「こんな夢をみた」
この言葉を繰り返し、次から次へと
主人公の「私」が夢の中で目にした
あらゆる出来事へと場面が展開していくーー
黒澤明監督作品映画 「夢」
「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」
「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の
8話からなるオムニバス形式映画。
初めて観たのは、テレビでの放送だった。
もちろん、オムニバス形式の映画ということも知らず。
トンネルがまだ「隧道」といわれていたような
時代背景の作品なのだろうか。
テレビをつけると、たくさんの青白い顔をした
亡霊のような兵隊たちと話している
物語の主人公である「私」の姿が映っていた。
少し目を離した隙に、突然ゴッホらしき人物と
「私」が2人、明るい麦畑に佇む場面に切り替わりーー
数分の間に起きた「暗」から「明」
そして「和」から「洋」への大展開に
何が起きたのか全くわからず、混乱したものだ。
そして、この映画を観た時、私がふと思い出したのは
▶︎『漱石全集』全34巻(岩波書店発行)『夢十夜』は、第16巻
祖父から父へ、父から私へ。三世代に引き継がれ愛される、我が家の書棚の「重鎮」
明治41年(1908年)7月25日から8月5日にかけ
漱石の生きた明治を「現在」とし
神代・鎌倉そして100年後と時間軸を変え
描かれていく、不思議な夢の世界。
この作品の中で、私の印象に最も強く残ったのは
この言葉だった。
▶︎ 夏目漱石(明治43年4月撮影)『漱石全集』第9巻 『門』口絵より
「 百年、私の墓の傍に坐つて
待つてゐて下さい。
屹度逢ひに来ますから」
(『漱石全集』 第16巻 小品 上 『夢十夜』より 夏目漱石著 岩波書店発行 )
漱石は何を思い、この印象的な表現を用いたのだろうか。
まるでこの言葉が現実になったかのような
ニュースを目にし、ドキッとした。
「漱石アンドロイド完成」
から作った、人工音声を持ち、現代の世によみがえった。
「ご無沙汰ですね」の一言を聞いた時
なぜかとても感慨深く、胸がときめいた。
その社屋があった、有楽町マリオン11階・朝日ホールで
一般公開されるという情報を聞き、
居てもたってもいられず、「漱石先生」に会いに行った。
会場に到着。
いよいよ「漱石先生」に会える。
▶︎ 座った状態の「漱石アンドロイド」
44個の空気圧アクチュエーター(駆動装置)で作動する
初めて見る立体の「漱石先生」は大変穏やかに
「座ったままで失礼します」と言い、
『夢十夜』を静かに朗読し始めた。
想像していたよりは、人形のようかな、と思った瞬間
数人の人の姿をかき分け、突然パッと私の目を見つめた。
アンドロイドに内蔵された 「目」のカメラが
私を認識したのだろうけれど
人間と目が合った時と変わらない気持ちがし
内心ドキッとした。
私が訪れたのは、一般公開の予定時刻より早い時間。
まだまだ人も少なく
皆、ただただ「漱石先生」を静観する感じだった。
本当は握手をしてみたかった。
家から持参した我が家の「重鎮」
▶︎ 肌には「特殊シリコーン」を使用。横から見ると、髪には所々白髪も混ざっている
朗読の一言一句を頷きながら
目を細めて傾聴する女性たち。
杖をついた年配紳士が、震える手を懸命に伸ばし
自身のカメラに漱石をおさめようとする姿もあった。
まるで『夢十夜』の中の台詞のように
没後100年に見事よみがえった「漱石先生」
それぞれが先生と一緒に過ごす、思い思いの時間。
100年経った今も、夏目漱石が大変多くの人々に
愛されていることを実感したひとときだった。
明治42年3月3日(水)
朝新橋停車場へ行く。
丸善ニテブルジエの小説と
バザンの小説を買ふ。
(『漱石全集』第25巻 日記 及断片 中 より抜粋)
▶︎ かつての新橋停車場の姿。木骨石張りの洋風建築で
二階建ての2棟を平屋の建物が繋ぐ形で建てられていた
明治43年6月30日(木)
森田 丸善より電話をかける。
大塚へやる文房(具)
に就いてなり。
森田来。六圓五十銭の
インキ壺を見せる。
(『漱石全集』第25巻 日記 及断片 中 より抜粋)
この日記が書かれる、約2ヶ月ほど前のこと。
佐野利器(さの としかた)設計。レンガ造り4階建、我が国初の鉄筋建築。
1階には洋品、文房具、国内刊行書、2階は洋書、3階は事務室、4階は倉庫となっていた
5月1日に落成式が行われ、翌週の9日、
東京市内の新聞記者三十余名が
その新築披露会に招かれたのだった。
招待された新聞記者・文士の中には
明治 43年 5月9日 午前 10時 30分
新聞記者たちの姿。
玄関には三代目社長の小柳津要人を始め
重役陣がずらりと並び、到着した記者たちを
3階の待合室へと案内していく。
電話室で忙しそうに、5台の電話器を扱う交換手。
3階の事務室では、100余名の社員たちの働く姿。
たくさんの文房具や珍しい西洋雑貨の品々に
背表紙の金文字が眩しい、
書棚の中の数多(あまた)の洋書たちーー
夏目漱石を始め、多くの記者たちが目にした光景だ。
その後、一同は車で帝国ホテルに移動。
盛大な昼餐がおこなわれた。
▶︎ 初代・帝国ホテルの姿(渡辺譲設計、木骨煉瓦造、3階建、客室数約60)
明治23年(1890年)竣工。大正8年(1919年)失火から全焼した
翌日付の『東京朝日新聞』の記事には
こんな記載がある。
「宴半ばにして小柳津氏、来賓総代として
雪嶺博士の答辞、石川氏の乾杯辞、
二時半散会。
当日の客人は総数三十名の上に出で、
蘇峰、漱石、水哉、松魚、秋骨、孤蝶、
小波、天渓等の諸文星も見えた」
ちょうど100年前。
夏目漱石が亡くなった年に撮影された、
この写真を最後に三代目社長・小柳津要人は勇退を申し出る。
その後は丸善相談役として、社の発展に力を尽くした
勉強熱心な社員たちは、仕事の後に皆
懸命に英語やドイツ語などを勉強し
その中から、それぞれの「得意技」を見出した。
丸善もまた、積極的にそうした「学びの場」を社員たちに与えた。
▶︎「丸善夜学会」第1回卒業式記念写真(上段左;三代目社長の小柳津要人)
出 典;『丸善百年史』
前列左の人物は、祖父の旧友・井上清太郎氏。
彼らはただ本を売ることだけではなく
「活字」を媒介に、教育・文化の発展や
芸術の普及に向け、それぞれ一生懸命に
東奔西走したのだ。
丸善が多くの文豪や名だたる教育者たちに
深く愛された理由。
それは、社員1人ひとりのこうした見えない努力の
積み重ねの成果だったのではないかと私は思う。
「眞白な百合の花が鼻の先で
骨に徹(こた)へる程匂った。(中略)
「百年はもう来てゐたんだな」と
此の時始めて氣が付いた」
(『漱石全集』 第16巻 小品 上 『夢十夜』より 夏目漱石著 岩波書店発行 )
「夏目漱石をアンドロイドとしてよみがえらせ
学校の教壇で、講義を行いたい」
それが「漱石アンドロイドプロジェクト」に
携わる人々の目標だという。
「漱石先生」を愛する私たちにとっても
皆が心に抱く願いではなかろうか。
そして、それは夏目漱石自身がこの100年見続けている、
「夢十一夜」なのかもしれない。
<参考文献>