生きようとしたのではないかともいわれている。

 

思わず、同じ「熊吉」繋がりで、函館にある「碧血碑」を

守りながら、五稜郭で命を落とした、旧幕府軍たちの

弔いをして余生を送った、柳川熊吉のことを思い出した。

 

そんな信義の心厚い、父の背中を見て育った、

大塚金太郎・銀次郎兄弟。

 

兄・金太郎氏は、大正3年春から、京都支店長となった。

 

中央の人物は、村上英四郎氏。(旧姓;犬塚)

 

大塚金太郎氏の後を引き継ぎ

長く京都支店長を務めた人物である。

 

丸善といえば、梶井基次郎の『檸檬』で有名だが

この作品が描かれた時代、実際に京都支店で

全社員の中心となり奮闘していたのは、この両氏である。

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      ▶︎ 写真左より)『檸檬梶井基次郎著 角川文庫版と新潮文庫

新潮文庫版は、京都丸善で購入した、世界に1冊だけの私のオリジナル『檸檬

  

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▶︎『檸檬』の表紙をめくると、中には京都丸善のスタンプ

丸善京都支店で『檸檬』を買ってスタンプを押してみよう!!

 

 

 

そして、1番気になっていた右側の人物は

祖父の旧友で、亡くなるまで親しくしていた

間宮不二雄氏であることがわかった。

 

それと同時に、間宮さんの躍動感溢れる人生と

彼の母上が、本郷の診療所を閉め、北海道開拓へと

旅立っていった、女医・間宮八重であることを知った。

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                ▶︎ 若き日の間宮不二雄氏(大正2年4月撮影) 

胸には 「Z.P.MARUYA」(丸屋善八店)時代の社章が光る

 

 

明治36年 日本橋丸善に入社した

間宮さん(以下 不二さん)は

「 書籍部」に配属。

 

丸善・見習生(新人)としての日々は辛く

1週間位はトイレにこもって泣いていたという。

 

洋書を扱う店頭には、外国人客も多く訪れ

泣いてばかりはいられなかった。

 

不二さんは、早速こんな英語を覚えた。

 

 

 

 

 

「洋書は 2階に陳列してあります」

 

 

 

 

 

3日昼夜、その言葉を口の中で繰り返し、

接客の自信をつけ、外国人客を見つけては

次から次へ、洋書のある2階へと案内していった。

 

「英語は心臓と耳と口から」という、彼の信念は

この経験から生まれたのかもしれない。

 

明治40年(1900年)丸善京都支店が、三条麩屋町

開設されることになり、大幅な人事異動がおきた。

 

そうした人の動きの中、不二さんは、大阪支店へ。

 

それまで大阪支店の売り上げの4割を占めていた、

京都エリアが支店として独立したため、

新たな営業先を獲得する必要性が生じ、

不二さんは支店長・大塚金太郎氏と相談の上、

和書と文房具を中心に、新規顧客の獲得に乗り出す。

 

ついには、新天地を求め、大きな鞄に外国雑誌の見本誌を詰め、

本店に何も相談せず、中国・ハルビンや大連、

韓国・ソウルにも足を運び、ビジネスチャンスを掴む

ための模索を続けた。

 

なんとも思い切った行動である。

 

まだ飛行機などない時代。

 

神戸港から「天草丸」という古船に乗り、丸3日。

ある意味、命がけの営業活動だった。

 

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                          ▶︎ 天草丸 

外交官・杉原千畝が、6,000人にもおよぶユダヤ人たちの命を救うために

稼働させた船も「天草丸」 もしかしたら、同じ船かもしれない

 

 

 

 

パソコンもない時代。

顧客管理もまだきちんとなされていなかった。

 

新刊図書の情報は、毎月発行される

丸善のPR誌『学鐙』に添付されるのみ。

 

不二さんは、少しでも効果的な営業を行うため

カード式の華客名簿(よく買ってくれる人の名簿)の

作成を思いつく。

 

1度購入してくださった顧客の住所・氏名、並びに

購入された図書名をリストにし、新着書中から、

関連性のあるものを探し、あらかじめ、ハガキ、

または印刷物を作成して送付。

 

その中には、万人が好みそうな万年筆や

文房具、辞書などの情報も入れておく。

 

顧客に対し、個別に行う、効果的な宣伝活動。

いわゆるマーケティングに力を入れた。

 

そのほか、そのころまだ誰も手をつけていなかった

タイプライターや計算機などの、機械的事務機器に

着目し、自ら重役の中村重久氏に申し出て、掛け合い

それ専門の部署を新設してもらう。

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             ▶︎ 中村重久氏 ( 1859〜1918  )

      小柳津社長の勇退の後、4代目社長を務めた

 

 

 

 

たった3人だけの部署。

 

不二さんたちは、ローヤルタイプライターの

販売と修繕に力を注いだ。

 

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                       ▶︎  ローヤルタイプライター    

出 典;『ローヤルタイプライターの扱方と練習』(丸善株式会社編) 

 

 

 

 

 

深 謀 遠 慮

 

 

 

 

 

不二さんのこうした数々の頑張りを

認めてくれた人はいたのだろうか。

 

彼のバイタリティ溢れる仕事への取り組みを

その先見性を評価してくれた人はいたのだろうか

 

 

 

 

大正4年(1915年)10月 

 

 

 

 

12年間勤めた丸善を退社した不二さんは、

米国へと旅立つ。

 

在学中に出逢った、銀座の黒澤商店(現;株式会社クロサワ)

社長・黒澤貞次郎氏の計らいだった。

 

丸善時代に出合った、タイプライターのことを

もっと学ぼうと、ニューヨークやシラキュース、

ハリスバーグペンシルバニア州)にある

タイプライターの会社に行き、講習会に参加。

実務を学んでいく。

 

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▶︎ 『Syracuse Journal』(1915年2月3日発行)不二さんのことが掲載された

                             出 典;『圕とわが人生』間宮不二雄

 

 

 

帰国後5年間、黒澤商店に勤務した不二さんは

独立を目指し、資金作りのため、日中の仕事のほか

眠る時間を削り、近隣の会社のタイプライターや

ナンバリングの掃除、注油、修繕などをし、

翌朝に届けるという、アルバイトをした。

 

 

 

大正11年(1922年)

 

 

 

 

大阪北区木幡町に「間宮商店」を開店。

 

ついに、自分だけの図書館用品の店をスタートさせる。

 

ドイツや米国からカード裁断機、カード印刷機

などを買い入れ、自分の手で、図書館用品家具の規格化、

標準化にも着手した。

 

 

 

 

昭和 20年 (1945年)3月14日

 

 

 

大阪市を襲った、第二次世界大戦の空襲。

 

この「大阪大空襲」で、いままで努力して

積み上げてきたもの全てを失った不二さんは、

北海道への疎開を決める。

 

そこには、明治時代、女医となりながら

夫の志に寄り添い、診療所をしめ、

北海道開拓へと旅立った、母・八重がいた。

 

彼女はあれから未開の地で苦労を重ねながら

村医不在の町で、医師として村民の診療をし続けていた。

 

御年79歳、既に夫は他界。

 

電灯もない町でたった1人、

間宮牧場を経営しながらの生活。

 

ここで不二さんたちは2年間、

無収入の月日を送ることになる。

 

 

昭和26年(1951年)東京に戻った不二さんは

株式会社ジャパン・ライブラリー・ビューローを

を立ち上げ、再び、図書館用品の仕事を始める。

 

 

 

「本は持っているだけでは値打ちがない。

これを活用してこそ、はじめて値打ちがある」

 

 

 

 

晩年、自らの和書875冊、洋書258冊。

全1,133冊の蔵書を「富山県立図書館」へ寄贈。

 

亡くなるまで、日本の図書館の発展を願い続けた。 

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                        ▶︎ 間宮さんが詠んだ短歌のうちの1つ(直筆)

                   

                           丸善OBの会合で彼が仲間へ贈った歌。

           懐かしい仲間たちとの再会は、本当に特別なものだったと思う

 

 

 

バイタリティ溢れる、不二さんの人生。

 

しかしながら、もっと驚くべきなのは

母・間宮八重の人生かもしれない。

 

彼女は、再び東京へと戻った不二さんたちを

見送った後、88歳になるまで

半世紀近い年月を、北の大地で生き続けた。

 

不自由を不自由とも思わない、その心。

 

83歳になってから覚えた麻雀。

自転車にも乗ってみたいといった。

 

どんな苦難にも臆せず立ち向かっていく、その力強さ。

 

やはり2人は親子なのだとしみじみ感じた。

 

不二さんの母・間宮八重が天寿を全うしたのは、93歳。

昭和33年(1958年)1月12日のことだった。

 

明治を生きた女医・荻野吟子と間宮八重。

そして、その子息・間宮不二雄

 

3人に共通するのは、決してくじけない強い心だ。

 

「人生は、自ら切り開いていくものだよ」

 

そんなことを、言葉なく教えられた気がする。

 

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▶︎ 間宮さんの直筆サイン。中央のMは「間宮のM」「不二さんの富士」そして丸善の「M」だ

 

 

 

 

<編集後記>

 

 

私が生まれるずっとずっと昔に亡くなった祖父。

 

しかしながら、不思議と祖父と私とは類似点が多く

お互いの心がいつも近くにある気がしています。

 

昨年、祖父の告別式の写真を目にした時

たくさんの人たちの中、寂しそうな表情で立ち尽くす

間宮さんの姿を見つけました。

 

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▶︎ 祖父の告別式にて 写真中央が間宮不二雄さん(1967年4月2日)

 

 

 

祖父の最期の旅立ちを見送ってくれた、間宮さん。

 

困難な状況の中でも、常に創意工夫を繰り返す、

その熱い人生を知った時、過ぎ行く歳月の中、

埋もれてしまいそうな間宮さんの生きた時間を

旧友の孫である「私」がもう一度輝かせたい

そう思いました。

 

祖父の友人は、私にとっても

かけがえのない大切な友人です。

 

不二さん、本当にありがとう。

 

間宮さんのご家族や関係者の方が

いつかこのページを見つけてくださったら

本当に嬉しい、そう思います。

 

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                            ▶︎  間宮不二雄先生肖像   

                    出 典;『間宮文庫目録』(発行;富山県立図書館)

 

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<参考文献>

 

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

『圕とわが人生』間宮不二雄著(丸善OB・元日本図書館協会顧問)

図書館雑誌』1971年2月号 (日本図書館協会

『間宮文庫目録』1970年(富山県立図書館)

 

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祝『學鐙』創刊120周年 〜 北川和男 元編集長が繋いだ、親子三世代 その「心」と「絆」

 

昨年末の11月25日(金)熱海に新名所が誕生した。

 

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▶︎ JR熱海駅に登場した駅ビル、LUSCA熱海(ラスカあたみ) (2017年1月27日撮影)

                   熱海の名産から道中必要な医薬品・日用品までが揃う

 

 

 

 

 

LUSCA熱海(らすかあたみ)

 

 

 

釜鶴ひもの店を始め、あをき干物店、

老舗和菓子店の間瀬、わさび漬けのカメヤなど、

伊豆エリアの名店が一堂に会する、そのフロアー構成。

 

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▶︎  1階にはおみやげ・食品・惣菜、2階には雑貨、3階にはレストラン

           電車利用の人は、出発時間まで、ここでゆっくりできる。

      読書好きな私は「丸善熱海分店」がここに入って欲しいと願う

 

 

 

 

味わい溢れる、昔ながらの「熱海駅前商店街」と

是非ともセットで愉しんで欲しいと思う、

そんな新スポットだ。

 

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           ▶︎ 熱海駅前、レストランフルヤさんのポークジンジャー

熱々で美味しい、東京から時折、恋しく思う一皿(2016年2月20日訪問)

 

 

 

 

日本三代温泉地として、千数百年の歴史を持つ

東伊豆の玄関口、熱海。

 

徳川実紀』には、慶長9年(1604年)

江戸幕府を開いた、徳川家康公が7日間

湯治で逗留したという記録が残る。

 

明治時代には、三島由紀夫志賀直哉

谷崎潤一郎など、数多くの文豪に愛された

この街で、もっとも有名な文学作品といえば

やはり尾崎紅葉の『金色夜叉』だろう。

 

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          ▶︎『金色夜叉』の一場面をモチーフにした「貫一お宮の像」

 

 

 

 

 

15歳で両親と死別した、間 貫一。

彼には、鴫沢 宮という美しい許嫁がいた。

 

富豪で有名な、富山唯継の家で

開かれた、正月のカルタ会。

 

この席上で、人々の目を釘付けにしたのは

富山の指にキラリと光る、金剛石だった。

 

 

 

 

金剛石(ダイヤモンド)

 

 

 

貫一の許嫁だった宮は、富山に見初められ

また、宮もダイヤモンドに目が眩み、

貫一を裏切り、富山の元へと嫁いでゆくーー

 

熱海の海岸を舞台に、自分を裏切った宮を

罵倒するシーン、それがこの有名な

「貫一お宮の像」である。

 

 

 

 

明治 30年(1897年)1月1日

 

 

 

 

讀賣新聞』にて本作品の連載が始まると、

金剛石(ダイヤモンド)の存在が

広く人々に知れ渡る。

 

明治の世に、一大ブームを起こした

金色夜叉』著者の尾崎紅葉

 

その重篤が新聞に取り上げられたのは

明治36年 秋のこと。

 

その数日後、紅葉は、日本橋丸善に現れた。

 

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▶︎ 『金色夜叉』作者の尾崎紅葉(1868年〜1903年) 出 典;『丸善百年史』(上)

 

 

 

 

枯槁憔悴(ここうしょうすい)した姿。

杖にすがり、書棚を物色している。

 

その姿を見つけ、対応したのは

文芸評論家で丸善社員だった、内田魯庵

 

何を買い求めに来たのかと聞いた魯庵

紅葉は、辞書を買いに来たと言った。

 

「ブリタニカ大辞典が出たら、すぐ届けるから」

 

これが2人の最後の会話となった。

 

医者から3ヶ月もたないといわれた

身体を引きづりながら、日本橋丸善

訪れた紅葉は、その10日ほど後に

この世を去った。

 

 

明治36年(1903年)10月30日のことだった。

 

 

 

尾崎紅葉が『讀賣新聞』紙面上に

金色夜叉』を発表した、明治30年。

 

ある月刊雑誌が誕生する。

 

 

 

 

『學の燈』(まなびのともしび)

 

 

 

 

尾崎紅葉が、風前の灯火となりながらも

その向学心に背中を押されて訪れた、丸善

 

その丸善がPR誌として発行した雑誌。

それが『學の燈』(のちの『學鐙』)である。

 

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            ▶︎ 『學の燈』創刊号表紙 (明治30年3月15日発行) 

                 創刊号のこの図柄は、第43号まで続いてゆく 

                        出 典;『書物往来』 八木佐吉著 

 

 

 

 

新刊書籍のPRと文芸評論を兼ねた、1冊。

 

創刊号の奥付に記載された、編集兼発行人は

多門(おおかど)猶次郎。

 

初代編集長は、その後、明治34年に入社した

作家で文芸評論家の内田魯庵

 

夏目漱石森鴎外谷崎潤一郎ほか、

多くの作家たちの寄稿とともに

サマセット・モームトルストイなど

外国文学の数々が日本に紹介された。

 

当時の日本人が、初めて外国文学の存在を知る、

まさに、学びの燈(ともしび)だった。

 

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               ▶︎ 『學鐙』第9年第1号 表紙 (明治38年発行)  

巻頭には、夏目金之助漱石)『カーライル博物館』が登場した

                       出 典;『書物往来』 八木佐吉著 

 

 

 

 

『学鐙』元編集長の北川和男さんは

「梅の熱海 MOA美術館」と題し、

熱海の街で、有名な2つの「梅」について

こんな風に述べている。

 

 

 

「花の兄、梅の異名である。

春、百花に先がけて

気品高く咲くことからの謂であろう。

 

年が明けると熱海の梅林は

もうあちこちと開花、

 

ここは全国でも屈指の

早咲きとして名が高い」

『學鐙』(1986年2月号より抜粋)

 

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        ▶︎ 熱海梅園「梅まつり」2015年初日  (2015年1月10日撮影)

                          寒さの中、咲き誇る「熱海梅園」の梅の花

 

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     ▶︎「熱海梅園」は、明治19年(1886年)開園

樹齢100年を越す「王牡丹」をはじめ 「冬至梅」など古木が多い

 



 

「熱海にはもう一か所、見事な梅がある。

街の北、相模湾を見晴らす山の上に建つ

MOA美術館では、この時期に

光琳の傑作、二曲一双の屏風

<紅白梅図>を展覧している」

『學鐙』(1986年2月号より抜粋)

 

 

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           ▶︎ 尾形光琳紅白梅図屏風」江戸時代(18世紀) サイズ 各 156.0×172.2㎝

                                         出 典;MOA美術館 公式ホームページ

 

 

   

光琳が描いた、一双一対のこの屏風を

北川元編集長は 「熱海梅園」1万坪の梅林に対峙する、

それほどの存在感がある、と表現している。

 

 

 

福沢諭吉丸善創業者の早矢仕有的とも

交流のあった、教育者の棚橋絢子は

梅を深く愛したことで知られる。

(号・梅香、梅巷、梅庵)

 

寒い季節の中、力強く花を咲かせ、

最後には、しっかりと実を結んでいくーー

 

梅の木の強く生きる姿に、女性としての

あるべき理想の生き方を照らし合わせたのだろう。

 

性教育の大切さを訴え続けた彼女は

御年100歳まで、現役校長として教壇に立ち続け、

101歳で天寿をまっとうした。

 

その訃報は遠く海を越え、アメリカの日刊新聞

ニューヨーク・タイムズ』にも掲載された。

 

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▶︎  棚橋絢子女史(1839~1939)

            出 典 ; 愛知エースネット

 

 

 

昨年末、不思議な偶然が重なり

『学鐙』元編集長の北川和男さんが

私たち家族と深い縁(ゆかり)あることを知った。

 

和男さんのご尊父・北川鶴之輔さんは

私の祖父の旧友で、和男さんは、

父の会社の同僚。

 

双方の父子が知り合いだったのだ。

 

遠い歳月を越え、かつて親しくしていた、

2つの家族が再び 「いま」という、

この瞬間に繋がった、不思議な偶然。

 

いつまでも涙が止まらなかった。

 

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▶︎  丸善日本橋・洋書売場のメンバー(会田貞一郎さん、福崎好信さんほか)

 

            写真前列・右が編集長になる前の北川和男さん(筆者推測)

 後列・左の会田貞一郎さんは「丸善洋書部の大久保彦左衛門」とあだ名された

 

 

 

 

 

晩年の父は、毎月送られてくる『学鐙』を

とても愉しみにしていた。

 

封筒が届くと、すぐさまリビングから

自分の書斎へと消えていく。

 

全く感情を出さない父の背中から

それはそれは、嬉しそうな気配が漂っていた。

 

それは『學鐙』編集長が、親子2代でよく知る

北川和男さんだったからなのだろう。

 

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                                    ▶︎『学鐙』編集室にて  (平成3年撮影)

                 出 典 ;『 塔の旅 ー北川和男遺稿追悼集ー』 北川隆子 編

 

 

 

なぜこのタイミングで、この不思議な偶然に

出合ったのかはわからない。

 

もしかすると、『学鐙』創刊120周年の記念年に

祖父と父は、かつて親しくしていた、

北川さん親子のことを、私に伝えたかったのかもしれない。

 

こんな素敵な人が『学鐙』の編集長だったのだよ、と。

 

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北川さんは「六月の誕生石」の中で

真珠について、こう表現している。

 

 

 

 「自然の中で、人間とともに育つ宝石。

非情なまでの鋭いダイヤモンドの美しさに対して、

真珠のやわらかい肌の輝きは、

ひとの心を和ませ、豊かにさせてくれる」

『學鐙』(1988年6月号より抜粋)

 

 

 

金色夜叉』のお宮は、真珠の放つ

そのあたたかな優しい光に気づくことが

できただろうか。

 

北川さんの遺した文章の数々から溢れ出る、

その穏やかさ、繊細さ、心の優しさ。

 

人にとって、もっとも大切なものは

「心」だと伝えたかった、北川和男さん。

 

彼自身が、明治の世から長きに渡って続く

『學鐙』歴代編集長の中で、優しくあたたかな光を放つ

真珠のような存在だったのかもしれない。

 

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▶︎  隆子夫人のご厚意により、我が家にお嫁入りした和男さんの遺稿集は、私の宝物だ

 

 

 

  

<参考文献>

 

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

書物往来』  八木佐吉著(東峰書房発行)

『塔の旅』     北川和男著 北川隆子編

 

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Under the cherry tree 桜の木の下で 〜 急逝した丸善人 松下鐡三郎・領三親子を想う

JR東京駅から茅場町方面へと抜ける

約1キロほどの細長い道。

 

日本橋さくら通り」と呼ばれるこの通りは

その名の如くこの季節、美しい桜の花たちに包まれる。

 

物心ついた時から、毎日のように

この通りを母と歩いては、色々な話をし、笑いあい

丸善と髙島屋に向かっていたことを思い出す。

 

本が大好き、日本橋丸善が大好きな私は

放っておけば何時間でも丸善にいる、そんな子どもだった。

 

私たち家族にとって、言葉にできないほど

思い出溢れるこの通りに、今年も春が来た。

 

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▶︎ 日本橋丸善から臨む、東京駅方面。この通りも少しずつ様変わりしている

 

 

 

この街の通りに桜の木々が植樹されたのは

 

 

 

昭和31年(1956年)



 

更に遡ること20年前の昭和11年(1936年)に

最初の桜たちが植樹されるも

第二次世界大戦の空襲で焼失。

 

「戦争」という悲しい時代の記憶を乗り越え

日本の復興期、新たに植樹されたのが

現在私たちの目を愉しませてくれている

この桜たちだ。

 

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日本橋丸善は、長きに渡る歴史の中で

大きな経営危機を迎えたことがあった。

 

 

当時の社長は、二代目の「松下鐡三郎」

 

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        ▶︎  松下鐡三郎(1853〜1900) 筆者私物

 

 

 

三河吉田(豊橋藩士 松下半助の長男だった彼は

少年時代に通った藩校・時習館の教師であった

中村道太(のち横浜正金銀行初代頭取)を頼り

明治6年(1873年)に豊橋から日本橋へと上京した。

 

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 ▶︎ 中村道太(1836〜1921)  出 典;『丸善百年史』

 

東三河地方で初めての銀行である「浅倉屋積金所(つみきんしょ)」を設立。

政府の国立銀行条例に基づき、豊橋に第八国立銀行を設立した、愛知の偉人。

彼の功績を讃える顕彰碑「中村道太の碑」は、いまも豊橋公園に佇む

 

 

 

 

師匠である中村道太は、旧三河吉田藩江戸詰から

幕臣に取り立てられた有能な人物で

勝海舟福澤諭吉とも交流があった。

 

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   ▶︎ 勝海舟(1823〜1899)   出 典;Wikipedia

       

     一部の幕臣たちから「裏切り者」呼ばわりされることもあったという勝。

    それでも彼は、明治の世となり失業、路頭に迷った士族たちの救済を続けていった

 

 

 

福澤諭吉慶應義塾で学んだ中村は、

明治維新後、家禄を失い路頭に迷う武士たちを集めて

中村屋(洋物商)を創業する。

 

上京した門弟の松下鐡三郎が入社したのが

この中村屋だった。

 

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▶︎ 『天才相場師の戦場』鍋島高明著(河出書房新社刊)

 

松下鐡三郎の師匠・中村道太は「横浜正金銀行」ほか設立後、東京米商会所の頭取となる。

道太の人生に訪れた「光」と「闇」を、元日本経済新聞社・商品部記者の鍋島高明があぶり出す

 

 

 

 

 

 

明治7年 (1874年) 

中村屋「丸屋商社(丸善前身)」と合併

 

 

 

 

こうして丸屋商社の一員となった、松下鐡三郎。

 

明治13年(1880年)ロシア・ウラジオストク出張所で

主任として貿易関連業務に手腕を振るう中

突然会社から呼び戻された。

 

西南戦争に起因する、日本の赤字財政。

 

猛烈なインフレーションと

それに続く、デフレーション

 

こうした時代背景の中、

丸屋商社の屋台骨となっていた、丸屋銀行が破綻。

 

それは丸善にとって、絶体絶命の窮地だった。

 

丸屋銀行の負債額、約70万円

丸屋商社の負債額 約30万円

 

現在のお金に換算すると、約50億円の負債。

 

社長の早矢仕有的氏は、

丸屋銀行整理のため、退任。

 

その後任として白羽の矢がたったのが

松下鐡三郎だった。

 

支店を減らすことによる、経営規模の縮小。

 

丸屋銀行破綻後、丸善の金融を後押しした

「東里為替店」も一連托生だった。

 

この再建の途中、社長・松下鐡三郎は

47歳で病死する。

 

事態の責任を一身に受け、立ち向かった苦心の経営。

その苦労の数々が、彼を早々天へと連れ去ったのだろう。

 

丸善が完全に再建されたのは、松下が急逝した

翌年のことだった。

 

 

松下鐡三郎の突然の死から、9年。

 

ありし日の父の背中を追いかけ、

東京帝国大学(現;東京大学)法学部卒業とともに

丸善へと入社した、長男・領三氏。

 

丸善における、帝大出身社員第一号の彼は

その将来を大きく期待されたのだろう。

 

大正5年(1916年)には、取締役へと就任した。

 

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                ▶︎ 丸善株式会社本社社員集合写真(大正8年ごろ撮影)筆者私物

                前列左より)金澤末吉、松下領三、山崎信興、斎藤定四郎(本社重役陣)

 

 

 

大正15年(1926年)1月1日

 

 

 

 

そのころの丸善本社では、毎年元旦に

社員たちが集って「新年祝賀会」を行い

記念写真を撮影したものだった。

 

大正15年の年を迎えた、おめでたい日の帰り道。

 

本社を出た領三は、会社付近の市電乗り場で
走ってきた「東京乗合自動車」のバスに

撥ねられ、手当の甲斐なく即日死亡した。

 

42歳だったーー

 

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▶︎ 大正後期の銀座中央通りの様子。領三は、この先の停留所で市電を待っていた



原因はバスの運転手の飲酒。

泥酔状態だったという記録が残る。

 

松下氏の妻は、バス会社からの慰籍料を固辞。

 

今後いたましい事故が二度と起こらないよう

丸善社屋前の停留所に、セーフティゾーンを

設けるよう懇願したという。

 

突然愛する人を失った家族の深い悲しみ。

 

有能な幹部を襲ったあまりにも突然すぎる厄災は

当時の丸善社員たちの心を深く深く傷つけた。

 

私の祖父もその1人だった。

 

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自身の代表作となった『檸檬』の中で、

丸善を描いた梶井基次郎

桜の樹の下には』という作品の冒頭

こんな衝撃的なことをいっている。

 

 

 

 

桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。

何故って、桜の花があんなに見事に咲くなんて

信じられないことじゃないか。

(『桜の樹の下には梶井基次郎著より抜粋)

 

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               ▶︎ 『檸檬梶井基次郎著  左)角川文庫版 右)新潮文庫

ともに『桜の樹の下には』収録。筑摩書房からは『梶井基次郎全集』も発行されている

 

 

 

今年も「日本橋さくら通り」を彩った

美しい桜たち。

 

もちろんここに、梶井基次郎が思っているような

ものはなにも埋まってはいない。

 

この場所にあるのは、志半ばで命を失った

松下鐡三郎・領三親子の生きた時間。

 

丸善へ捧げた大切な日々と

ともに過ごした、仲間への深い愛情。

 

そして、筆舌に尽くしがたい深い悲しみを抱え

この街の交通安全をただひたすらに願い続けた、

松下一家の切なる思いだろう。

 

若くして大切な伴侶を突然に失った

夫人のその後の人生を想うと

本当に胸が痛い。

 

この場所に最初の桜たちが植樹されたのは、

昭和11年(1936年)のこと。

 

松下領三氏の悲しい事故から

ちょうど10年後の春だった。

 

その植樹のことを知らぬまま、領三の弟・末三郎も

叔父・包次郎もこの世から旅立っていった。

 

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▶︎ 領三氏を失って4年後の「丸善本社重役陣」(昭和4年撮影;筆者私物)

 

前列左より)松下末三郎(領三氏弟君)、金澤末吉、山崎信興、松下包(かね)次郎(領三氏叔父上)

山崎信興氏は、5代目社長。金澤末吉氏は、のち6代目社長となる人物である

 

 

 

 

 

過ぎ行く長い長い時間の中、

いまは誰も知ることのなくなった

こうした過去のできごと。

 

この街を彩る桜たちも、昨年「還暦」を迎えた。

 

約60年といわれる、ソメイヨシノの寿命。

 

どうか来年も、そのまた来年も

元気で美しい花を咲かせて欲しい。

 

この街を行き交う人々の目を愉しませ

柔らかな希望の光で、心を照らして欲しい。

 

 

 

 

 

Under the cherry tree

桜の木の下で  

いま遠く君を想う

 

 

 

 

すっかり葉桜となり始めたこの街の桜に

より一層の深い愛情を感じる春となったーー

 

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  ▶︎  日本橋丸善横の桜の木。正面左手が「日本橋髙島屋」

   平成21年(2009年) 百貨店建築初の重要文化財に指定された

 

 

 

<参考文献>

 

丸善社史』(1951年発行・丸善株式会社)

丸善百年史』(1981年発行・丸善株式会社)

 

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<秋の特別公開> 伊豆 修善寺庭園・東海第一園 〜夏目漱石 『ケーベル先生』と「初っさん」と

祖父が親しくしていた友人に

「福本初太郎」さんという方がいる。

 

通称「初っさん」

 

明治37年(1904年)4月1日。

 

日本橋丸善に入社した福本さんは、

後に丸善株式会社5代目社長となる、

山崎信興氏の元、仕事のノウハウを学び、

その後「万年筆」という名のルーツとなったといわれる、

洋書部・金澤井吉氏の部下となり、ドイツ書を中心とした、

「洋書係」をつとめた人物である。

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                                 ▶︎ 大正5年(1916年)撮影・丸善株式会社・集合写真より

 

前列左より、丸善3代目社長・小柳津要人氏、後に4代目社長となる、中村重久氏。

後列右から2人目が、丸善在職時の福本初太郎氏(筆者推測)

 

 

 

出逢ってから、50年以上。

 

祖父が先に天に召されるその日まで

2人は「温故会」の一員として

長きにわたり親しくしていた。

 

その福本さんが生涯「師」と仰いでいた人物がいる。

 

 

 

ラファエル・フォン・ケーベル

 

 

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明治26年(1893年)から大正3年(1914年)まで

東京帝国大学(現;東京大学)に在職。

 

ドイツ哲学、哲学史などの講義を行い

我が国における、哲学の黎明期に、多大なる影響を与えた彼は

 

東京音楽大学(現;東京藝術大学)でも

ピアノを教えるなど、あの滝廉太郎にも

大きな影響を及ぼしたという。

 

教え子の中には、文豪・夏目漱石もいた。

 

漱石はその著作『ケーベル先生』の中で

こんな風に記している。

 

 

 

東京帝国大学の文科生徒に

“ 一番尊敬する教授は? ” と尋ねると、

100人中90人は、 日本人教授をさておいて、

“ フォン・ケーベル ” と答えるだろう」

 

 

秋の紅葉を愛でようと、

伊豆・修善寺の町へと向かう途中

車窓に流れる景色を見つめながら、

そんなことを思い浮かべていた。

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                        ▶︎  伊豆・修善寺。正式名称「福地山修禅萬安禅寺」

この日も多くの人々が訪れ、参拝には絶えず行列ができていた(2016年11月27日訪問・撮影)

 

 

 

 

明治43年(1910年)、体調を崩した夏目漱石

療養のために訪れたのが、ここ修善寺温泉だった。

 

 

8月6日

十一時の汽車で修善寺に向ふ。

東洋城来らず、白切符二枚懐中して乗る。

岩波書店発行『漱石全集』第25巻 日記及び断片 中 より抜粋)

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東洋城とは、漱石の門下生で俳人の “ 松根東洋城 ” のこと。

彼の案内で、漱石修善寺の「菊屋旅館」へと向かった。

 

この静かな街で、読書をしたり、散歩をしたり

温泉に浸かり静養する筈が、漱石は胃痙攣を起こし

その後、2ヶ月あまり、床に伏す毎日を送ることになる。

 

 

四季折々に、趣ある修善寺の街。

中でも一番は、やはりこの秋の紅葉だろう。

 

 

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▶︎桂川から臨む、修善寺の門前。いつもより多くの人で賑わっていた

 

この日は、修善寺の庭園・東海第一園が

特別公開されていた。

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▶︎ <秋の特別公開>修善寺・東海第一庭園 ~2016年11月30日まで開催

 

 

日本赤十字社などの総裁として、社会福祉にも貢献した

皇族・小松宮彰仁親の別邸(静岡県三島市)を

明治38年(1905年)に拝領・移築したものが

この修善寺庭園の始まりといわれる。

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              ▶︎  修善寺庭園・東海第一園の中庭

               福地山 修善寺 公式ホームページより

 

 

下賜された建物は老朽化のため、

昭和初頭に建て変えられるも

庭園は当時のままの姿を残す。

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明治40年(1907年)、皇太子であった大正天皇

修善寺を訪れた際、この庭園をご覧になり

「東海第一の庭園である」と仰ったことから

 

「東海第一園」と呼ばれるようになった。

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美しい錦鯉たち。

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大小の岩を積み、作られた見事な滝。

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▶︎  修善寺庭園の上からの景色。高低差に富んだ作りあることが、体感できる

 

伊豆の名刹が大切に大切に守り続けてきた、

由緒ある庭園での秋のひと時に、心が安らぐ。

 

桂川沿いの「竹林の小径」も色づいていた。

 

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紅葉の美しさよりも「今年は人が多い」という印象が強かった。

 

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10月11日(火)

愈(いよいよ)帰る日也。

雨濠々。人々天を仰ぐ。  

荷拵出来。九時出立の筈。

 

二月目にてはじめて戸外の景色を見る。

雨ながら樂し。

 

目に入るものは、皆新なり。

稲の色尤も目を惹く。

山々僅かに紅葉す。

秋になって又来しと願ふ。

岩波書店発行『漱石全集』第25巻 日記及び断片 中 より抜粋)

 

 

大量吐血し、一時は生死の境を彷徨う

危篤状態に陥った漱石は、東京に帰る道すがら、

馬車から見える、伊豆の秋の風景を目にし

来年の秋にも、またこの場所に来たいといった。

 

目にするものすべてを新鮮に感じ、

生きていることの素晴らしさを実感すると同時に

 

自然の移り変わりの中、それに抗うことなく、

寄り添うように生きる植物たちの姿に

「なにか」を感じたのだろう。

 

 

「小さな私を捨て、身を天地自然に委ねて生きる」

 

 

漱石が晩年至ったこの「則天去私」の文学観。

 

そのターニングポイントになったのが

この修善寺の町であり「修善寺の大患」だった。

 

漱石同様、ケーベル先生を敬愛し続けた

福本初太郎さんのことを

小説家・詩人の武者小路実篤

こんな風に記載している。

 

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「その時分、丸善には、僕達が『初さん』と

呼んでいた、若い気が利いた、要領のいい、

親切な店員がいたので、この人に頼んで、

西洋からとってもらった」

(『学鐙』昭和27年1月号掲載「丸善の思い出」より抜粋)

 

 

この「初さん」こそ、福本初太郎さんである。

 

文学愛好家であると同時に、美術愛好家であった

武者小路実篤は、ある日、丸善から取り寄せた

ドイツの芸術雑誌の中で、

若い芸術家に影響を与えているという、

ゴッホなる人物の名前を目にする。

 

どんな絵なのだろう、そう思った武者小路は

早速「初さん」を呼び寄せ、日本橋丸善を通じ

印象派」というタイトルの洋書を取り寄せた。

 

到着したその本の中の口絵をみて、

異口同音にこういっただろう。

 

 

「これがゴッホの絵か」

 

 

その中にいたのは、志賀直哉柳宗悦岸田劉生たち、

白樺派」の面々だった。

 

こうして、ゴッホの絵画と出合った白樺派

「白樺美術館」構想を練り、なんとか

ゴッホの絵を日本に購入しようと、意気込む。

 

結果、当時「白樺派」のパトロン的存在だった、

彼らの友人・実業家の山本顧彌太が

ゴッホの「ひまわり」を当時2万円で、

白樺派」の面々は、ゴーギャンの絵を6千円で購入。

 

日本にはじめてやって来た、

ゴッホゴーギャンの絵画。

 

間接的ではあるも、このできごとは

丸善の仲介によるもので、

我らが「初っさん」の頑張りがあったからなのだとわかり

美術好きの私は、なんとも言えない気持ちになった。

 

こうした背景があり 「初っさん」は

白樺派の人たちと交流を深め

『白樺』創刊前から、あれこれ相談を受けたのだった。

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                         ▶︎ 1910年4月創刊 雑誌『白樺』創刊号の表紙 

 

 

度々その「編集会議」にも出席し、

麻布の志賀直哉邸や麹町の柳宗悦邸まで

出向き、校正作業の手伝いをしたこともあったという。

 

編集者は、信頼ある人物にしか

掲載前の原稿を見せないし、校正など任せない。

 

「初っさん」あなたは、どれだけ信頼されて、

どれだけ多くの人たちに愛されたのーー。

 

知らなかったよ。

 

溢れ出る思いと同時に、祖父の親友「初っさん」が

その昔、私の愛し暮らすこの街へと『白樺』の校正作業のため

足繁く通っていたことがわかり

その不思議な偶然に涙が止まらなくなった。

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                                                         ▶︎「温故会」のメンバー(昭和31年12月撮影)

                                               

            前列左より)斎藤哲郎 、伊藤四良、日下定次郎、玉井弥平

           後列左より)間宮不二雄、福本初太郎、井上清太郎、五十嵐清彦、木内憲次

 

 

昭和31年12月19日、第四回「温故会」の集まりが

浅草・米久で開催された。

 

米久は、詩人・高村光太郎も愛し、

その詩「米久の晩餐」で詠んだ、

浅草にある、牛鍋の老舗である。

 

まだ若く、お肉をたくさん食べたい時に

皆で何度も来た、懐かしい思い出の店だった。

 

割り下を入れた鍋のことを忘れ、焦げつかせてしまうほど

お互い元気で、また会えたことを喜び、笑い、語り合った。

 

その際、全員で作成した寄せ書きに、

福本さんは自身が得意とした「囲碁」を引き合いに、

こんなメッセージを残している。

 

 

囲碁十戒」

 

 

それは囲碁に必要な「心得」としながらも

人生を生き抜く上で、大切な教訓ばかりだった。

 

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「要の石を捨てるな」

 

 

福本さんの生きた人生は、2度に渡る世界大戦、

そして関東大震災などが起きた、大変な時代だった。

 

病気療養のため、日本橋丸善を退社した後は、

神奈川県平塚市にあった「海軍火薬廠」に

奉職したこともあった。

 

次々遭遇する困難の中、「要」となる石を抱き続けた

福本さんは、大正15年 (1926年)9月、東大・赤門前に

ついにドイツ書販売の「福本書院」を開店させる。

 

若き日に日本橋丸善で出合った、「洋書販売」という仕事を

生涯に渡り貫いた福本さんは、こんな言葉で、

大切な仲間たちへのメッセージを締めくくっている。

 

 

「明治三十八年夏頃、立小便の廉により

全弐拾銭(?)の科料に処せられたる以外、賞罰なし」

 

 

このユーモアのセンスこそ、福本さんが「白樺派」の

面々に愛された理由かもしれない。

 

福本さんの残した人間味溢れる、

あたたかな言葉の数々は、

遠い遠い歳月を乗り超え、親友の孫である

「私」に勇気を与え続けている。

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<参考文献>

 

丸善百年史』 昭和55年(1980年)発行

 

 

 

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