< 太平洋戦争と丸善 3 > 戦禍の丸善福岡支店を生きた社員たち 〜 書籍「 売上スリップ 」を生み出した 斎藤 哲郎 “ 民間書誌学者 ” として丸善に捧げた57年の「 時 」
明治の昔、土蔵時代の丸善に入社した社員たちの
多くが通った英語学校が築地居留地にあった。
「 サンマー英語学校 」
この学校名( ほか サンマー学校 )は通称で
正式な名前は「 欧文正鵠学館 」といった。
明治初期にできた、社交の場
「 鹿鳴館 」
そこで必要とされる、社交のエチケットや
音楽・ダンスなどを学ぶ者も多くいたという
それはそれは、とても有名な学校だった。
木造二階建ての土蔵造りで 「 Z.P.MARUYA 」の看板が掲げられた社屋。
座売り式で帳場格子があり社員たちは縞の衣類に前掛けをかけたスタイルだった
明治 44年( 1911年 )
福岡の地へ支店を設けることにした、丸善。
日本橋本店から遠く九州・博多の地へと
送り込まれたのは「 栗野 彬 」「 渡辺 格士 」の両名。
前者は、本多岡崎藩家臣団の1人・栗野氏の末裔で
丸善3代目社長・小柳津 要人の甥。
明治 36 年( 1903年 )から翌37 年にかけて
前述の「 サンマー英語学校 」に通い
新しい時代を生き抜くための「 英語 」という
武器を手に入れた有能な人物だった。
その栗野が様々な事由により
再び日本橋本店詰めとなった際
入れ替えに福岡支店へと異動命令が出たのが
丸善創業四人衆の 1 人・大塚 熊吉の長男である
大塚 金太郎( 当時京都支店長 )と
この「 私 」五十嵐 清彦だった。
それから幾年かの月日が過ぎ
軍靴の音が近づく頃
福岡支店長となったのが「 私 」の入社以来の
先輩であり旧友の斎藤 哲郎である。
▶︎ 日本橋本店広告課課長時代の斎藤哲郎
( 昭和3年6月撮影/入社25年目;40歳のころ )
写真前列左より)松本 茂雄、堅田 悠久、斉藤 哲郎
写真後列左より) 小柳津 宗吾( 丸善3代目社長・小柳津 要人長男 )
宮内 清二、平野 新次 ( 丸善本店洋書部+広告課の面々)
昭和 19年( 1944年 )2月
度重なる空襲の類焼で消失した
丸善福岡支店の焼け跡に
支店長 斎藤の姿があった。
空から次第にちらついてくる、白い雪。
彼と支店の社員たちは無言のまま
誰からともなく焼け跡の中に残る商品を
少しずつ拾い集めはじめた。
数日後、支店は中心部の川端町に移り
書籍・文具・洋物と分散し、仮営業を開始。
▶︎ 戦前の「 丸善福岡支店 」
その頃は書籍の入荷などは配給で限られていたものの
書籍課には課長を筆頭に若手女性社員たちも在籍し
戦争を感じさせない華やかさがまだあった。
時折、板付( 現;福岡空港付近 )の農場へと
社員全員で勤労奉仕に出かけながら
支店での仕事を行う日々を過ごすうち
戦争は日増しに苛烈となっていき
度々頭上に空襲を知らせる
不気味なサイレンの音が鳴り響くようになっていった。
▶︎ 日本上空を旋回した米国のB29戦闘機
出 典;『 西日本新聞 』2020年7月27日付
仕事中に次第に近づいてくる、敵機の爆音。
書籍係だった、松尾 玉江は
福岡支店次長の濱田 幸太郎らと
じっと息を殺し店内に身をひそめた。
昭和 20年( 1945年 )
6 月 19 日
夜11時から2時間にわたる空襲があり
博多の4分の1が灰となった。
「 福岡大空襲 」である。
上空には米軍のB29爆撃機221機が飛来し
博多や博多港沿いの都市部を中心に
焼夷弾を次々と投下。
( 九州大学名誉教授・藤野 清次先生による AIでのカラー化写真 )
出 典;『 西日本新聞 』2021年6月18日付
未明まで続いたこの空襲で
少なくとも2千人が死傷・行方不明となり
約1万4千戸超が焼失した。
▶︎ 空襲で焼け野原となった福岡市中心部/1945年6月20日の様子
( 九州大学名誉教授・藤野 清次先生による AIでのカラー化写真 )
出 典;『 西日本新聞 』2021年6月18日付
翌6月20日の燃えるような炎天。
焦土は猛烈な地熱でむせ返り
焼死した人々の異様な臭いが充満していた。
家を焼かれた人々、肉親を失った子どもたち。
街を右往左往する、数多くの罹災者たち。
松尾は丸善の焼け跡まで行こうとするも
焼け落ちた瓦礫ですぐに道は塞がれ
行き詰まってしまった。
その後、中心部から離れた唐人町に
小さな店を借り、福岡丸善は営業を再開。
二階は畳敷の日本間。
裏庭には紅い夾竹桃が青い夏空に揺らいでいた。
6月〜9月( 夏季 )に開花する、インド中近東原産の常緑中低木。
作家・太宰 治が昭和10年から11年秋にかけて暮らした船橋の街に
いま現在も太宰自身が植えた夾竹桃の木が元気に生き続けている
この頃には召集や徴用で福岡支店の社員は
もう14〜15人位しか存在しなかった。
次第に弱気になっていく社員たちに
支店長の斎藤は毅然としてこう言った。
「 例え濱田君( 当時の支店次長 )と
2人だけになってしまっても
福岡支店の営業は続ける。
店がなくなっても大八車で営業する 」
▶︎ 長きに渡って福岡丸善を支えた、濱田 幸太郎ほか丸善社員たち
( 昭和3年/1928年撮影 )
写真前列左より)町田 英一、濱田 幸太郎、吉村 慎輔
写真後列左より)安東 健次郎、西口 一美、田崎 馨
この力強い言葉に鼓舞された
福岡支店の社員たちは
一人またひとり立ち上がり
店先に僅かな古書を並べながら
全員で心を合わせ、烈日と空襲
そして飢餓の中を必死で生き抜いていった。
昭和 20年( 1940年 )
8 月 15 日
斎藤を始めとする、福岡支店の社員たちは
唐人町の店の二階の畳の上に起立し
▶︎ 玉音放送後、皇居にひれ伏す人々( 1945年8月15日 )
出 典;『 西日本新聞 』連載 「 戦後70年 」
満州事変から日中戦争、太平洋戦争と拡大した14年に渡る戦争は
約310万人もの命を奪い、筆舌に尽くしがたい悲しみと苦難の日々を人々に与えた
皆頭を深く垂れ、絶句したまま。
形容しがたい感情が一体を包み込み
皆の頬を幾粒もの涙が伝っていった。
▶︎ 「 丸善福岡支店社員一同 」
前列左より )笠 熊雄、1人おいて、笠 登真利、高橋 誠、 佐藤 五夫、斎藤 哲郎、濱田 幸太郎
松尾 玉江は、昭和23年( 1948年)撮影と回想しているが
斎藤 哲郎支店長の姿が中央にあることからそれより以前の
昭和21年 ( 1946年 )の集合写真と思われる
それから20年後の8月15日
松尾 玉江はこんな歌を詠んだ。
「 祖国敗れ蝉声激し終戦日
万の虫啼く敗戦記生々し 」
▶︎ 丸善福岡支店社員集合写真( 1/3 枚中 )
( 1956年撮影/ほか2枚集合写真あり )
写真前列左より)佐伯 久雄、宮生 一夫、高橋 誠、安東 健次郎、西口 一美
杉 健(丸善福岡支店長 )尾崎 定、長沢 義人、笠 登真利、笠 熊雄、安永 徳一
写真後列左より)松尾 玉枝、和田 芳子、宮本 敦、安東 俊雄、城戸 基、青木 武俊
野田 耕造、魚住 静恵、宮本 マサ子、松井 和子
戦後、再び東京・日本橋本店へと戻った斎藤は
入社以来、ストック係や洋書を担当してきた
その実績を活かし、1冊の本を発行する。
『 Maruzen Decimal Classification Table 』
▶︎ 『 Maruzen Decimal Classification Table 』見返し部分
明治43年( 1910年 )頃、一度取引のできた
顧客との関係性と長く保つ為
新着図書の案内を常時に出すことにした、丸善。
その方式は「 メーリングリスト 」( カード式 顧客名簿 )
取引のあった顧客の住所と氏名、購入した書籍名などを
書き込んだカードをあらかじめ作っておき
新着書中から関連性のあるもの並びに
特に販売したい図書や文房具など
この「 メーリングリスト 」を参照しながら
ターゲットを絞り込み、ハガキまたは印刷物で
ダイレクトメールを送っていく。
この時、名簿カードを分類別に組み
統一をはかるための「 分類法 」が必要となった。
図書の分類と得意先名簿の作成をしながら
明治44年( 1911年 )生み出されたのが
『 Classification in 8 classes 』
洋書を主とし、和訳も加え
主題のABC順に索引を附したもので
斎藤のほぼ同期とも言える
間宮 不二雄( 当時;大阪支店勤務 )の指示のもと
「 私 」が複写用として2通清書し
1つを京都支店に、もう一方を福岡支店へ。
これを全社で共有・活用した。
同じ頃、日本橋本店の斎藤は
ルーズリーフ形式で
「 ストックブック 」を作成。
顧客がどんな本を求めているのか
大いに役だったこの分類法だったが
戦争を経て失われてしまう。
その再作成のため、立ち上がったのが
斎藤 哲郎その人だった。
自ら表と索引の原稿をタイプライターで作成。
そのまま写真石板に附していく。
実に地道で根気のいる作業の繰り返し。
斎藤は日々タイプライターに向き合いながら
大小合わせて千もの項目からなる
「 この冊子のドイツ語版、フランス語版
日本語版を是非作りたい 」
斎藤は疲れも見せず
嬉しそうに目を輝かせてそう話し
周囲を驚かせた。
彼はまた、全国どこの書店でも
当たり前のように使用されてきた
書籍の「 売上スリップ 」を
生み出した発明者でもある。
▶︎ 書籍の「 売上スリップ 」( 横向き/広げた形 )
出 典; Wikipedia
明治の入社以来、ストック係だった斎藤は
その在庫管理に日々悩まされていた。
まだ、パソコンもない時代。
試行錯誤する中で彼が思いついた方法。
それは入荷日や部数を記載した
書籍カード( 売上スリップ )を本に挟み込むことだった。
本が売れた時に書籍カードを引き抜いておけば
誰が見ても一目瞭然、その在庫状況がわかる。
仕事を通じて得た彼のアイデアは
丸善の在庫管理に大いに貢献。
次第に全国の書店にも広がり
当たり前のように浸透していった。
▶︎ 斎藤 哲郎( 大正5年1月撮影/28歳のころ )
日本橋本店のストック係として書籍の「 売上スリップ」を開発したころ。
写真左;山崎 民雄( 洋書部所属 )丸善5代目社長・山崎 信興養子。
八木 佐吉らの上司として長きに渡って丸善洋書部で活躍した人物。
「 東洋文庫 」設立にも尽力『 ぎやど・ぺかどる 』入手時のメンバー
先に「 私 」を見送ってくれたテツロウさんが
いつまでお元気だったのか「 私 」にはわからない。
ただ1つ確かなことは、彼が度重なる戦争や
未曾有の震災の中、長きにわたって
丸善で懸命に生きてきたという事実。
明日あなたが丸善店頭で気になる1冊に
そっと手を伸ばしたならば
ページが繰られるその瞬間を
本の間でじっと待っている
「 売上スリップ 」という名の
小さな “ テツロウさん ” に気づいて欲しい。
そして遠い昔、幾度もの困難・苦難を乗り越えながら
自らの使命を果たすべく黙々と57年の「 時 」を
丸善で弛まず歩み続けた「 斎藤 哲郎 」という
ひたむきな丸善人がここに存在していたことを
あなたの心の中にそっと思い浮かべてもらえたら━━。
▶︎ 『 Maruzen Decimal Classification Table 』を発行した頃の 斎藤 哲郎
( 1956年12月19日撮影/68歳の頃 )
斎藤 哲郎( TETSURO SAITO )
明治36年( 1903年 ) 5月 1 日 日本橋丸善に入社
昭和31年( 1956年 ) 勤続40年表彰
< 編 集 後 記 >
国立国会図書館で初めてテツロウさんが手がけ遺した
『 MARUZEN DECIMAL CLASSIFICATION TABLE 』 の現物を手にした時
そのページボリューム、重厚さ、緻密さ、誇らしく光る
「 MARUZEN 」の文字に思わず言葉を失い
1 人目頭が熱くなりました。
小さなテツロウさんがその背中を丸め
懸命にタイプライターへと向き合い
ただ黙々と1人打ち込み続けるその姿が
いままさにすぐ目の前に見えた気がして
そこにある「 心 」を抱きしめたくなりました。
明治2年( 1869年 )の開店以来
明治維新という名の大変革を迎えた
日本の国のあゆみとその発展のため
ひらすら裏方に徹し支え続けてきた、丸善。
その丸善の中で「 さらなる裏方 」として
57年もの間、創意工夫を重ね
大変な状況の中、仕事と向き合ってきた、テツロウさん。
『 MARUZEN DECIMAL CLASSIFICATION TABLE 』は
薄紙を重ねるように日々努力し続けながら
懸命に生きてきた、テツロウさんの人生そのものです。
終戦から78年目を迎えた、今年の8月15日。
度重なる戦争の困難苦難に立ち向かいながら
テツロウさんを中心に福岡丸善を支えた当時の社員の方々と
“ いま ” という時代を生きる、そのご家族・末裔の方々
そして今日この瞬間も店頭で頑張っている
丸善福岡支店の方々に向け、当記事を掲載いたします。
令和5年( 2023年 )8月15日
マルゼニアン
< 参考文献 >