「東洋文庫」と丸善 〜 その設立までをともに歩んだ丸善「洋書係」八木佐吉と櫻井喜代志
▶︎ 明治大正期には、こうした迷子札を子どもに持たせた
古文書と併せて確認したところ
古い時代の家族が長く暮らしていたこと
がわかった。
▶︎ 文京区が街の各所に設置している「旧町名」の看板(2016年2月13日撮影)
父からは「ずっと本郷に住んでいた」としか
聞かされていなかった私にとっては
本当に大きな発見だった。
実に歩いて5分程度の場所だったのである。
地図上、上下に走る大通りが「本郷通り」赤い部分が「かつての我が家」
地図上部「駒込上富士前町」一帯が「東洋文庫」ができる、岩崎久彌邸(現;六義園ほか)
不思議な偶然はまだまだ続いていく。
それは、この「東洋文庫」が設立前から
私たち家族の歴史と切り離すことができない
「丸善」と深い関わりがあったということ。
そしてその中心にいた人物が、祖父と父の同僚で
丸善の歴史を後世へと遺した、八木佐吉だったのである。
▶︎ 八木佐吉(昭和40年撮影、人事部長のころ)
大正5年4月 丸善株式会社入社。書籍部次長、洋書整理部長・和書部長など歴任。
昭和40年9月から、丸善「本の図書館」館長に就任。以降、終生在任。
大正6年(1917年) 春
「キンさん」こと、栗本癸未(きみ)の
元に1人の客人が訪ねてきた。
▶︎ 栗本癸未(くりもときみ) ( 昭和7年撮影)
出 典;『書物往来』八木佐吉著(東峰書房)
明治16年生まれ、明治30年丸善入社。父・栗本米八郎は、江戸詰の旧岡崎藩士。
独学で英独仏の語学を習得、その他8ヶ国語に通じている、丸善の名物社員だった
その特別応接室にやってきたのは
詰襟の学生服を着た、石田幹之助だった。
卒業した石田幹之助は、帝大の史学研究室に残り
更なる研究に向け、意欲を燃やしていた。
その石田と深刻な顔で話し込む、キンさん。
テーブルの上には、分厚い書物のリストが置かれていた。
リストには40種類ほどの「マルコ・ポーロ」古版本や
中国関連の珍しい洋書の数々。
石田は、これらの書物の全体評価をキンさんの元へと
聞きにきたのだという。
そのリストを一目見て、キンさんは気付いた。
これは、北京にいる蒐集家、G・E・モリソンの
叢書ではないかと。
▶︎ G・E・モリソン(1862〜1920)
出 典;東洋文庫公式ホームページ
元医師。旅行好きだったため『ロンドン・タイムズ』記者となり、旅行記を手がける。
その後、北京特派員、中華民国総督府顧問となり、北京駐在20年。
職務の必要性から蒐集し始めた、中国関連の洋書。その数は、2万4,000点にのぼる
将来散らばさないこと
生かして利用すること
進んでより一層充実拡充すること
これがモリソンが自らの大切な
叢書たちを譲る条件だった。
漢文も欧文も読めるところへ
渡したいという希望もあり
ハーバード大学、カリフォルニア大学への
交渉もあったという。
こうした様々な背景があって
日本の三菱財閥・岩崎久彌の手に
おさまった「モリソン文庫」
現在の価値で約70億円。
一括購入だった。
▶︎ 岩崎久彌(1865〜1955) 三菱財閥3代目
出 典;Wikipedia
岩崎弥太郎の長男として誕生。福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入学する。
明治・大正・昭和と日本の産業界をリードするとともに、文化事業・社会事業にも貢献
岩崎久彌の代理人として、北京へと出向いたのは
石田幹之助たち。
▶︎ 小田切万寿之助(1868-1934)
出 典;東洋文庫公式ホームページ
明治期に日中外交に力を尽くした、外交官・銀行家。当時の横浜正金銀行・北京支店長。
「モリソン文庫」売却を知り、その重要性を見抜き、岩崎久彌の代理として購入契約を結んだ
受け渡しが完了したのは
大正6年(1917年)8月29日のことだった。
▶︎ 写真前列左から)小田切万寿之助、G・E・モリソン、石田幹之助
モリソンがつけた条件のうちの1つ
「 進んでより一層充実拡充すること」
これを遵守すべく、彼らが行ったのは
丸善からの優れた洋書の買い入れだった。
▶︎ 白鳥庫吉(1865〜1942)
出 典;Wikipedia
東京帝国大学文科大学史学科教授を歴任。
『東洋学報』創刊。「東洋文庫」設立に尽力した
「モリソン文庫」のほかに
丸善から買い付けた洋書
その数、3万5,000点。
その選定から納入までを
行ったのは、丸善「洋書係」の
メンバーたちだった。
▶︎ 昭和初期の丸善「洋書部」のメンバー(昭和3年7月撮影)
写真下段左より)大鐘大作、山崎民雄(洋書部部長)
写真上段左より)八木佐吉、高倉恭一
広大な敷地の一区画にできた
洋風の立派な新建築。
この場所にて開館式がおこなわれた。
「モリソン文庫」 2万4,000点。
「丸善からの洋書」3万5,000点。
「その他 漢籍」 2万点。
華々しい「東洋文庫」の誕生だった。
▶︎ 現在の「東洋文庫」外観
出 典;東洋文庫公式ホームページ
大正5年(1916年)に撮影された
丸善本社社員集合写真。
最も上段にまだ入社したばかりの
幼い八木佐吉と櫻井喜代志が
仲良く肩を並べて写っている。
▶︎ 「丸善社員本社社員集合社員」(大正5年撮影)
写真上段)左から2人目;櫻井喜代志、3人目;八木佐吉
同じ年に丸善へと入社した2人は
丸善新入店の「見習生」として
休みなく働き、夕方仕事が終わると
すぐに食事を済ませ、丸善社屋3階に
あった「丸善夜学会」と呼ばれていた
商業夜学会に出席していた。
▶︎「丸善夜学会」第1回卒業式記念写真
出 典;『丸善百年史』
写真上段左)3代目社長;小柳津要人、中段)5代目社長;山崎信興(前述「洋書部長」山崎民雄義父)
写真下段左)「丸善夜学会第1回卒業生」井上清太郎(祖父の旧友) ここにも諭吉スピリッツあり
1組30名程度、日本橋本店だけで
4組ほどあったという夜学校のクラス。
3年制でまず「英語」を学ぶ。
少し経つと「ドイツ語」「フランス語」へ。
簿記や商業に関する勉強も併せて習得していく。
とにかく試験が厳しく、落第していく者も
多かったという。
写真上から3段目)左から2人目;櫻井喜代志 4人目;八木佐吉 (蝶ネクタイの左)
お師匠だったキンさんから『ペリー日本遠征記』を買うようにアドバイスをもらったころ
こうした慌ただしい日常の中で
「東洋文庫」設立という
歴史の一幕に立ち会ったことは
人生で忘れることのできない
瞬間の1つとなったのではないかと思う。
▶︎ 中庭「シーボルト・ガルテン」から臨む「東洋文庫ミュージアム」
初めて訪れた瞬間から
その品格、歴史と伝統に
感銘を受けたこの「東洋文庫」
その設立の影に「丸善」が影ながら関わり
家族で長年に渡り、尊敬し続けた人物が足繁く
この場所へと訪れていたことがわかり
私にとって「東洋文庫」がより一層のこと
特別な存在になったことはいうまでもない。
▶︎「東洋文庫ミュージム」と「オリエントカフェ」とをつなぐ “ 知恵の小径 ”
遠い昔に持ち主を失い、忘れ去られた
「1枚の迷子札」がそっと繋いでくれた
長い歴史の中で すっかり “ 迷子になった ”
大切な家族の足跡、そして「東洋文庫」と
「丸善」との関わり。
昭和19年2月21日にキンさんが、翌20年3月21日に山崎さんが天へと旅立った
この不思議な偶然に感謝すると同時に
60年間、丸善に人生を捧げた祖父と
その背中を追い、ひたすら寡黙に生きた父
2人と同じ時代、書物に生きた八木佐吉氏、
櫻井喜代志氏ほか、すべての丸善人たちに
深い敬意を表し、この言葉を贈りたい。
▶︎ 来日した、英国・アレキサンドラ王女を「日本橋丸善」内へとご案内する
「洋書仕入部長」となった、櫻井喜代志。左は8代目社長・司 忠氏。(昭和40年9月)
<編 集 後 記>
クリスマスやお月見など四季折々の行事や
家族全員の誕生日パーティ、
庭で楽しむ夏のプールやバーベキュー。
家族で過ごす、そうした喜ばしい瞬間に
必ず登場する古いグラスセットがありました。
「古いからもう新しくしない?」と言った私に
「それは大切な方から結婚お祝いにいただいたものだから」
母はそう言い、亡くなるまでずっと大切に使い続けていました。
最近になり、祖父の手帖の中に、父の結婚式の詳細が
書き残されていることに気づきました。
当日の進行、出席者の名前。
その記載内容から、あのグラスセットを
贈ってくれた人物が、八木佐吉さんだとわかりました。
家族の笑顔溢れる、四季折々を感じる時間。
喜ばしい、お祝いの瞬間の数々。
その傍らに必ずあった、八木さんの
選んでくださったグラスたち。
「グラスセット 八木佐吉」
祖父の書き残した、小さな文字を目にした時
古ぼけた遠い家族の思い出が、一瞬で色を帯び
私の心の中に、あたたかな一筋の光がそっと
静かに差し込んだ気がしました。
出 典;『書物往来』八木佐吉(東峰書房)
<参考文献>
『紙魚の昔がたりーー明治大正編』反町茂雄 著 (資料提供;八木正自 氏)
『書物往来』八木佐吉 著(東峰書房) (資料提供;八木正自 氏)