「日本橋丸善」と岡崎の八丁味噌〜 味噌が繋いだ、岡崎藩士と丸善社員たちの絆
思い浮かぶのは、どんな武将だろうか。
五世祖父の家系が、古くより本多岡崎藩士であった私は
まっさきに、藩祖・本多平八郎忠勝公を挙げるだろう。
▶︎ 本多平八郎忠勝公 ( 1548年〜1610年 )
出 典;Wikipedia
戦の時には必ず鎧の上から大きな数珠を下げ
討ち取った敵方の供養をしていた
14歳で初陣
生涯57度の戦に臨みながら、かすり傷1つ
負ったことがないという、その勝負強さ。
一言坂の戦いで、殿( しんがり )して
この時の姿を見た、敵方の小松左近が
こういったという。
「 家康に過ぎたるもの二つあり
唐のかしらに本多平八 」
家康が被っていたという、ヤクの毛で作られた兜
そして、家臣・本多平八郎忠勝公の存在。
この2つは、家康にはもったいない。
そうした意味だろう。
多くの武将からも一目置かれた、本多平八郎忠勝公。
彼の家臣団一人ひとりも
そうした主君を深く敬愛し
代々の家々がその遺訓である
「 惣まくり 」を語り継ぎ
胸に深く刻み、徳川の世を生きてきた。
「 惣まくり 」
「 侍たるもの、どんなことが起きようと
最後まで主君に忠実に生きなければならない 」
「 武士としてのあり方 」「 生きるべき姿 」を説いた
この言葉を胸に、幕末の動乱期、藩の決定に背いてまで
徳川幕府への忠義を貫こうと、脱藩。
脱藩状を提出し、人見勝太郎、伊庭八郎ら
旧幕府軍・遊撃隊の元へと向かったその一団は、
小柳津要人ほか、30名ほどの岡崎藩士たち。
慶應4年(1868年)4月30日のことだった。
▶︎ 亡くなる数年前に書かれた、小柳津要人直筆の「 惣まくり 」
これを生涯の信条とし、怠ることがなかったという
出 典;『 小柳津要人追遠 』 富澤淑子編
幼いころから時々見る
不思議な夢。
見知らぬ大きなお寺の山門がみえる景色から
その夢は必ず始まる。
自分はまだ小さい子どものようで
視界の感じからも身の丈は小さい。
男女の別はわからない。
周りの景色は、なんとなく古い感じ。
姿は見えないが、一緒にいる男性の声が
一言だけ、ささやく。
「 ほら、見てごらん。
ここからだと、お城とぴったり重なる 」
指差す先を見ると、確かに遠く城郭が見え
夢はいつもそこで終わってしまう。
ここは一体どこなのだろう。
幼いころからの謎だった。
昨年、自分の先祖の故郷を見てみたいと
訪れた、岡崎・大樹寺で鳥肌がたった。
お寺の山門を一目見て、間違いなく
あの夢の場所だと気付いたからだ。
▶︎ 成道山松安院 大樹寺( 愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 )
( 2016年5月1日参拝・撮影 )
まわりの参拝者を見ると、皆遠くを指差し
山門から何かを見つめている。
指差す先には、遠く岡崎城が見えた。
夢の中の人物が教えてくれていた通り
生まれてから一度も訪れたことのない
この町のこの場所の夢を、なぜ幼いころから
何度も繰り返しみていたのか、本当に不思議で
なんだか怖くて仕方がなかった。
大樹寺からお城までの直線上に、高層建築物を建てることができないという
この寺は、大変に重要な場所とされ
事あるごとに揃って参拝していたことが
『 大樹寺文書 』( 上 ) ( 下 ) に書き残されている。
前述、幕末に脱藩、旧幕府軍に参加し
新政府軍たちと戦った藩士たちも、
岡崎を出立する前、ここに参拝したことだろう。
私が大樹寺を訪れたのは、5月1日。
奇しくも148年前の同じ日、
同じ場所に参拝したかもしれないこの偶然を
不思議に思った。
▶︎ 岡崎城( 2016年4月30日訪問・撮影 )
戊辰戦争で敗者となった小柳津は
謹慎の後、気持ちを切り替え、
徳川の幕臣たちが移住した沼津の町へと向かう。
沼津兵学校教授・乙骨太郎乙のもと、
および慶應義塾で英学を学んだ彼は
▶︎ 若き日の小柳津要人氏 ( 明治初年撮影 )
創業者の早矢仕有的と深いつながりを持つ
福沢諭吉が入社を進めたであろうこと、そして
当時の丸屋に「 三河武士 」が多かったことが
その理由ではないかと、丸善OBの八木佐吉氏は推測する。
▶︎『 酒味の雑誌 壺 』第16号
( 昭和56年12月25日発行 )発行人;深田三太夫
丸善OBの八木佐吉氏は、小柳津の故郷・岡崎エリアで発行される出版物にも
率先して寄稿。不安定な時代を力強く生きた、小柳津の人生を後世へと書き遺した
( 本号に寄稿している「 岡田金藏氏 」は、元丸善名古屋支店社員であると筆者は推測する )
早矢仕有的を筆頭にずらりと顔を揃える
「 3代目社長 」
小柳津 要人( おやいづ かなめ )
初 代;小柳津助兵衛( 諱不詳 )
本多忠高公御代より出仕( 本国;駿河 )
「 売り場出納係 」
多門 傳十郎( おおかど でんじゅうろう )
多門 猶次郎( おおかど なおじろう )
※子息・猶次郎は『学の燈』発行 兼 編集人
初 代;多門越中重倍
「 辞書校正係 」
志賀 重昂( しが しげたか )
初 代;志賀十左衛門重成
本多政勝公御代より出仕( 本国;近江 )
「 洋書係 」
栗本 癸未(くりもと きみ)
初 代;栗本市左衛門( 江戸詰 )
本多政朝公御代より出仕( 本国;播磨 )
栗野 彬(くりの あきら)
※ 新入店した社員たちが入る、寄宿舎の室長
初 代;栗野主馬貴常
本多政長公御代より出仕( 本国;伊勢 )
「 書籍部商品課長 」(昭和初年当時)
五十嵐 清彦(いがらし きよひこ)
伊藤八郎右衛門同家
初 代;伊藤金弥知徳
本多忠政公御代より出仕( 本国;三河 )
「 書籍部仕入課 」(昭和初年当時)
緒方 惟吉( おがた これきち )
初 代;緒方平左衛門惟昌
本多政長公御代 から出仕( 本国;豊後 )
※ 平安末期〜鎌倉初期の武将・緒方維義の末裔
源頼経救済のため、豊後国に「岡城」を築城した人物)
▶︎『本多岡崎藩分限帳』年代別、岡崎・江戸の地域別に11冊存在する
私の祖父が丸善に入社を決めたのも
五世祖父一家と親しい間柄であった、
小柳津要人氏の導きによるもの。
新しい環境の中、不安な祖父の心を
支えたのは、厳格なるも心優しい社長の
小柳津要人氏と結束の硬い岡崎藩士たちの存在、
そして、毎日口にする、懐かしい郷里の「 味 」だった。
当時、丸善に入店した社員たちが
暮らした寄宿舎。
ここでは毎日朝食に、岡崎の八丁味噌を使用した
お味噌汁が出されていた。
徳川家康公が珍重した味。
郷里・岡崎の味。
様々な思いと考えをもって
社長の小柳津が提案したのだろう。
▶︎ 八丁味噌「 カクキュー 」本店
( 愛知県岡崎市八帖町字往還通69 )(2016年5月1日訪問)
我が家では、子どもの頃から欠かしたことのない、カクキューの八丁味噌。
本店窓口で販売されている「 味噌カツ 」や「 味噌ソフトクリーム 」は秀逸な味わい
毎食、毎食、同年代の仲間たちと囲む食卓。
少しだけいいことがあった日。
涙が出そうなくらい辛いことがあった日。
そこにはいつもカクキューの八丁味噌で
作られた、あたたかなお味噌汁があった。
久々に顔を合わせた仲間たちとの会食の席で
こんな風に話している。
「 弁さんの作る一つ釜の飯を食って
あの寄宿舎で寝起きした頃の思い出は多い。
今は各々環境を異にすれど
皆元気でこうしてまた夕食をともにできる。
この嬉しさは、他人様にはわからないだろう 」
▶︎ 丸善OBの日下定次郎氏もまた、八丁味噌のお味噌汁を味わい
寄宿舎に寝起きした日々を懐かしく振り返っている
丸善に一生を捧げた人。
途中から、別の道を歩んだ人。
関東大震災や度重なる戦争の中、
互いに離れ離れとなり、それぞれの人生を送った。
それでも、若い時代に苦楽と寝食をともにした
大切な仲間の存在と、日々の食卓をあたためてくれた
八丁味噌の味わいは、生涯忘れられないものとなり
それぞれの心を支え続けた。
▶︎ 丸善OB「 温故会 」会食の席で ( 昭和31年撮影 )
写真前列左から)日下定次郎、五十嵐清彦、伊藤四良、玉井弥平
写真後列左から)斎藤哲郎、木内憲次、井上清太郎、福本初太郎、間宮不二雄(敬称略)
ほか 井筒静之助、広瀬市太郎なども、そのメンバーだった
明治という新しい時代を生き抜くために
刀をペンに持ちかえ、西洋のあれこれを学び
黎明期の丸善を必死で支え続けた、小柳津要人。
彼はまた、多くの岡崎藩士たちに手を差し伸べ
新しい時代、ともに生きるチャンスを与えた。
そうした彼の優しい心遣いからどれだけの人が
生きる希望を見出し、活躍の場を広げたことだろう。
そして、その後に続こうと、黎明期を生きた先輩たちの
背中を懸命に追いかけ、明治・大正・昭和という時代を
生きた、たくさんの丸善人たち。
彼らの心を1つにし、長きに渡り陰ながら
その人生を支え続けた「 八丁味噌 」という存在を
私はこれからも大切にしていきたい。
▶︎ 小柳津要人 (1844年〜1922年)
昭和36年(1961年)7月1日、岡崎市は市政45年を記念し
小柳津ほか、郷土の先覚24名を名誉市民に推薦した
▶︎ 岡崎公園内にある 「徳川家康公 出世のベンチ」
岡崎藩士たちは、大正時代になっても「 不忘義団 」として、その交流を続けていく。
東京に出た藩士たちもまた、旧江戸藩邸内の龍城館に身を寄せ合い、支え合って生きた
<参考文献>
『 小柳津要人追遠 』富澤 淑子 編
『 圕とわが人生 』間宮 不二雄 著( 丸善OB・元日本図書館協会顧問 )
「 小柳津要人小伝 」八木 佐吉 著( 丸善OB・元丸善本の図書館長 )
「 志賀重昂と郷土みかわ 」長坂 一昭 著( 岡崎地方史研究会 会長 )