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マルゼニアンの彰考往来

日本橋丸善を愛する私の大切な「宝箱」

「丸善駒込工場」と詩人・高村光太郎 そして妻・智恵子の人生

 

 

それでも善い方なのよ
傘貸してくれる工場なんか外(ほか)にない事よ」

番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ
午後五時の夕立の中を
足つま立って尻はしよりしをらしく
千駄木の静かな通を帰ってゆく

ああすれちがつた今の女工
丸善インキ工場の女工

(高村光太郎丸善工場の女工達』より抜粋)

 

 

 

 

これは、彫刻家で詩人の高村光太郎

自宅近くの夕方風景を詠んだ詩。

 

大正から昭和の初めにかけ、

駒込林町(現;東京都文京区千駄木5丁目)のアトリエに

愛する妻・智恵子と2人で暮らしていた、高村光太郎

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       ▶︎ 本郷区駒込林町25にあった高村光太郎のアトリエ(現;東京都文京区千駄木5-22)

 

 

 

 

 

当時この付近には「丸善駒込工場」があり、

オリジナルインキを製造していた。

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             ▶︎ 地図右手81番地に記載された「工マーク」と「丸善工場」の文字 

       同じ町内の25番地付近に光太郎のアトリエがあった

                            出 典;明治44年発行「東京市本郷区地図」

 

 

 

 

明治18年(1885)に日本橋丸善の敷地内で始まった

丸善工作部」のインク製造は、博覧会等に出品・

賞を受け、後に「丸善インキ」「丸善アテナインキ」として

一時代を築く商品となった。

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  ▶︎ 「丸善駒込工場」と当時の社員たち(昭和4年・創業60周年記念写真)筆者私物

                               前列左より5番目が工場長の斉藤豊四郎。

           ここでは、1人ずつのお名前は割愛するが、もれなくその記録は残されている

 

 

 

 

 

写真中央に座る人物が、工場長の斉藤豊四郎。

がっちりとした体格とくっきりした顔立ちが印象的だ。

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▶︎  本店勤務時代、当時42歳の斉藤豊四郎。(大正5年1月撮影) 筆者私物

前列左より)二代目社長・松下鐡三郎ご子息の松下領三、6代目社長となる、金澤末吉

 

 

 

 

昨年2016年2月のこと。

 

それまで全く土地勘のなかった、千駄木駒込方面に

それはそれは突然無性に行きたくなり、

何かに強く背中を押されるように出掛けた。

 

足の向くまま、たどり着いた先は「駒込林町」という町だった。

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なんともいえない、悲しいような懐かしい気持ちに襲われ

あまりの不思議さに、あれこれと調べた結果、

色々なことがわかった。

 

私の古い時代の家族がこの街を愛し、

長く暮らしていたこと。

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高祖母の少女時代からの「心友」丸善三代目社長

小柳津要人もこの町内に居を構え、高村家とも繋がりがあったこと。

 

そしてその目と鼻の先に「丸善駒込工場」があり

かつて賑わいをみせていたこと。

 

そのことに気づいた年は奇しくも

高村光太郎没後60年、智恵子生誕130年】という記念年。

 

私の足は自然と2人に所縁ある、二本松へと向いたのだった。

 

 

 

東京から車で約3時間。智恵子の生家に到着。 

 

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    ▶︎ 明治の姿をそのままに残す「高村智恵子の生家」(2016年10月27日訪問・撮影) 

 

 

 

 

智恵子は、裕福な造り酒屋の二男六女の

長女として、明治19年(1886年

ここ二本松市油井に誕生した。

 

            

 

 

     屋号「米屋」 酒名「花霞」

 

 

 

 

 

彼女が生まれたのは、東北本線が仙台まで開通。

「二本松駅」が開業する1年前のことである。

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         ▶︎ 「花霞」の酒樽が並ぶ明るい店内(2016年10月27日撮影)

 

 

 

 

成績優秀だった智恵子。

 

彼女が通った油井小学校には、

満点に近い学籍簿が残されている。

 

負けず嫌いで、よく勉強ができ、

図工が得意だったーー

 

気品と優しさに溢れる智恵子は、

男子の学友にさえ、一目置かれる存在であった。

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              ▶︎ 智恵子・生家の居間。この場所で少女時代を家族と過ごした

 

 

 

 

 

 

明治34年(1901年)福島女学校に入学。

 

手先が器用で、テニス好きだった智恵子は

卒業式には総代として、答辞を読んだ。

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 ▶︎ 智恵子が少女時代に使用したお琴。裏側には「長沼ちゑ用」と記載あり

 

 

 

 

 

         明治36年(1903年) 日本女子大学校に入学

 

 

 

普通予科を経て家政学部に進むも

彼女の心を捉えたものは「油絵」だった。

 

自由選択課目であった、洋画の教室にばかり

出ていたようだ。

 

日本女子大学校卒業後も、故郷へは帰らず

反対する両親を説得し、東京にとどまり

画学生の生活を続ける。

 

智恵子の美への渇望はとどまることを知らず

セザンヌゴーギャンに興味を持ち

熊谷守一らの元に出入りし

油絵制作に骨身を削った。

 

明治44年(1911年) 日本女子大学校時代の先輩

柳八重の紹介で、駒込林町の高村光太郎アトリエにて

光太郎と出逢い、その2年後、2人はともに暮らし始めた。

 

智恵子と出逢った時の様子を

光太郎はこう語っている。

 

「彼女はひどく優雅で、無口で

ただ私の作品をみて、お茶を飲んだり

フランス絵画の話をきいて帰っていくのが

常であった」

 

 

 

 

 

 

                      明治から大正へ

 

 

 

 

 

結婚後も光太郎の収入は、彫刻家であった

父・光雲からの下請け仕事やわずかな原稿料に過ぎず

2人の生活は充実しながらも、貧窮が続いてゆく。

 

智恵子に少しずつ忍び寄る、辛い運命の数々。

 

 

 

 

              大正 7年(1918年)5月

 

 

 

父・長沼今朝吉が57歳で没すると、

翌年11月には16歳だった妹・千代も死去。

 

前林家に嫁いでいた妹・みつも、

大正11年(1921年)30歳の若さで

結核により亡くなり、

 

昭和4年(1929年)父・今朝吉の死後

家庭内の問題や経営上の不振から

傾きかかっていた長沼家がついに倒産。

 

一家離散となった。

 

度重なる心労。

この状況を光太郎に話すことができなかった智恵子は

1人心を悩ませ、病みがちの日々を送るようになる。

 

心のバランスを崩した智恵子を連れ

光太郎は、病気の治癒に良いと聞く

川上温泉、土湯温泉、九十九里などに静養に行くも、

智恵子の病は進行するばかり。

 

ついには、南品川のゼームス坂病院に入院することになった。

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  ▶︎ 智恵子の生家裏にある、二本松市智恵子記念館(二本松市油井漆原町36 )

 

 

 

智恵子の生家裏にある「智恵子記念館」では

智恵子生誕130年、光太郎没後60年を記念した

企画展が行われていた。

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心のバランスを崩し、病院に入院した智恵子が

1人制作し始めたのは、「切り絵」

 

その時に作られた作品を中心に、

智恵子と光太郎の愛と美の世界を描いた展覧会。

 

折り鶴を作ることから始まった智恵子の創作は

やがて色紙の美しさから、インスピレーションを得て

切り絵へと形を変えていく。

 

幼い子どもが愛する父や母に

自分が目にしたもの全てを報告するように

彼女は日々目に触れるものを「切り絵」にしては

面会に来る光太郎に見せた。

 

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                      ▶︎ 智恵子作 「かに」 台紙は封筒を切り開いたもの

                               出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会     

 

 

 

下書きもなしに切り込んでいく、

智恵子のハサミ。

 

「美しいもの」「かわいらしいもの」を捉え

ハサミで形にしていく智恵子の創作は

離れて暮らすようになった光太郎への

「愛のうた」そのものだった。

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                                                 ▶︎「のり筒」      

                         出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会                

 

 

 

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                                      ▶︎ 「うさぎのもちつき」    

                   出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会

 

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                                       ▶︎ 「片口とりんご」

                              画家・熊谷守一の影響を思わせる

                出 典;『アルバム 高村智恵子二本松市教育委員会

 

         

 

 

智恵子の心、光太郎との日々を感じたく、

「智恵子の杜公園」へと向かう。

 

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智恵子の生家の裏手にある「智恵子の杜公園」は

鞍石山周辺に位置する、

智恵子と光太郎がよく散歩した場所。

 

ここがスタート地点。

 

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              ▶︎ 原生するたんぽぽの花。葉の力強さに目を奪われた

 

 

 

稲荷八幡神社への入り口。

写真ではわからないが、かなりの傾斜で

これより先に登ることを一瞬ためらってしまう。

 

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急な階段を登ると「稲荷八幡神社」がある。

土地神様へのご挨拶と旅の安全を願う。

 

 

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木の香りに満ちた空気、木陰を抜けていく風。

 

 

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智恵子が愛し歩んだこの道の先には、

「彫刻の丘」が広がっていた。

 

 

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稲荷八幡神社から、鬱蒼とした1本道の森の中を

恐れることなく歩くことができたのは、

須賀川市から遊びに来たという、3人の親子の存在あってこそ。

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何度も私のほうを振り返っては、

 

「あそこに大きな蜂がいるから、お姉さん気をつけて」

「ここに光太郎の碑があるよ」などと笑顔で教えてくれた。

 

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         ▶︎ 「智恵子の杜」中腹に佇む、高村光太郎「道程」の碑 

 

 

 

 

 

「鎮魂の丘」付近に広がる、墓所

お墓参りにいらしていた女性とすれ違い、挨拶をした。

 

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「詩歌の丘」に到着。

高村光太郎の「樹下の二人」が刻まれた碑があった。

 

 

 

 

 

あれが阿多多羅山

 

あの光るのが阿武隈川

 

 

 

 

光太郎がこの歌の中で、何度も繰り返した言葉。

その思いを感じることができる景色が広がる。

 

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遠く展望台が見えてきた。

 

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階段を登り、「みはらしの広場」へ。

 

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展望台を登りきると、美しい景色が広がっていた。

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展望台から臨む、阿武隈川方面。

 

あの光るのが阿武隈川

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あれが安達太良山

 

東京には「ほんとの空」が無いといった智恵子。

 

安達太良山の上に毎日出ている青い空が

「ほんとの空」だといった、

智恵子の “ あどけない空 の話 ” 

 

それはただ単に「空」に限った話ではなく

東京の街に馴染めず、本音や悩みを話すことができず

窮屈になった智恵子の「心の叫び」だったのかもしれない。

 

自ずからそう気付かされるほど、この町の空は美しかった。

智恵子の心が近かったーー

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        ▶︎ 智恵子の杜「みはらしの広場」 展望台からの “ 智恵子のほんとの空 ”

 

 

 

 

ありし日の智恵子と光太郎が、手を取り合って

登り歩いた鞍石山。

 

安達太良山阿武隈川とを同時に眺めることができる

この景勝地で、どんなことを語り合い、

同じ時間を過ごしたのだろう。

 

東京の街に馴染むことができず、

本当の空がない、といった智恵子の心を思い

なんだか寂しくなった。

 

帰り道、「鎮魂の丘」付近で挨拶をした女性が

お墓参りを終えて、こちらへ歩いてきた。

 

二本松の歴史資料館までの近道をお訊ねすると

「送っていきますよ」と仰って下さった。

 

聞けば、最初にすれ違った時からずっと

若い人がたった1人でここまで

一体どこから歩いてきたのかと

心配していらしたとのこと。

 

1度は遠慮するも「熊が出るかもしれないから」という

言葉をお聞きし、お言葉に甘えることに。

 

「鎮魂の丘」で出逢ったのは

二本松に暮らす、渡部(わたなべ)さん。

 

歴史資料館までの道すがら

智恵子の実家・長沼家の菩提寺

二本松城の場所をご案内して下さった。

 

遠い昔の家族が、光太郎の暮らしたアトリエ付近に

同じ時代暮らしていたことーー

 

見ず知らずの私の話を真摯に受け止め

ニコニコと興味深く聞いて下さる、心優しい方だった。

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                             ▶︎ 二本松市歴史資料館(二本松市本町1-102)

 

 

 

 

二本松市歴史資料館でも

高村光太郎・智恵子の記念年の企画展が行われていた。

 

切り絵や絵画のほか、智恵子本人のその時の心情や

苦悩を照らし出す書簡の品々。

 

心を患いながらも、最後にたどり着いた

智恵子の「切り絵」の世界は、光太郎への

愛と美に溢れていた。

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大正から昭和の初めという、抑圧された芸術界において

自らの目指すものを追い求めた、智恵子と光太郎。

 

2人の思い描いた世界は、智恵子の病・死を乗り越え

やがて『智恵子抄』という作品に昇華していく。

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智恵子が愛した「ほんとの空」を思い浮かべながら

今日1日のことを思い返す。

 

「智恵子の家」の入口受付で「智恵子の杜」のことを

「イメージはハリウッドの山な感じだけど、歩いていけるから」

とあれこれ教えて下さった女性の方。

 

稲荷八幡神社からの道すがら

色々とお話をした、

福島県須賀川市からいらした3人の女性たち。

 

そして、「鎮魂の丘」で出逢い、

見ず知らずの私を「二本松歴史資料館」まで

車で送って下さった、二本松の渡部さん。

 

智恵子と光太郎、2人の愛と美の軌跡を追求する途中に

この二本松の町で出合った、心温まる数々の親切は

私にとって忘れられない思い出となった。

 

 

 

 

 

それでも善い方なのよ

 

傘貸してくれる工場なんか

外(ほか)にはないことよ

 

 

 

 

 

光太郎が遠い昔に詠んだ「丸善工場の女工達」の

フレーズを1人思い出す。

 

ある日の夕方、突然降り出した雨。

 

丸善の番傘1つにそっと身を寄せ合うように入り

雨の雫を避けながら、夕暮れの団子坂をおりていく

若い女性社員たちの姿が、私の脳裏に浮かんだ。

 

工場で働く彼女たちに、そっと差し出された

「雨傘」という何気ない親切。

 

それを許可したのは、きっと

工場長の斉藤豊四郎なのだろう。

 

どの写真を見ても、自信に満ちた優しい笑顔で写る

彼の姿は以前からとても印象的であったが

やはり心優しい人だったのかもしれない。

 

昭和4年撮影の「丸善駒込工場」社員集合写真の中には

ありし日の光太郎と出逢い、雨の雫を避けながら

「こんな親切な工場はほかにはないわ」と笑顔で話した

女性社員も写っているのだろう。

 

 

いまでは、そのことを知る人などなく

高村光太郎のアトリエ」のあった付近に

そのことを伝える看板がひっそりと佇むのみである。

 

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             ▶︎ 高村光太郎のアトリエのあった場所に佇む看板

 

 

 

<参考文献>

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

 

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