約1世紀に渡り故郷を支援し続ける「丸善薬品産業株式会社」〜初期丸善人・須賀磯八の志
福井県北部。
この町に、日本に現存する天守の中で
最も古い建築様式を持つ城がある。
▶︎ 日本100名城・36番「丸岡城(坂井市丸岡町霞町1-59) 2017年5月4日撮影
その昔、加賀国 (現;石川県)で起きた
「加賀一向一揆」
その勢力に対する、防衛拠点の整備を
自らの甥である柴田勝豊に命じ
天正4年(1576年)に築城したのが
この丸岡城である。
大正中期から昭和初期にかけ、濠は埋められ、現在は本丸と天守、わずかな石垣が残る
明治維新時の「廃城令」に伴い
多くの町が旧体制の象徴である
「城」を失っていく中、生き残った丸岡城。
町のシンボルである「城」を守ろうと
戦中の昭和15年(1940年)大規模な
解体修理が行われることになった。
総工費 約6万6,000円。
(明治時代の1円=約1万円と仮定しても、6億6,000万円)
その費用の1/3以上を地元で負担しなければ
ならないという苦境に立たされた際
約2万8,000円余りを、たった1人で
捻出しようと申し出た人物がいた。
荒 田 太 吉 氏
▶︎ 荒田太吉 (1877-1965)
出 典;『福井新聞』2007年10月10日付
「天守復活 写真が語る」
遠く北の大地から、丸岡町に救いの手を
差しのべたこの人物は、北海道において
海運業で財をなした実業家。
彼はこの丸岡町の出身者だった。
明治10年(1877年)8月3日に誕生した太吉は
苦労の末、北海道へと渡り、小樽市に「荒田商会」を設立。
海陸物産、汽船会社、さらに造船、郵船会社を
創業するなどして、実業家になったのだった。
故郷を愛する熱い気持ち1つで「丸岡町」に
多大な支援をした荒田太吉氏。
それよりもっと以前から、生まれ故郷である
この町の小学校に長く支援をし続けていた
人物がいた。
須賀磯八(柳原権治郎)である。
▶︎ 須賀磯八(1835~1934)
出 典;『丸善百年史』
当時の丸屋商社は創業3年。
東京日本橋店は、2年前に開店したばかり。
この時点での日本橋店の所在地は、
三番地付近)だった。
手配で270円にて買い取り、大工の森本鶴吉が
丸屋善七名義にて丸善唐物店を開業した。
建築前のその場所を守るため、始終
留守番をしていたのが、須賀磯八だった。
当時の丸屋商社の社員は、後に日本初の
生命保険会社「明治生命保険」を創業させる
下記のような顔ぶれだった。
※明治8年(1875年)当時
横浜売場;書 店 小柳津要人(店名;要吉)
▶︎ 小柳津要人(1844〜1922 )旧岡崎藩士
3代目社長;明治33年〜大正5年
東京売場;書 店 三次半七(薬店兼務)
▶︎ 三次半七
出 典;『丸善百年史』
東京売場;洋物店 斎藤豊八
東京売場;洋物店 松下鉄三郎(店名;鉄蔵)
▶︎ 松下鉄三郎(1853〜1900) 旧豊橋藩士
2代目社長;明治18年〜明治33年
出 典;『丸善百年史』
東京売場;仕立店 高橋岩路
東京売場;指物店 服部源助
東京売場;得意係 須賀磯八
東京売場;帳面方 伊村克巳(店名;新一)
▶︎ 伊村克巳 (1841〜1895) 旧岩村藩士
出 典;『丸善百年史』
大阪売場;薬 店 瀬古宗七
大阪売場;書 店 松本一造
大阪売場;帳面方 鬼頭良助
京都売場;書 店 柴田安蔵
名古屋売場 田原近次
明治10年(1877年)2月
須賀磯八は、大阪支店に転勤。
心斎橋筋に医療機器の店を開店。
のち、明治8年(1875年)に分離独立
し開設された「丸善薬店」と合併し
営業していく。
明治28年(1895年)3月
7,900 円でこれを須賀磯八に譲渡。
こうして大阪の丸善薬店は完全に独立した。
以降、昭和12年(1937年)株式会社に組織を改め
と称し、現在に至る。
▶︎ 丸善薬品産業株式会社 (大阪市中央区道修町2-4-7 )
出 典;丸善薬品産業株式会社公式ホームページ
須賀磯八は、日頃から故郷を思い
約100年、1世紀に渡り、故郷・高椋の
子どもたちを支援し続けている。
出 典;Wikipedia
高椋小学校の校庭の大型遊具、グランドピアノ