明治・新聞事始め 『時事新報』の福澤諭吉 と 『自由新聞』の板垣退助 〜2人を繋ぐ彫刻家
「 大学卒業後は、新聞社に入りたい 」
バブルはとっくに弾け、就職難に突入していた時世。
若さと情熱以外持ち得なかったそんな私を
家族のように温かく迎え入れてくれた新聞社があった。
入社してみると、6大新聞の1社とは思えぬほどの
アットホームで、人間味溢れるとても良い会社。
「 希望は記者職だけれど
どんな内容であってもいい
なんとか新聞の仕事に携わりたい 」
高校時代からのまっすぐな思いをしっかりと受け止め
その後の人生を切り開くための大きなチャンスをくれた
その新聞社の広告局で、周りの人たちの優しさに支えられ
大学時代の約2年半、インターンとして社員と変わらぬ
仕事をした日々は、いまでも私の大切な宝物である。
その時、担当した仕事は「 新聞広告 」
日々発行される朝夕刊に掲載される、数多くの広告原稿を
割付と呼ばれる「紙面レイアウト」に基づき
扱い広告代理店と連絡を取り合い、1点ずつ入手・確認。
これから発売される書籍や雑誌、車、化粧品、イベントなどの
告知広告にワクワクしながら、原稿を自社の制作工程チームに
まわしたり、名古屋、金沢などの別本社に送ったりと
とにかく毎日が新鮮そのもの。
人生の中で、忘れることのできない、
貴重な時間を過ごさせていただいた。
わが国において、新聞広告の立ち上げを
初めて行った人物は、福澤諭吉である。
▶︎ 福澤諭吉( 1835〜1901 )
出 典;『 丸善百年史』
明治16年前後、私の古い家族の1人は 慶應義塾に在籍、諭吉宅に居候していた
明治 15年(1882年)
3 月1日
日刊新聞である『 時事新報 』を創刊した福澤諭吉は
その立ち上げと同時に、新聞社経営の手法の1つとして
「 新聞広告 」に着目。
それまで数回にわたり使節団として
渡欧経験があった福澤は
欧米のビジネスモデルをいち早く理解し
日本の社会でも取り入れようとしたのだろう。
『 自由新聞 』社員であった永田作右衛門と
『 絵入自由新聞 』社員であった、中沢丙一に
広告取次業務の仕事をすすめた。
個人商店のようなものではあったというも
これが「 新聞広告 」の始まりである。
▶︎ 『 時事新報 』創刊号
日本の新聞で初めて「 漫画 」や「 お料理レシピ 」を載せるなどした
出 典;慶應義塾出版会ホームページ
黎明期の新聞は「 大新聞(おおしんぶん)」と
「 小新聞(こしんぶん)」とにわかれていた。
前者は、当時流行していた政治の話題中心の
士族( 旧武士 )をターゲットにしたもの。
後者は、娯楽性を重視した、全文平仮名付きの
一般庶民( 町人 )向けのもの。
『 東京日日新聞 』『 郵便報知新聞 』などが「 大新聞 」
『 読売新聞 』『 東京絵入新聞 』などが「 小新聞 」の代表格だった。
▶︎ 明治14年(1881年)3月創刊の『 東洋自由新聞 』(大新聞)
諭吉の『 時事新報 』は『 東京日日新聞 』『 報知新聞 』『 國民新聞 』
『 東京朝日新聞 』と並び、東京五大新聞と評された
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション
明治3年(1870年)12月8日、横浜で創刊された
日本初の日刊新聞『 横浜毎日新聞 』
創刊ラッシュが始まる。
その中の1人に、板垣退助がいた。
▶︎ 板垣退助(1837〜1919)
出 典;Wikipedia
立憲政治視察のため出かけた欧州で「 ルイヴィトン 」のトランクを購入。
同郷の土佐藩士・後藤象二郎とともに愛用したという(1882年〜1883年ごろ)
株式会社を作り、党の機関紙を発行することにした。
明治15年(1882年)6月25日
『 自由新聞 』創刊
「 彼を知り、己をしれば、百戦あやうからず 」
創刊後、社長であった板垣退助は、毎日のように出社し
社員たちに孫子の兵法を繰り返し説いたという。
▶︎『 叛骨の友情譜 幸徳秋水と小泉三申 』
鍋島高明著(高知新聞社刊)
板垣退助率いる『 自由新聞 』には、大逆事件で理不尽な最期を遂げた、幸徳秋水もいた。
秋水が生涯を通じ親友だった、南伊豆子浦出身の小泉三申。2人の出逢いも『 自由新聞 』だった
遡ること数ヶ月。
『 自由新聞 』創刊を間近に控えた、4月6日。
板垣は大変な事件に遭遇した。
遊説先の岐阜県で、暴漢に襲われたのだ。
岐 阜 事 件
( 岐阜公園内にあった建物 )での演説を終え
午後6時半ごろ、帰途につこうと階段を下り始めた時
板垣めがけて、1人の男が突進してきた。
刃渡約27㌢の短刀が、板垣の左胸を刺した。
刺した男は、相原尚褧( なおぶみ )という人物で
愛知県東海市横須賀の小学校教員。
政治的思想の違いから及んだ犯行だった。
当時の事件現場の様子が、いまも「 国立公文書館 」に残されている
板垣死すとも自由は死せず
あまりにも有名なこのフレーズが誕生したのは、
この時だという。
当時、熱を帯びていた「 自由民権運動 」
その中で起きたこの大事件。
現場となった岐阜公園に
板垣退助の像が建てられたのは
いまからちょうど100年前の
大正6年(1917年)のこと。
第二次世界大戦の「 金属供出 」で
一時姿を消した後
昭和25年(1950年)に再び
板垣の像が再建された。
この像の制作者は
彫刻家の柴田佳石( 珂赤、珂石 )である。
明治33年 (1900年)に東京で生まれ
慶應義塾の普通部に学んだ彼は
長崎「 平和祈念像 」の作者として知られる
北村西望に彫塑を学び、昭和26年(1951年)
日本陶彫会発足時の会員となった。
明治34年(1901年)2月3日に
亡くなった、福澤諭吉。
没後50年を経て、生前の福澤の面影を知る者も
少なくなったころ。
それまで「 諭吉先生 像」のなかった
慶應義塾大学の三田キャンパスに
先生の姿を建立しようという運動が起きた。
その時、制作者として指名を受けたのは
慶應義塾OBでもあった、柴田佳石だった。
昭和 29年(1954年)
1 月10日
福澤諭吉の生誕から数えること、120回目の誕生日。
慶應義塾大学内で盛大な除幕式が行われた。
「 福澤先生銅像建設会 」寄贈
柴田佳石制作の福澤諭吉胸像が
ついにお披露目となったのだ。
塾生たちが待ちに待った
福澤諭吉先生像。
響き渡る歓喜の声と大きな拍手の渦の中心には
1人の塾生として <先生>を見つめる
柴田の姿があったのだろう。
▶︎ 福澤諭吉像(柴田佳石作) 1954年 ブロンズ
これほどまでの作品たちを残しながら
彫刻家・柴田佳石の存在は
ほとんど知られていない。
彼の本名が「 簡野福四郎 」であること。
昭和43年(1968年)に天に召されたこと。
それ以外のことは、何もわからない。
ただ1つ確かなことは
彼が私の祖父の親友であったこと。
祖父の残した手帖の中の「 知友人欄 」に書かれた
「 柴田珂赤 」の名前と住所、電話番号、そして
< 彫刻家 >の文字。
その証というわけではないが
わが家には、柴田が生みだした作品が
いまも大切に保管されている。
▶︎ 「 裸婦像 」柴田佳石作(珂赤、珂石)
プレゼントされたのか、祖父が購入したのか。
祖父も柴田佳石も、私が生まれるずっとずっと昔に
亡くなってしまっているため、経緯は定かではないが
在りし日の2人が育んだであろう「友情」は
長い長い歳月を乗り超え
孫である「 私 」の元でいまも大切に守られている。
遠い昔、明治の幕開けとともに
新聞媒体に情熱を注いだ
その2人の偉業を後世に残すための
銅像を手がけた、彫刻家・柴田佳石。
先人たちと同じく、新聞という仕事に情熱を傾け
全力投球してきた私の元にそっと姿を現した
彫刻家・柴田佳石の作品の数々は
生きて会うことができなかった
祖父から私への時を超えて届いた
なんらかのメッセージなのかもしれない。
撮 影;司 忠 ( MARUZEN CAMERA CLUB )
彫刻家・柴田佳石の作品
「 乙女の像 」 昭和11年/昭和26年再建 岐阜公園 (岐阜県岐阜市)
「 板垣退助像 」昭和25年 岐阜公園 (岐阜県岐阜市)
「 小便小僧像 」 昭和25年 小田原駅 (神奈川県小田原市)
「 福澤諭吉胸像 」 昭和29年 慶應義塾大学三田キャンパス (東京都港区)
「 福澤諭吉胸像 」 昭和29年 福澤諭吉記念館(大分県中津市)
「 女神アテナ像 」昭和27年 丸善株式会社の依頼にて制作(当家にも1体保管)
<参考文献>
『 叛骨の友情譜 幸徳秋水と小泉三申 』 鍋島高明( 高知新聞社刊 )