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マルゼニアンの彰考往来

日本橋丸善を愛する私の大切な「宝箱」

明治から昭和を生きた女医・荻野吟子と間宮八重〜 北の大地で力強く生きた母とその子息・間宮不二雄

 

女性にまだ医学への道が閉ざされていた時代。

 

数々の困難を克服し、

日本人第一号の女医となった人物がいた。

 

荻野吟子である。 

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 ▶︎  荻野吟子(1851〜1913)     出  典;Wikipedia

 

 

 

黒船来航2年前の、嘉永4年(1851年)3月3日。

武蔵野国幡羅郡(現;埼玉県熊谷市)に誕生。

 

19歳の時、診療の必要あって上京し、

順天堂病院の婦人科を訪れた彼女は

あらゆる診察にあたる医師全員が

男性であることに、恥じらいと苦痛とを感じた。

 

その日を境に、彼女は、女性が治療を受ける際

恥ずかしくないようにと、自らが女医を志す。

 

明治12年、お茶の水女子大学の前身である、

東京女子師範学校(一期生)を主席で卒業した

吟子は、陸軍医であった石黒忠悳(ただのり)に

女医の必要性を説く。

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                     ▶︎  東京女子師範学校卒業生(明治12年撮影)  

                         出 典;お茶の水女子大デジタルアーカイブ

 

 

 

石黒忠悳は、佐賀の乱西南戦争に従軍した

日本の陸軍軍医で、森鴎外の上官。

 

彼の仲介あって、下谷練塀町(現;秋葉原)にあった

私立医学校・好寿院に特別入学を許された吟子は、

男子生徒からのいじめを受けながらも、無事卒業。

 

明治18年3月、医師開業試験に合格し、

湯島に「産婦人科 荻野医院」を開業。

 

34歳にして、近代日本初の公許女医となった。

 

その後、北海道開拓を目指す、13歳年下の夫を追って

北の大地へと渡る。

 

渡辺淳一の『花埋め』は、

荻野吟子の力強い人生を描いた作品である。

 

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▶︎『花埋み』(はなうずみ)渡辺淳一著(新潮文庫

 

 

 

 

その吟子と同じ時代、同じような人生を

送った人物がいる。

 

慶應2年(1866年)生まれの「間宮八重」である。

 

吟子と同じく、東京女子師範学校を卒業した彼女は

済生学舎(現;日本医科大学)に入学し、医学を学ぶ。

 

済生学舎は、長岡藩医であった

長谷川泰が創設した医学校。

 

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▶︎  長岡藩医・長谷川泰   出 典;Wikipedia 

 

 

 

 

父・長谷川宗斎と同じく、長岡藩医だった彼は

戊辰戦争・長岡の戦いである、北越戦争に従軍。

 

「八十里越」の後、南会津・只見町で

無念の死を遂げた、長岡藩家老 河井継之助

最期を看取った人物である。

 

後に細菌学者の野口英世も通うことになる、

この医学校で、医学を習得した間宮八重は、

更に順天堂病院にて佐藤進、佐藤佐、両氏の指導を受け

明治24年(1891年)内務医籍登録5311号を取得。

 

女医となり、明治25年(1892年)本郷元町

(現;文京区湯島)で開業した。

 

明治29年(1896年)発行の『報知新聞』の記事に

“ 東京で有名な女医 ” 7名の1人として

東京女子医大を設立した・吉岡弥生とともに

紹介され、広くその名が知られるところとなる。

 

不思議なことに、八重もまた、荻野吟子同様、

北海道開拓を目指す夫の志を支えるため

北の大地へと渡ることを決め、診療所を閉める。

 

この時、八重42歳。

北海道浦幌町へと旅立っていった。

 

 

 

この間宮八重という女医の存在を知ったのと同時期、

我が家に保管されている古写真の中で

初めて目にするもの数点が、私の手元に送られてきた。

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                  ▶︎ 丸善大阪支店・社員集合写真  (明治43年〜大正3年頃撮影)

                     撮影場所は「大阪府中之島図書館(筆者推測)

 

 

 

 

撮影した写真店の名前だろうか。

「Emado〜大阪ヱマ堂」という刻印がある。

 

それ以外は、いつ撮影したものなのか、

メンバーの名前などの記載は一切なかった。

 

洋装と和装の若い人物たち。

 

会ったことはないはずなのに

写真前列右側に写る、洋装3名の顔が

なぜかとてもとても懐かしく、

不思議な気持ちに包まれた。

 

遠い昔、どこかで会った気がして、

仕方がなかった。

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▶︎ 写真左より)丸善大阪支店長・大塚金太郎、のちの京都支店長・村上英四郎、間宮不二雄(敬称略)

 

 

 

 

あれこれ調べた結果、この3名のことがわかった。

 

写真左側の人物は、明治末から大正3年まで

丸善大阪支店長を務めた、大塚金太郎氏。

 

彼は、創業者・早矢仕有的氏を筆頭とする

丸善の四人衆」の1人・大塚熊吉氏のご子息だ。

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▶︎ 丸善創業に関わった、4人のうちの1人、大塚熊吉氏    出 典;『丸善百年史』

 

幕府の御家人であった彼は、戊辰戦争時、彰義隊に加わり上野に籠もったとも、

旧幕府軍に従軍しようと、栃木まで部隊を追いかけたともいわれている

 

 

 

 

 

明治28年2月18日に旅立った、早矢仕有的を悼み、

大塚熊吉は、丸善を退社。

 

小石川同心町(現;文京区春日、小日向付近)に、

書籍と文房具の専門店「冨美屋」を開店させる。

 

この店舗の裏手には、早矢仕有的の廟所があったことから

熊吉は、残された人生の時間を、恩人の墓守をしながら

生きようとしたのではないかともいわれている。

 

思わず、同じ「熊吉」繋がりで、函館にある「碧血碑」を

守りながら、五稜郭で命を落とした、旧幕府軍たちの

弔いをして余生を送った、柳川熊吉のことを思い出した。

 

そんな信義の心厚い、父の背中を見て育った、

大塚金太郎・銀次郎兄弟。

 

兄・金太郎氏は、大正3年春から、京都支店長となった。

 

中央の人物は、村上英四郎氏。(旧姓;犬塚)

 

大塚金太郎氏の後を引き継ぎ

長く京都支店長を務めた人物である。

 

丸善といえば、梶井基次郎の『檸檬』で有名だが

この作品が描かれた時代、実際に京都支店で

全社員の中心となり奮闘していたのは、この両氏である。

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      ▶︎ 写真左より)『檸檬梶井基次郎著 角川文庫版と新潮文庫

新潮文庫版は、京都丸善で購入した、世界に1冊だけの私のオリジナル『檸檬

  

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▶︎『檸檬』の表紙をめくると、中には京都丸善のスタンプ

丸善京都支店で『檸檬』を買ってスタンプを押してみよう!!

 

 

 

そして、1番気になっていた右側の人物は

祖父の旧友で、亡くなるまで親しくしていた

間宮不二雄氏であることがわかった。

 

それと同時に、間宮さんの躍動感溢れる人生と

彼の母上が、本郷の診療所を閉め、北海道開拓へと

旅立っていった、女医・間宮八重であることを知った。

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                ▶︎ 若き日の間宮不二雄氏(大正2年4月撮影) 

胸には 「Z.P.MARUYA」(丸屋善八店)時代の社章が光る

 

 

明治36年 日本橋丸善に入社した

間宮さん(以下 不二さん)は

「 書籍部」に配属。

 

丸善・見習生(新人)としての日々は辛く

1週間位はトイレにこもって泣いていたという。

 

洋書を扱う店頭には、外国人客も多く訪れ

泣いてばかりはいられなかった。

 

不二さんは、早速こんな英語を覚えた。

 

 

 

 

 

「洋書は 2階に陳列してあります」

 

 

 

 

 

3日昼夜、その言葉を口の中で繰り返し、

接客の自信をつけ、外国人客を見つけては

次から次へ、洋書のある2階へと案内していった。

 

「英語は心臓と耳と口から」という、彼の信念は

この経験から生まれたのかもしれない。

 

明治40年(1900年)丸善京都支店が、三条麩屋町

開設されることになり、大幅な人事異動がおきた。

 

そうした人の動きの中、不二さんは、大阪支店へ。

 

それまで大阪支店の売り上げの4割を占めていた、

京都エリアが支店として独立したため、

新たな営業先を獲得する必要性が生じ、

不二さんは支店長・大塚金太郎氏と相談の上、

和書と文房具を中心に、新規顧客の獲得に乗り出す。

 

ついには、新天地を求め、大きな鞄に外国雑誌の見本誌を詰め、

本店に何も相談せず、中国・ハルビンや大連、

韓国・ソウルにも足を運び、ビジネスチャンスを掴む

ための模索を続けた。

 

なんとも思い切った行動である。

 

まだ飛行機などない時代。

 

神戸港から「天草丸」という古船に乗り、丸3日。

ある意味、命がけの営業活動だった。

 

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                          ▶︎ 天草丸 

外交官・杉原千畝が、6,000人にもおよぶユダヤ人たちの命を救うために

稼働させた船も「天草丸」 もしかしたら、同じ船かもしれない

 

 

 

 

パソコンもない時代。

顧客管理もまだきちんとなされていなかった。

 

新刊図書の情報は、毎月発行される

丸善のPR誌『学鐙』に添付されるのみ。

 

不二さんは、少しでも効果的な営業を行うため

カード式の華客名簿(よく買ってくれる人の名簿)の

作成を思いつく。

 

1度購入してくださった顧客の住所・氏名、並びに

購入された図書名をリストにし、新着書中から、

関連性のあるものを探し、あらかじめ、ハガキ、

または印刷物を作成して送付。

 

その中には、万人が好みそうな万年筆や

文房具、辞書などの情報も入れておく。

 

顧客に対し、個別に行う、効果的な宣伝活動。

いわゆるマーケティングに力を入れた。

 

そのほか、そのころまだ誰も手をつけていなかった

タイプライターや計算機などの、機械的事務機器に

着目し、自ら重役の中村重久氏に申し出て、掛け合い

それ専門の部署を新設してもらう。

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             ▶︎ 中村重久氏 ( 1859〜1918  )

      小柳津社長の勇退の後、4代目社長を務めた

 

 

 

 

たった3人だけの部署。

 

不二さんたちは、ローヤルタイプライターの

販売と修繕に力を注いだ。

 

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                       ▶︎  ローヤルタイプライター    

出 典;『ローヤルタイプライターの扱方と練習』(丸善株式会社編) 

 

 

 

 

 

深 謀 遠 慮

 

 

 

 

 

不二さんのこうした数々の頑張りを

認めてくれた人はいたのだろうか。

 

彼のバイタリティ溢れる仕事への取り組みを

その先見性を評価してくれた人はいたのだろうか

 

 

 

 

大正4年(1915年)10月 

 

 

 

 

12年間勤めた丸善を退社した不二さんは、

米国へと旅立つ。

 

在学中に出逢った、銀座の黒澤商店(現;株式会社クロサワ)

社長・黒澤貞次郎氏の計らいだった。

 

丸善時代に出合った、タイプライターのことを

もっと学ぼうと、ニューヨークやシラキュース、

ハリスバーグペンシルバニア州)にある

タイプライターの会社に行き、講習会に参加。

実務を学んでいく。

 

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▶︎ 『Syracuse Journal』(1915年2月3日発行)不二さんのことが掲載された

                             出 典;『圕とわが人生』間宮不二雄

 

 

 

帰国後5年間、黒澤商店に勤務した不二さんは

独立を目指し、資金作りのため、日中の仕事のほか

眠る時間を削り、近隣の会社のタイプライターや

ナンバリングの掃除、注油、修繕などをし、

翌朝に届けるという、アルバイトをした。

 

 

 

大正11年(1922年)

 

 

 

 

大阪北区木幡町に「間宮商店」を開店。

 

ついに、自分だけの図書館用品の店をスタートさせる。

 

ドイツや米国からカード裁断機、カード印刷機

などを買い入れ、自分の手で、図書館用品家具の規格化、

標準化にも着手した。

 

 

 

 

昭和 20年 (1945年)3月14日

 

 

 

大阪市を襲った、第二次世界大戦の空襲。

 

この「大阪大空襲」で、いままで努力して

積み上げてきたもの全てを失った不二さんは、

北海道への疎開を決める。

 

そこには、明治時代、女医となりながら

夫の志に寄り添い、診療所をしめ、

北海道開拓へと旅立った、母・八重がいた。

 

彼女はあれから未開の地で苦労を重ねながら

村医不在の町で、医師として村民の診療をし続けていた。

 

御年79歳、既に夫は他界。

 

電灯もない町でたった1人、

間宮牧場を経営しながらの生活。

 

ここで不二さんたちは2年間、

無収入の月日を送ることになる。

 

 

昭和26年(1951年)東京に戻った不二さんは

株式会社ジャパン・ライブラリー・ビューローを

を立ち上げ、再び、図書館用品の仕事を始める。

 

 

 

「本は持っているだけでは値打ちがない。

これを活用してこそ、はじめて値打ちがある」

 

 

 

 

晩年、自らの和書875冊、洋書258冊。

全1,133冊の蔵書を「富山県立図書館」へ寄贈。

 

亡くなるまで、日本の図書館の発展を願い続けた。 

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                        ▶︎ 間宮さんが詠んだ短歌のうちの1つ(直筆)

                   

                           丸善OBの会合で彼が仲間へ贈った歌。

           懐かしい仲間たちとの再会は、本当に特別なものだったと思う

 

 

 

バイタリティ溢れる、不二さんの人生。

 

しかしながら、もっと驚くべきなのは

母・間宮八重の人生かもしれない。

 

彼女は、再び東京へと戻った不二さんたちを

見送った後、88歳になるまで

半世紀近い年月を、北の大地で生き続けた。

 

不自由を不自由とも思わない、その心。

 

83歳になってから覚えた麻雀。

自転車にも乗ってみたいといった。

 

どんな苦難にも臆せず立ち向かっていく、その力強さ。

 

やはり2人は親子なのだとしみじみ感じた。

 

不二さんの母・間宮八重が天寿を全うしたのは、93歳。

昭和33年(1958年)1月12日のことだった。

 

明治を生きた女医・荻野吟子と間宮八重。

そして、その子息・間宮不二雄

 

3人に共通するのは、決してくじけない強い心だ。

 

「人生は、自ら切り開いていくものだよ」

 

そんなことを、言葉なく教えられた気がする。

 

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▶︎ 間宮さんの直筆サイン。中央のMは「間宮のM」「不二さんの富士」そして丸善の「M」だ

 

 

 

 

<編集後記>

 

 

私が生まれるずっとずっと昔に亡くなった祖父。

 

しかしながら、不思議と祖父と私とは類似点が多く

お互いの心がいつも近くにある気がしています。

 

昨年、祖父の告別式の写真を目にした時

たくさんの人たちの中、寂しそうな表情で立ち尽くす

間宮さんの姿を見つけました。

 

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▶︎ 祖父の告別式にて 写真中央が間宮不二雄さん(1967年4月2日)

 

 

 

祖父の最期の旅立ちを見送ってくれた、間宮さん。

 

困難な状況の中でも、常に創意工夫を繰り返す、

その熱い人生を知った時、過ぎ行く歳月の中、

埋もれてしまいそうな間宮さんの生きた時間を

旧友の孫である「私」がもう一度輝かせたい

そう思いました。

 

祖父の友人は、私にとっても

かけがえのない大切な友人です。

 

不二さん、本当にありがとう。

 

間宮さんのご家族や関係者の方が

いつかこのページを見つけてくださったら

本当に嬉しい、そう思います。

 

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                            ▶︎  間宮不二雄先生肖像   

                    出 典;『間宮文庫目録』(発行;富山県立図書館)

 

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<参考文献>

 

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

『圕とわが人生』間宮不二雄著(丸善OB・元日本図書館協会顧問)

図書館雑誌』1971年2月号 (日本図書館協会

『間宮文庫目録』1970年(富山県立図書館)

 

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