丸善の窮地を救った男・金原明善 〜生涯を社会公共事業に捧げた、明治の実業家
全国有数の急流河川である天竜川は
諏訪湖を源流に、長野、愛知、静岡を通り
太平洋・遠州灘に注ぎ込む、長さ213kmの大河川である。
“ 暴れ天竜 ” の異名を取るこの川は
毎年雨季の訪れとともに氾濫を起こしては
付近の村々に甚大な被害を与えていた。
遥か昔の大宝元年(701年)より
その洪水の記録は残され
中でも最大の洪水として記録されたのが
正徳5年(1715年)に起きた
「未満水(ひつじまんすい)」
“ 満水 ” とは「洪水」のこと。
この年の6月17日から降り始めた雨は
翌18日早朝から豪雨となり、その後
土石流災害を引き起こし、死者33名を出した。
この天竜川流域の大地主の家に生まれた
少年・弥一郎。
彼もまた幼いころから、天竜川の恐ろしさを
目の当たりにしてきた1人だった。
5回もの大規模な決壊を起こした、天竜川。
洪水が起こるたび、多くの人命や財産を奪われる
この非惨な状況をなんとかしなければと
立ち上がったのが、幼名・弥一郎から
「久右衛門」と名前を変えた、のちの金原明善だった。
▶︎ 金原明善(1832〜1923) 出 典;Wikipedia
天竜川の治水事業、北海道開拓・植林事業など、近代日本の発展に尽力した
明治元年(1868年)37歳の明善は
京都の民政局(のちの内務省)に
右大臣・岩倉具視を訪ねた。
▶︎ 岩倉具視(1825〜1883) 出 典;「憲政五十年史 ; 画譜」
公武合体派として、和宮降嫁を推進するも、のちに倒幕派へと身を翻し大久保利通らと
王政復古のクーデターを起こす。新政府において「参与」 「大納言」「右大臣」などを務めた
根本治水についての懇願をしたことで
のちに「天竜川水防係」に任命されるも
役人たちは、議論ばかりでその後の進捗は
全く見られず、工事費用さえ捻出できない。
やむを得ず明善は、前代未聞の
民間からの資金借り上げを決行。
八萬円という大金を集めることに成功し
こうして天竜川の水防工事が始まった。
▶︎ 天竜川沿岸の村々
出 典; 『金原明善』金原治山治水財団 編
左が浜名湖、右側が御前崎方面。◉の安間村が明善のふるさとである
明治5年(1872年)新たに浜松縣が置かれ
明善は「天竜川普請専務」に任命されるも
できたばかりの明治政府のこと。
ことが全く進まない。
あてにならない明治政府や浜松縣。
「力」「知恵」「技」をかき集め
自分たちの力でなんとか立ち向かおうと考えた。
明治7年(1874年)
天竜川堤防会社を設立
(※ 翌1875年「治河協力社」と改称)
土地の人々や国に治水の必要性を訴え続け
自らの私財を投じ、治水工事に日々尽力。
やっとの思いで天竜川の測量をし
第一期の工事を終えたころ
政府から下りるはずの大切な資金が
半分以下に減らされてしまった。
百二十の村々を天竜川から守るための
本格的な治水工事をしない限り
沿岸の村々は、働けど働けど
この生活から這い上がることはできない。
明善は意を決し、日本初の「内国博覧会」開催で
多いに賑わう、東京・上野へと出掛けて行った。
▶︎ 東京・上野で開催された「第一回内国勧業博覧会」開会式の様子
出 典;国立国会図書館
西南戦争中の明治10年(1877年)内務卿;大久保利通の主導により開催された
明治10年(1877年)12月26日
遠州木綿の綿入れに、紋付羽織姿の明善が
自らの命をも捧げる覚悟の上で
面会に臨んだのは、時の内務卿・大久保利通だった。
▶︎ 大久保利通(1830〜1878)
出 典;Wikipedia
現在の内務大臣とは異なり
天皇に匹敵するほどの存在の内務卿。
いくら浜松の大地主といえど
おいそれと面会が叶う相手ではない。
大久保との面会が叶ったのは
長年にわたる、明善の天竜川に対する
苦労の様子がここまで届いていたからだった。
毎年雨が降るたび、天竜川は
手がつけられなくなるほど
恐ろしい状態になること。
一向に改善されない、沿岸に暮らす
百姓たちの生活の惨状。
ひとりでに溢れ出てくる涙を拭うこともせず
明善は必死で訴えた。
「おいどんは 日本の内務卿であって
浜松縣(現;静岡県)の県令ではない」
冷たく言い放った大久保だったが
明善は一歩も引かなかった。
ただ物乞いするためにここにきた訳ではないこと。
自らの命、先祖代々伝わってきた財産すべてを
投げ出した上で、それでも足りない分をなんとか
して欲しいのだと必死で訴えた。
まっすぐな強い瞳。
明善の不敵な面魂に大久保は心うたれた。
こうして、削減された工事費用の半分を
無事取り返した明善は、大久保との約束通り
自らの財産のすべてを売り払い、治水工事に寄付。
ついに無一文となった。
出 典;『偉人伝記シリーズ;この人に学ぼう2』(国文社)1967年
天竜川の治水工事の後、明善が手がけたのは「天竜川流域の植林」
明治18年から始めた植林は、のちに “ 天竜杉 ”となり、浜松の林業発展のきっかけとなった
国へと引き継がれ、政府直轄となり
肩の荷が降り始めたこのころ
明善に新たな心配ごとが浮上してきた。
治河協力社に届いた、1通の電報。
マ ル ゼ ン
アヤシ ウワサアリ ゴチウイ
仕事で上京した明善が自社の仲間たちに向け
うった、この不穏な知らせが
現実のものとなるのに、時間はかからなかった。
丸家銀行支払い停止。
同行は、丸善を支える屋台骨であると同時に
明善たち「治河協力社」の取引銀行であった。
8月16日午後6時
丸家銀行をなんとか存続させようとする
債権者たちだった。
九段坂写真館の写真師・鈴木真一
福澤三八(諭吉)代理の飯田三次
▶︎ 学生有志「散歩党」と称し、朝の散歩に繰り出す福澤諭吉
出 典;慶應義塾広報室
明治生命設立者・阿部泰蔵
水上瀧太郎は、阿部泰蔵四男。松下末三郎は、丸善2代目社長・松下鉄三郎の次男。
2人の父はともに、旧吉田藩(豊橋藩)出身の武士。小泉信三は、のちに阿部の娘婿となる
江戸から続く地本問屋の経営者・辻岡文助
大蔵権大丞で福澤諭吉の婿貞吉の養父・中村清行
秋田藩の札差を務めた・吉川長兵衞
金原明善代理の小池太代二
明治の幕開けとともに、日本の近代化に
力を尽くしてきた丸善のこれまでの功績を思い
絶対に潰してはならないと強く願った人たち。
“ 丸家銀行維持社 ” として、団結した彼らは
この日の会議で「東里為替店」を設立。
(※ のちに金原明善の個人経営となる)
債権の保金を図るとともに、この先
どこからも金融支援を断られ続ける
丸善へと資金を融通し続けた。
丸家銀行の破綻とともに、社長を退いた
早矢仕有的に代わり、もっとも苦しい時期に
二代目社長となったのは、旧吉田藩士
(豊橋藩)の松下鉄三郎だった。
▶︎ 丸善2代目社長・松下鉄三郎(1853〜1900) 筆者私物
藩校・時習館の教師であった、中村道太(のち横浜正金銀行初代頭取)を頼り
明治6年(1873年)に豊橋から日本橋へと上京。 店名は “ 鉄蔵 ”
松下のもとには、丸善の監理委員となった
小幡篤次郎や阿部泰造らが毎日のように訪れ
帳簿の調査を行い、取引上の事項につき詰問した。
彼らの出した整理案に基づき
丸善は次々と支店を整理。
こうして規模を縮小し経営するも
状況は好転せず。
日清戦争の不景気に伴い、会社の経営は
最悪の状態に陥った。
明治28年(1895年) 3月28日
丸善の重役だった小柳津要人は
「東里為替店」に明善を訪ね
根本的な整理実施の援助を求めた。
▶︎ 丸善3代目社長・小柳津要人(1844〜1922)
出 典;『丸善社史』
丸家銀行整理の際に、明善が同行から
譲り受けた債権は、約3万6,000円。
その後、丸善が経営困難を訴えるたびに
融資をしたため、累計額は9万円にもおよんだ。
当時のお金に換算し、5億円前後の金額であり
資本金7万円の「東里為替店」にとって
1社だけの貸付金額で、資本金をも上回る
この状態は、まさに背水の陣だった。
明善は、小柳津のこの頼みを聞き入れ
同年7月25日、令息・明徳と門下の
▶︎ 鈴木仁一郎(昭和35年4月26日卒)
出 典;『丸善百年史』
金原明善の門下生で「東里為替店」店員。のちに発足する「金原銀行」を守り立て
昭和4年(1929年)8月25日には、丸善の取締役に就任。同じく取締役の松下末三郎とともに任務にあたった
鈴木は、丸善の商品の棚卸しを実施。
首脳陣に、バランスシートの提出を求めた。
▶︎ 丸善建て直し時、金原サイドと支払いに関する「誓約証」を交わした、幹部13名のうちの3名
(写真左より) 竹本簾治、三次半之助、川村善之助 (筆者私物)
三次半之助は、父・半七(明治2年1月入社)子・健太郎と親子三代で丸善を支え続けた
写真は “ 丸家銀行破綻事件 ” から36年後の大正9年(1920年)に撮影したもの
33歳だった竹本は69歳に、21歳だった三次は57歳に、17歳だった川村は53歳となった
2カ年の収支を元に、1カ年の予算をたてた鈴木は
その計画を強行するとともに
経費節減のため、全従業員の給与の二割を削減。
株主への利益配当の停止を断行した。
鈴木の方針により、丸善の経営状態は回復。
明治32年度の決算において
それまで繰り越してきた損失残高を
完全に補填することができた。
▶︎ 丸善首脳陣から金原銀行(旧東里為替店)へと差し入れた契約証
出 典;『金原明善 』 金原治山治水財団 編
松下鐡三郎、小柳津要人、中村重久、山崎信興、斎藤定四郎ら、首脳陣の名がずらりと並ぶ
天竜川の治水工事、植林事業を始め
北海道開拓にも力を注いだ、金原明善。
彼はまた、旧中津藩士・川村矯一郎とともに
日本初の更生保護施設を手掛け
現在の「保護司制度」の礎を築いた人物でもある。
▶︎ 金原明善が川村矯一郎とともに設立した「静岡出獄人保護会社」
出 典;法務省公式ホームページ
八十歳で富士登山をし、人々を驚かせ
八十三歳でこんな歌を詠んだ。
八十や九十は子どもなり
鶴は千年 亀は萬年
八十三歳の子ども明善
大正10年(1921年)九十歳の時には
山駕籠で自らが植林した「瀬尻山林」へと登り
30年木となった、我が子同然の木々たちを見て涙した。
▶︎ 年をとった明善は、この山駕籠に乗り、各所を視察した
出 典;『偉人伝記シリーズ;この人に学ぼう2』(国文社)1967年
孫の巳三郎、曾孫の金二と長きに渡り
金原家の人々に見守られていった。
▶︎ 8代目社長・司 忠を囲む 丸善本社重役陣 筆者私物
前列左より)五十嵐清彦、永井彌惣兵衞、金原金二、司 忠.、井野礼二、吉田秀雄、田中辰次郎
後列左より)飯泉新吾、上田憲治、西土春次、佐藤五夫、伊達研三、渡辺英夫、三次健太郎
(※ ほか山本治郎も同時期の取締役;写真別撮り)
大正12年(1923年)1月14日
天寿を全うし、92歳で旅立った明善。
今日も生まれ故郷の「明善神社」から
静かに天竜川沿岸を見守り続けている。
出 典;『金原明善』 金原治山治水財団 編
毎年10月14日には「明善祭」が行われる
▶︎ 金原明善が愛用した妻・玉城の形見のバッグ
出 典;『偉人伝記シリーズ;この人に学ぼう2』(国文社)1967年
<編 集 後 記>
我が家に残された、さまざまな記録から
「金原金二」という人物が、精一杯の志を以て
旅立つ祖父を見送ってくださったこと
父の人生の門出をお祝いしてくださったことを
50年以上も経って、孫であり子である
「私」が知りました。
▶︎ 金原金二氏
そのことをきっかけに、金原家のことを調べる途中
私の宝物である「オヤイヅさん」を撮影した
明治の写真師 鈴木真一(2代目鈴木真一)が
破綻した丸家銀行の関係者であったとわかり
心臓が止まるほどに驚きました。
愛情深くやさしい瞳の、美しい小柳津さんの姿を
120年後のいまを生きる「私」へと伝えてくれた
鈴木真一は、内田九一や上野彦馬、師匠の下岡蓮杖よりも
愛してやまない、素晴らしい明治の写真師です。
それほど心惹かれる大好きな人物が、私の家族同様
丸善の歴史と深く関わり合う存在であったことに
なんだかとても不思議なご縁を感じています。
昨年夏、鈴木真一氏の末裔であるという方から
ご連絡をいただきました。
いつの日かその方に「九段坂 鈴木真一写真館」
“ 自慢の技術の粋 ” である、私の大切な「オヤイヅさん」を
直接ご覧いただきたいと思っています。
「オヤイヅさん」もその日を楽しみにしています。
95年前の本日1月14日に旅立った、丸善の救世主
金原明善氏および祖父と父がお世話になりました
巳三郎氏、金二氏に深く感謝すると同時に
明治33年(1900年)1月16日、48歳で旅立った
二代目社長・松下鉄三郎氏に哀悼の意を表し
当記事を掲載いたします。
<参考文献>
『 金原明善 』金原治山治水財団 編 丸の内出版(昭和43年発行)
『 偉人伝記シリーズ;この人に学ぼう 2 』 国文社(昭和42年3月11日発行)
『 実業少年 』第4巻 第7号 博文社 (明治43年6月発行)
『 オール生活 10(4)』 生活に光を捧げた人々(4)金原明善
和田 傳 著/堂 昌一画 実業之日本社(昭和30年4月発行)
資料提供;国立国会図書館