<丸善と美術界 ③> 岡田三郎助に学んだ洋画家・辻 永 〜山羊を愛した三兄弟が心に描いた “ 理想郷 ”
東京都渋谷区恵比寿三丁目。
サッポロビール工場跡地の再開発事業として
平成6年(1994年)に誕生した複合施設
「恵比寿ガーデンプレイス」にも程近いこの地区は
かつて「伊達町」と呼ばれていた。
江戸時代この付近にあった
その地名の由来。
幕末にこの伊予宇和島藩主を務め
“ 四賢候 ” として知られた、伊達宗城公。
▶︎ 伊達宗城公(1818〜1892)
出 典;Wikipedia
彼の愛娘・敏の冷息は、夏目漱石門下「松根東洋城」である
彼の四男は、その後「豊前中津藩」に養子入りをし
中津藩最後の藩主となった、奥平昌邁公である。
小幡篤次郎の勧めでアメリカ留学をした彼は
丸善の屋台骨・丸家銀行の頭取でもあった。
▶︎ 奥平昌邁公(1855〜1884)
出 典;Wikipedia
文久3年 (1863年)に奥平昌服の養子となり、豊前中津藩へ。
明治以降は、東京府会議員となり「東京府芝区長」(現;港区)も務めた
明治41年(1908年) 春
この「伊達町」(当時の町名;渋谷村下渋谷)に
1軒のアトリエが建てられた。
主(あるじ)の名は、岡田三郎助。
日本の洋画草創期を牽引した人物である。
▶︎ 岡田三郎助(1869〜1939)
出 典;ドキュメンタリー映画「あるアトリエの100年」
佐賀県出身。6歳の時に上京し、旧佐賀藩主・鍋島直大邸宅に身を寄せる。
そこで同郷・百武兼行の油絵と出合い、洋画に関心を持ち始める
「ジヴェルニー」や「バルビゾン村」などの
芸術家村がフランスに存在したように
日本にも「池袋モンパルナス」「田端文士村」ほか
芸術家たちが集い暮らした場所があり
この「伊達町」もその一つだった。
同じ年の8月のこと。
一人の青年が母と弟を伴い
岡田のアトリエの目と鼻の先に引っ越してきた。
東京美術学校を卒業し「白馬会研究所」で
絵を学んでいた、24歳の辻 永だった。
▶︎ 辻 永(1884〜1974)
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
熊谷守一、和田三造、青木繁らの在籍する「東京美術学校」へ入学する
父の任地・広島で、辻家三男として
九人兄弟の七番目に誕生した永。
三人の姉たちは既に夭逝し
次兄もこの年に亡くなったため
永の兄弟は、長男・泰と四姉・三重の2人。
この年の8月、潮来警察署長となった父に伴い
一家は茨城県へと移住。
新天地で誕生したのが末弟・衛だった。
▶︎ 辻家家族写真(水戸にて/明治24年撮影)
出 典;『 辻 衛 』
左より)父・永光、姉・三重、母・ムラ、長兄・泰、叔父
中央3兄弟左より)衛(4歳)永(7歳)光(5歳)
その後、茨城県立水戸中学校
(現;茨城県立第一高等学校)に進学。
このころから、草花の写生に興味を持ち始めた永は
将来「植物学者」か「画家」のどちらかになろうと志す。
そうした折に出逢ったのが
茨城中学に図画教師として赴任してきた
白馬会会員の丹羽林平だった。
永が人生で初めて目にした油彩画。
それは、丹羽の描いた一枚の肖像画。
キャンバスの中には、生糸貿易で財を成し
広くその名を知られた「原善三郎」の姿が描かれていた。
▶︎ 原善三郎(1827〜1899)
出 典;埼玉県神川町公式ホームページ
江戸後期から明治にかけての実業家・政治家。
原がかつて暮らした邸宅は現在「三渓園」として人々に親しまれている
その後、丹羽林平宅に同居し
絵の指導を受けるようになった永は
明治34年(1901年)3月、水戸中学校を卒業すると
岡田三郎助に師事。
▶︎ 「あやめの衣」(岡田三郎助/1927年)
出 典;ポーラ美術館
翌年、西洋画本科1年に進学し
「柳敬助」「和田三造」「熊谷守一」
「橋本邦助」らとともに共同自炊の生活を始めた。
▶︎ 東京美術学校時代の辻永(左から2番目)後ろが和田三造
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
東京美術学校西洋画科を卒業した永は
恩師・黒田清輝の勧めにより
同年12月25日、福井県立福井中学校
(現;福井県立藤島高等学校)に
図画科教師として赴任(任期1年)。
そんな彼の元に届いたのは
父・永光の死の知らせ。
その後を追うように、日露戦争から帰国し
水戸にて療養中だった長兄・泰もそっと旅立った。
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
黒田清輝(前列中央)を囲む、卒業生たち(後列右から2番目が永)
一家の大黒柱である、父・永光を失った永は
岡田三郎助がアトリエを構えた「伊達町」に
母のムラ、末弟の衛とともに移住し
「山羊園」を開く。
▶︎ 「永光舎 山羊園」の一画(大正9年3月撮影)
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
もっとも多い時で30頭の山羊たちと3人の牧童がいたという
永光舎 山羊園
亡き父の名に因みそう名付けられた
広さ660平米の「山羊園」で末弟・衛は
▶︎ 山羊たちの世話をする、辻 衛と妻・登美子(結婚後の大正5年撮影)
出 典;『 辻 衛 』
普通の人が考えつかないような
“ 何か新しいこと ” への挑戦をしていく
逞しい弟の背中を見つめながら
兄・永は山羊をモデルに絵の制作に没頭。
そうして出来上がった作品たちを
文展(文部省美術展覧会)や白馬会展
光風会展などに出品。
大正2年(1913年)次弟・光夫婦に同行し
哈爾濱(ハルビン)に1ヶ月滞在した際に描いた
描いたのは、地平線のかなたまで広がる農地。
遥か先までつながる一本道を
馬車に乗った農夫がこちらに向かってくる姿。
そしてそのキャンバスには「巨大な虹」が描かれていた。
「満州に行けば明るい未来が待っている」
観る者の多くに “ 理想郷 ” を感じさせる
政治的メッセージを含んだ辻渾身の作品は
大正天皇買上となった。(※ のち戦災にて消失)
▶︎ 「夾竹桃と山羊」(辻 永/1913年)
出 典;佐賀県立美術館
大正5年(1916年)
第10回文展に出品した「椿と仔山羊」
「林檎咲く」が文部省の買上となり
辻が “ 山羊の画家 ” として知られるようになったころ
末弟・衛は、悟るところあり「山羊園」を閉めた。
▶︎ 「椿と仔山羊」(辻 永/1916年)
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
哈爾濱に暮らす次兄・光の力を借り
露西亞雑貨店「ロシアや」を新たに始めるも
その後すぐに起きた、ロシア革命により
輸入できる物資がなくなり閉店に追い込まれる。
衛はそれでも諦めず、店を改装し
今度は「カフェロシア」を開店。
▶︎ 「カフェロシア」(東京・銀座三十間堀3-1)
出 典;『 辻 衛 』
前列右が辻衛(大正7年撮影)
銀座の通りに掲げられた大きな看板。
店内に並ぶ、更紗やウォッカの瓶。
本国から招いた、ロシア美人の店員の姿。
そして何とも珍しい「ロシアスープ」の味わい。
たちまちのうちに「カフェロシア」は評判を呼び
文士、思想家、会社員たちでいっぱいになった。
これと同時に京橋区南鍋町1-7に
日本料理店「青柳」も開店。
「鯛茶漬」のお店として人気となるも
大正12年(1923年)9月1日に起きた
関東大震災により両店とも消失。
それでも衛は挫けず再び立ち上がり
3ヶ月後の12月、焼け跡に建てたバラックにて
「銀座油繪展覧會」を開催。
翌年には消失した日本料理店の跡地に
新築を建て大きな看板を掲げた。
望 紗 瑠 荘
外国語学校でロシア語を学んだ
次兄・光から教わったのだろう。
ロシア語で「美術」を意味する
“ ボーザール ” よりヒントを得て
こう名付けたこの画廊で
数多くの美術展や売立會などを開催。
大正14年(1925年)1月には
長兄・永を応援すべく
「辻永山羊の繪展覧會」を開いた。
ヨーロッパに制作旅行へ。
フランス・ノルマンディー地方のサンガシアンで過ごし
イギリスに渡って、のちスコットランドを巡遊。
9月7日ころ、イギリスからベルギー・ブリュージュに渡り
滞在中の三宅克己と合流し、2週間ほど滞在。
▶︎ ベルギー、ブリュージュにて「風車」を制作中の辻 永
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
10月、オランダからドイツに入り
月末ごろパリに戻った。
▶︎ 滞欧中、藤田嗣治(右)と
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
“ 山羊の画家 ” として知られた辻永は
このヨーロッパ滞在を経て
風景画家としての方向性が定まった。
「山羊園」から「カフェロシア」を経て画廊主へ。
“ 山羊の画家 ” から植物と触れ合える、風景画家へ。
それぞれ心に描く “ 理想 ” へと邁進していく永と衛は
大正15年(1926年)二人で連れ立ち
光の暮らす、哈爾濱へと向かった。
▶︎ 当時の哈爾濱駅
出 典;『 全満州名勝写真帖 』
久方振りに兄弟三人で過ごす時間。
話しても話しても尽きない話題。
兄の喜びを兄以上に喜ぶ弟たち。
弟たちの頑張りを知り、笑顔になる兄。
▶︎ 兄弟三人哈爾濱にて(大正15年8月撮影)
出 典;『 辻 衛 』
左から衛、永、光
兄は弟たちを思い、弟たちも兄を思う。
互いに “ 生きる息吹のようなもの ” を与え合い
時には鼓舞し、刺激し合う。
まさに「三位一体」
人も羨む昵懇のこの兄弟に
無情な出来事が訪れたのは
それから数年後のことだった。
▶︎ 「風車」(辻 永/1920年)
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
昭和4年(1929年)
8月24日
▶︎ 辻衛一家家族写真(昭和4年撮影)
永の四十余年の人生の中で
衛と暮らさなかった時間は
衛の中学時代と永の滞欧期間のみ。
“ 何か新しいこと ” に臆せず挑戦していく
弟の勇敢さは、引っ込み思案だった永を
いつも励まし勇気付けた。
兄の喜びを自分のこと以上に喜び
悲しみをともに分かち合ってくれた衛が
もうこの世にはいないのだと思うと
永は心の平静を保つことができなかった。
衛の追悼展覧会に出品する作品を描くため
祖師谷へと山羊の絵を描きに出かけた永は
牧場に続く畑の中で声をあげて泣いた。
誰にも聞こえない、何の妨げもない畑の中で
彼は延々と声をあげ泣き続けた。
どんなに泣いても泣いても、泣き尽くせなかった。
(『 辻 衛 』より抜粋)
▶︎ 衛の墓前にて(昭和4年9月7日撮影)
出 典;『 辻 衛 』
前列中央が「辻 永」後列右手が「辻 光」
その翌年のこと。
深い悲しみの中にあった永に
一筋の光がそっと差し込む。
「植物学者」か「画家」のどちらになろうかと迷った
あの日から永がコツコツと描きためてきた、植物画。
和田三造の働きかけもあり、昭和5年から7年にかけ
『 萬花図鑑 』(全12巻)として出版される運びとなったのだった。
▶︎ 『 萬花図鑑 』辻永 著(平凡社)
出 典;岩森書店(杉並区荻窪)
三十余年描きためてきた千数百の花の画から1,000点を選び、全8巻を昭和5年出版。
その不足を補うため、1年の間に「新宿御苑」「小石川植物園」などに足を運び
500種もの花の写生をし、それらを収めた続集4巻を昭和7年に発行した
表紙は「和田三造」が手がけ
見返しは「岡田三郎助」が担当。
各巻末の辻による花々の解説は
日本の植物学の父・牧野富太郎の校訂を受けた。
▶︎ 牧野富太郎(1862〜1957)
出 典;牧野記念園情報サイト
明治42年(1909年)10月に活動を開始した
日本初の植物同好会「横浜植物会」は
当初その事務所を横浜・弁天通にあった
「丸善薬店」においていた。
「牧野富太郎」「松野重太郎」らと
ともに活動した同会員の「和田治衛」は
明治31年(1898年)に結婚。
豊富な薬学の知識を活かして、父同様「丸善薬店」を守り
戦後「丸善化工株式会社」となった同会社の社長として
たゆまぬ努力を重ねたことをここに残しておきたい。
父・和田治衛は、慶應3年(1867年)岡崎に生まれ、明治19年 丸善に入社した
昭和5年(1930年)9月24日
「小石川植物園」にて開催された
永の『 萬花図鑑 』出版祝賀会には
240名近い人々が出席する盛況ぶりで
東京美術学校長・正木直彦による
著者および作品の紹介のほか
牧野富太郎の講演などが行われた。
▶︎ 正木直彦(1862〜1940)
出 典;『 名古屋博覧会綜覧 』
東京美術学校の5代目校長を三十余年にわたって務めた
昭和14年9月23日に訪れた
師・岡田三郎助との永遠の別れ。
昭和20年(1945年)5月23日には
戦争の空襲により、作品三百余点
多数の蔵書、美術骨董品の全てが灰燼に帰し
思い出溢れる自宅が消失した。
これを機に、師・岡田三郎助のアトリエを譲り受け
暮らすことになった永。
▶︎ 師・岡田三郎助から引き継いだ、辻永のアトリエの一隅
出 典;『 美術手帖 』
その後、日展や光風会などで
日本の洋画界をまとめる役割を果たしながら
親しき画家仲間たちと、箱根、知多半島
岡山・三蟠、上総勝浦・鵜原、熱海、琵琶湖畔
蓼科高原、京都・嵐山、清滝、大津、石山
岡山・牛窓・玉島、富山・高岡(宇波海岸)神戸
志摩・浜島、北海道各地、北陸、福岡、佐賀・唐津
日光、久留米、和歌山・雑賀崎、茨城・水戸、大洗磯原
淡路島と日本各地を幅広く旅し、数多くの絵を描き続けた。
▶︎ 植物の写生をする辻 永(昭和35年撮影)
出 典;『 広報 み と 』
昭和7年(1932年)の『 萬花図鑑 』発表後
日本国内、旧満州、台湾、中国南部
インドシナなどで描いた植物写生の中から
約1,600点を選んだ『 万花譜 』(全12巻)の刊行が
平凡社から始まったのは、それから20年以上経った
昭和30年(1955年)のこと。
日本橋丸善において、昭和32年(1957年)5月に開催された
『 万花譜 』出版完成記念展の会場には
この日をともに喜ぶ親しき人たちの姿があった。
それは永の親友だった、丸善8代目社長・司 忠
そして「丸善画廊」の責任者として
活躍していた次弟の光だった。
▶︎ 「丸善画廊」時代の次弟・辻 光
芸術に造詣が深かった、丸善8代目社長・司 忠は
敗戦ですっかり潤いを失った “ 灰色の日本 ” に
明るく美しい彩りを添えようと
昭和22年(1947年)から
丸善主催の美術展「梟会」を開催。
「和田三造」「南薫造」「石井柏亭」
「中沢弘光」「山下新太郎」「小林萬吾」
「須田国太郎」「梅原龍三郎」らが
渾身の新作を数多く出展し、話題を呼んだ。
▶︎ 司 忠(1893〜1986)
明治39年(1906年)丸善入社。大阪支店を経て名古屋支店支配人へ。
昭和22年(1947年)丸善社長就任、東京商工会議所副会頭となる。
国外に流出していた松方コレクションの返還交渉、国立西洋美術館
国立近代美術館の増改築資金募集に尽力するなど美術界にも貢献した
また、昭和27年(1952年)からは
日本美術界に大きな足跡を残した
黒田清輝の偉業を偲び、彼の門下生
「和田三造」「辻 永」「中村研一」らが中心となった
「洋画展覧会葵会」もスタート。
この会を取り仕切ったのもまた
辻永、辻光兄弟だった。
▶︎ 「梟会」同様丸善主催で毎秋開催された美術展「洋画展覧会葵会」
昭和40年まで14回続いた葵会の告知広告
(写真は最終回の無事開催を伝える社告)
▶︎ 鵜原理想郷「手弱女平」から臨む勝浦の海(2019年3月22日撮影)
出 典;牛窓オリーヴ園公式サイト
“ 日本のエーゲ海 ” と呼ばれる美しい景色とここに広がるオリーブ園に惹かれ度々訪れた。
オリーブの木を好んだ永は『 学 鐙 』第49-4号に「オリーヴ雑記」を寄稿している
昭和31年(1956年)社団法人 光風会 常任理事
昭和33年(1958年)社団法人 日 展 初代理事長
昭和34年(1959年)文化功労者として顕彰 /日本自然保護協会 理事
昭和39年(1964年) 勲二等瑞宝章受章
昭和40年(1965年) 紺綬褒章受章
昭和43年(1968年) 明治百年記念 茨城県特別功労者
昭和44年(1969年) 社団法人 日 展 顧問
昭和45年(1970年) 社団法人 光風会 名誉会長
昭和49年(1974年)正四位勲二等旭日重光章 叙位叙勲決定
「 辻 永個展 」昭和11年(1936年)11月開催(於;名古屋丸善) 39点出品
「 辻 永個展 」昭和15年(1940年) 5月開催 (於;名古屋丸善) 28点出品
当時の丸善名古屋支店支配人;司 忠
▶︎ かわいい仔山羊と若き日の辻 永(大正2年撮影)
出 典;『 辻 永展 ー<山羊の画家>の軌跡ー 』
辻 永が戦後暮らした「旧伊達町」のアトリエは
平成30年(2018年)元の持ち主である岡田三郎助の故郷
同年4月1日より一般公開されている。
岡田三郎助の花物語―万花描く辻永とともに―|佐賀県立博物館・佐賀県立美術館
※ クレジット表記なき写真は「筆者私物」