<丸善と美術界 ②> 洋画家 伊藤慶之助を支援した、福澤門下・武藤山治( 時事新報、鐘紡社長 )〜生涯に渡り続いた丸善との縁
昭和 9年(1934年)3月9日
儒教教育で育った、学究肌の山治の父・国三郎が
福澤諭吉という人物に興味を持ったのは
ある1冊の本との出合いからだった。
『 西 洋 事 情 』
▶︎ 『 西洋事情 』福澤諭吉著(尚古堂/1866年)
出 典;慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション
この本にいたく感銘を受けた国三郎は
自らの子息を福澤諭吉経営の学校へと
入学させることを決めた。
14歳の武藤少年は上京し
本塾に入るにはまだ年少な生徒のための
「 和田 塾」(のちの「 慶應義塾幼稚舎 」)に入学。
紀州藩士だった「 和田義郎 」夫妻および
和田氏の妹夫妻の4人で運営する学校は
当時生徒数20名ほどの家庭的且つ
アットホームな寺子屋のような学校で
定期的に生徒たちが行う「 演説会 」に
福澤諭吉も度々訪れては
様々な話をしてくれたという。
早矢仕四郎もおり、2人の間には交流があった。
出 典;『私の身の上話』
前列右から2人目が「 早矢仕四郎 」後列右から2人目が「 武藤山治 」
慶應義塾を卒業した武藤は
友人の和田豊治、桑原虎治とともに
一路、桑港( サンフランシスコ )へ。
▶︎ 武藤たちが乗った蒸気船「 City of Tokio 」
出 典;Wikipedia
この 3名の日本人青年たちを
まだ見ぬアメリカへと導いた人物。
朝吹英二が経営する「 貿易商會 」紐育支店勤務を経て
その後独立、桑港に雑貨店「 甲斐商店 」を開いた
中津出身の甲斐織衛だった。
▶︎ 甲斐織衛( 1850〜192 2)
中津藩士の子として江戸に誕生。明治2年慶應義塾に学び、卒業。
「 神戸商業講習所 」の校長を経て、明治18年「 甲斐商店 」を興す
サンフランシスコ/煙草製造工場での見習職工
食堂給仕などをしながら
希望だったパシフィック大学にて、学ぶ日々。
友人の中には、働き詰め・勉強のし過ぎで
健康を害し、突如命を落とした者もいたという。
働きながら学ぶ「 スクール・ボーイ 」としての苦しい経験。
それはその後出逢う、若き画家たちの支援へと繋がっていく。
▶︎ 武藤が学んだころの「パシフィック大学」のスケッチ
出 典; 「 國民會館 武藤記念ホール 」
3年間の留学を経て帰国した武藤を
待っていたのは「 就職難 」
仕事探しに奔走するも働き口は見つからず。
そんな折、アメリカでの出来事をふと思い出す。
米国の醤油店で働いていた際、店を訪ねてきた
“ 新聞広告取次人 ” なる人物。
店の広告を出す企画案や出稿料金などの説明を聞きながら
「 これを日本でやったらさぞ面白かろう 」
そんな風に思っていた‥‥‥
「 思い出したが吉日 」
武藤は、京橋弓町に暮らしていた
橘良平氏の協力を得て
銀座一丁目に「新聞広告取次所」の看板を掲げ
広告扱い業を開始。
同時に『 博文雑誌 』を創刊。
▶︎ 『 博文雑誌 』( 博文雑誌社刊 ) 毎月5日・20日発行
出 典;『 私の身の上話 』
当時は珍しかった雑誌、しかも月2回の発行形態。
斬新なアイデアと溢れ出るバイタリティに感服するばかり
これらの仕事に忙殺されながら
明治20年(1887年)9月には
『 米国移住論 』を丸善から出版。
精力的に仕事を進めていった。
▶︎ 『 米国移住論 』武藤山治 著( 丸屋善七;丸善 )奥付部分
同門の中上川彦次郎に招かれ
三井銀行に入行した武藤。
当時の三井銀行は経営危機の真っ只中。
井上馨の命を受けた中上川が
大改革に着手したころだった。
▶︎ 中上川彦次郎(1854〜1901)
出 典;「 Bibliographical Database of Keio Economists 」
中津藩士の長男として誕生。適塾を経て、明治2年( 1869年 )慶應義塾入学。
小泉信吉( 小泉信三の父 )とともにイギリス留学をした際、元老・井上馨を知る
武藤は、三井銀行の手中にあり
業績立て直しを迫られていた
「 鐘ヶ淵紡績會社 」の改革をすべく
翌年の4月17日同社へと採用。
▶︎ 「 鐘紡兵庫工場建築記念 」
出 典;『 私の身の上話 』
中央帽子の人物が元丸善社員の「 朝吹英二 」( 鐘ヶ淵紡績会社専務取締役 )右隣が「 武藤山治 」
朝吹は兵庫工場建設の任を受けた武藤を連れ、関西の紡績会社各社へ挨拶回りをしたという
「 兵庫分工場支配人 」として
関西を訪れた武藤はこの時、若干28歳。
同社東京本店支配人は、慶應義塾出身で
▶︎ 和田豊治( 1861〜1924 ) 中津出身
『 学問のすゝめ 』を福澤とともに著した、小幡篤次郎の推薦で慶應義塾に入学。
三井銀行、鐘ヶ淵紡績会社を経て、富士紡績( 現;富士紡HD )にて専務取締役を務めた
武藤が鐘ケ淵紡績社長になってからのこと。
とある人物との出逢いがあった。
幼いころからひたすらに画家を目指し
働きながら絵の勉強をずっと続けていた
若き日の伊藤慶之助だった。
▶︎ 洋画家・ 伊藤慶之助(1897〜1984)
出 典;『 伊藤慶之助遺作展 』
明治30年( 1897年 )6月14日。
大阪市東区で誕生した、伊藤慶之助は
大正3年( 1914年 )から赤松麟作の営む
「 赤松洋画研究所 」で絵の手ほどきを受け始める。
小学校の友人だった田中義定が
▶︎ 洋画家・佐伯祐三( 1898〜1928 )
出 典;『 没後80年記念 佐伯祐三展図録 』
人生の大半をパリで過ごしフランスで客死した佐伯。
ヴラマンクを思わせる彼の絵画には何ともいえない魅力がある
大正6年(1917年)上京し
「 本郷洋画研究所 」で岡田三郎助に師事。
日々懸命に絵と向き合い
九段の「 アテネ・フランセ 」で
フランス語を学んでは、博文館で仕事をする。
それはまるで若き日のアメリカでの
武藤山治のようだった。
▶︎ 「 赤松洋画塾 」の仲間たちと( 大正6年ごろ撮影 )
出 典;『 伊藤慶之助遺作展 』
前列左から3人目が伊藤慶之助、後列中央( 左から4人目 )が赤松麟作
その努力が実り、大正7年( 1917年 )
第5回「 二科展 」に「 静物習作 」が初入選。
関東大震災で「 本郷洋画研究所 」は全焼するも
第2回「 春陽会 」に「 机上諸果 」が入選。
鐘ケ淵紡績社長だった武藤山治と出逢ったのは
ちょうどこのころのこと。
慶之助に “ かつての自分 ” の姿を見た武藤は
この青年をなんとか支援しようと心を決める。
「 ルーブル美術館 」で
模写に従事すること
これを条件に武藤は伊藤慶之助に
フランス留学の費用を出す約束をした。
▶︎ 「 パリ北駅 」( 112, rue de Maubeuge 75010 Paris )
▶︎ 片山敏彦( 1898〜1961 )
時は「 エコールド・パリ 」の終わりごろ。
世界の至るところから若い画家たちが集まり
自由な芸術論を交わし
藤田嗣治、マリー・ローランサンなどが
個性的な画風を展開していた。
昭和4年( 1929年 )7月から
パリ郊外のフォントネ・オ・ローズで
農家の一軒家を借りて暮らし
多くの日本人画家たちが学んだ
「 アカデミー・コラロッシュ 」に通った。
▶︎ 「 フォントネ・オゥ・ローズ 」( 伊藤慶之助/1929年 )
出 典;「 生誕120年 伊藤慶之助 」西宮市大谷記念美術館
シスレーの色調を感じる作品に思わず胸がときめく
セザンヌの展覧会に何度も足を運び
ピカソの画集を買い込んでは
食い入るように見つめる日々。
ある日慶之助は、友人とともに
アンリ・マティスのアトリエを訪れた。
▶︎ アンリ・マティス( 1869〜1954 )1933年5月20日撮影
Photograph by Carl Van Vechten
マティスは慶之助にこう言った。
ラファエロをよく勉強するように 」
マティスからの “ 有難い助言 ” を胸に
カミーユ・コロー「 青衣の女 」「 ミューズ 」
▶︎ 本を読む花冠の女、あるいはウェルギリウスのミューズ
カミーユ・コロー作の模写( 伊藤慶之助/1931 年 )
出 典;「 生誕120年 伊藤慶之助 」西宮市大谷記念美術館
アングル「 グランド・オダリスク 頭部 」
▶︎ 「 グランド・オダリスク 頭部 」アングル作の模写( 伊藤慶之助/1930年 )
出 典;「 生誕120年 伊藤慶之助 」西宮市大谷記念美術館
ゴヤ「 扇子を持つ夫人 」
ワトー「 ジール 」と模写をし
その時代時代に誕生した
ヨーロッパ絵画の伝統と向き合い
芸術に明け暮れる日々を過ごした。
自分を信じ、フランスへと送り出してくれた
武藤山治への感謝の思いを胸にそっと秘めながら。
▶︎ アントワーヌ・ワトー「ジール」を模写する、伊藤慶之助
出 典;「 大手前女子大学論集 ルーブル美術館の模写画家について 」
昭和7年( 1932年 )帰国。
その年に開催された「 第10回春陽展 」に
「 室内読書 」「 巴里郊外の家 」など
滞欧作8点を出品。
▶︎ 「 サンマルタンの橋 トレド 」( 伊藤慶之助/1930年 )
出 典;「 生誕120年 伊藤慶之助 」西宮市大谷記念美術館
彼を支援した武藤山治もきっと
これらの作品を目にしたのかもしれない。
昭和14年( 1939年 )には
春陽会の会員に推挙。
▶︎ 「 伊藤慶之助のアトリエ 」
出 典;『 新住宅:brains & works for urban life 』
生きて会うことが叶わなかった
祖父の遺した手帖の中に
「 伊藤慶之助 」の名前を見つけた時
心臓が止まるほどに驚いた。
そして1人心が躍動した。
たった1つ手にしたパズルのピースを
大切に大切にぎゅっと握りしめ
伊藤慶之助の足跡を追いかけ始めた。
その途中「 武藤山治 」という偉大な人物を知り
彼の歩んだ人生を通じ、数年前に訪れた
中津出身の慶應義塾門下生たちにも再会。
そしてようやく「 彼 」の姿を
ここに見つけることができた。
▶︎ 「 丸善大阪支店社員集合写真 」 ( 大正元年〜大正3年撮影・筆者私物 )
大阪支店支配人;大塚金太郎
「 大阪府立中之島図書館 」前にて撮影された1枚。左上部3名の1番右の人物が「 伊藤慶之助 」
2列目左から3人目が8代目社長となる「 司 忠 」前列左「 五十嵐清彦 」前列右「 間宮不二雄 」
※ その他の仲間については、以下バックナンバーをご参照
koala555.hatenadiary.jp
丸善内で大幅な人事異動が起きた
明治40年( 1907年 )
1月に司 忠が、3月に間宮不二雄が
東京本店から大阪詰となった。
それから3年後の明治43年( 1910年 )9月。
祖父もついに大阪へ。
▶︎ 明治42年の「 大阪府立中之島図書館 」( 大阪市北区中之島1-2-10 )
出 典;Wikipedia
大塚熊吉の長男・大塚金太郎主導のもと
新たな仲間たちと協力し、大阪支店を盛り上げようと
日々アイデアを出し合い奔走した。
▶︎ 「 中之島風景 」伊藤慶之助( 西宮教育文化センター蔵 )
出 典;「 生誕120年 伊藤慶之助 」西宮市大谷記念美術館
右手には「 丸善大阪支店 」の仲間たちが記念撮影をした「 中之島図書館 」も描かれる
本を読むのが、人一倍早かったという武藤。
▶︎「 旧武藤山治邸 」の書斎の様子
Rest in peace