2016年の1年間のみだったが
なんとも不思議な体験をした。
高祖母の旧友であった、小柳津要人が
何度も夢に現れては、私にこう語りかけた。
「お世話になった人の命日には
こうしてお参りをしたものだよ」
毎回毎回、異なる全く見知らぬ、廟所。
しかしながら、そこにはいつも墓石へと向かい
懸命に手を合わせる、小柳津さんの後ろ姿があった。
小柳津要人(1844〜1922)筆者私物
「なぜ私の夢の中に突然に現れ
こんなに何度もお墓の話ばかりするのだろう」
「サイコなやつ」と思われたくなく
誰にも話せずにいたところ
近々無くなるようだという話を耳にし
鳥肌が立つ程に驚いた。
かつて親しくしていた旧友の「末」である私に
この一大事を伝えようとしたのだろうか。
そんなことがこの世に本当にあるかは
わからないが、すぐに花束をもって
▶︎ 青山霊園 墓地南入口付近(東京都港区南青山2-32-2)
西麻布方面から赤坂8丁目を臨む通り。この近くに小柳津さんたちの「家」があった
その日から昨年11月1日まで
わずか十数回ではあったが
できるだけお命日前当日に花束を持って
青山の小柳津さんの「家」に足を運び
古い家族たちが代々お世話になったことや
祖父と弟を日本橋丸善に導いていただいたことへの感謝を伝えた。
祖父とその弟、父がお世話になったことを
小柳津宗吾(1893〜1976) 昭和30年頃 筆者私物
旧制第五高校を経て、東京帝国大学法学部卒業。大正7年丸善入社。
取締役秘書部長を経て、昭和22年「丸善商社」社長。昭和33年丸善参与
唯一生きて会うことができたかもしれない
お孫さんの淑子さんには
『遊撃隊戦記』を後世へと残してくださったことに
ついての感謝の気持ちを伝えた。
▶︎『小柳津要人追遠(遊撃隊戦記)』 富澤淑子編
かつて「私のお墓の中に私はいません」
中に誰かがいて私の話を聞いているのではないかと
疑いたくなるほど、お墓参りをしながら
何気なく小柳津さんたちに話しかけたことへの答えが
しばらくすると普段の生活のどこかで返ってくる
そんな不思議な体験を何度もした。
なんとか後世に残さなければならないと
「マルゼニアンの彰考往来」をスタートさせたのも
こうした摩訶不思議な体験があったからにほかならない。
▶︎ 小柳津家廟所(2016年10月16日撮影)
10月17日の小柳津宗吾さんのお命日によせて
淑子さんも喜んでくれそうなかわいらしいお花を選んだ
祖父が肌身離さず、持ち歩いていた黒い手帖の
先頭ページには、その人生で関わり合った
書き記されていている。
もしかすると、祖父は生前の小柳津さんから
先人たちに感謝することの大切さを
よくよく教えられていたのかもしれない。
平成29年(2017年)11月1日
近々青山を出られる、小柳津さんたちに
最後のお別れをしに行った。
清楚な「真っ白な百合の花」を選んだのは
「第一夜」で描いたシーンのように
小柳津さんが亡くなってから
ちょうど100年目のその日を
この青山で迎えたかった。
そんな口惜しい思いを胸に
精一杯の心を込めて、お掃除をし
ゆっくりとたくさんのお話をした。
小柳津さんたちにとっても、私にとっても「思い出深い街」となった
丸善の寮で過ごした店員たちの朝晩の食卓にも登場した「カクキュー」の八丁味噌
何がなんでも小柳津さんのお命日に行かなければと
台風並みの暴風大雨の中、 風に飛ばされそうになりながら
傘もささず、ずぶぬれでお参りした日。
霊園を彷徨う浮浪者たちに徐々に近づかれ
怖さのあまり思わず、お墓の中にいる
小柳津さんたちに助けを求めた日。
まるでよく知るおじさんたちの暮らす家へと
遊びに行くように、お墓参りが楽しくて
楽しくて仕方なかった。
いつもお別れが寂しく、たびたび振り返っては
「家」に向かって何度も手を振った。
▶︎ 青山霊園・西十七通り付近で可憐に咲く桜(2017年4月撮影)
人にとって1番大切なのは「心」なのだと
教えてくれた、小柳津さん。
先人に感謝する気持ちを持ち続けることや
お墓参りの大切さをそっと教えてくれた、小柳津さん。
人は亡くなっても、姿形がなくなるだけで
その「心」や「想い」 は消えることなく
かつて抱いた愛情や縁は、不思議な形で
代々繋がっていくものなのかもしれない。
▶︎ 小柳津さんの旧友だった高祖母を囲む、旧岡崎藩士の古い家族たち(大正13年2月3日撮影)
撮 影;二葉館(東京・本郷区肴町)
小柳津の父・宗和とともに、岡崎藩の御用人として藩に仕官した、太地源五太夫の孫
太地周三郎や、維新後に岡崎藩の大参事となった、河面三郎伊秀の妻も顔を揃える
青山から小柳津さんの「家」は消滅したが
私の心の中には、いつもいつまでも
小柳津さんたちは生き続けている。
小柳津さん、ありがとう。
(2017年11月1日撮影)
追 記;2019年3月29日
花曇りの今日。
あの日以来あまりに悲しくて寂しくて
一度も訪れることができなかった
小柳津さんたちの「家」の跡地に足を運んだ。
私の中の “ 誰か ” が青山に行こうと背中を押した。
もう会うことは叶わないけれど、それでもいい。
歩きながら自分は一体何をしているんだろうと思った。
それでも私の足は青山霊園を目指し止まることはなかった。
▶︎ 青山霊園 墓地南入口付近(2019年3月29日撮影)
西麻布方面から赤坂8丁目を臨む通り。今年も桜の季節がやってきた
いつの間にか綺麗に舗装された
西十八通りの階段。
待ちきれず1人駆け上っていく。
既に懐かしささえ感じる見慣れた景色の中に
小柳津さんたちの「家」だけがなかった。
▶︎ 小栁津さんの「家」のお隣の空き地は、参拝者の「憩いの場所」へ
小柳津さんの「家」にお参りさせていただく際には必ず併せてご挨拶をしていた
高木作蔵陸軍少将・梅子夫人の廟所前で「あなた、おひさしぶりね」そう言われた気がした。
私の曾祖叔父・米津逸三は「陸軍士官学校」第8期卒で、以降陸軍軍人として生きた人物。
「陸軍士官学校長」を務めた高木作蔵少将とは旧知の間柄だったのではないかと思えてならない
「寂しいね、小柳津さん」
そうなんども1人呟いた。
偶然通りかかった誰かに
「変な人」と思われても構わなかった。
小柳津さんたちに会いたかった。
淑子さんが一生懸命に手がけた
愛情溢れる温かな青山の「家」が
私はとても大好きだった。
彼女のもう1人のお祖父様は
静岡銀行の前身を作った
銀行家で篤志家の平野又十郎氏。
▶︎ 平野又十郎(1853〜1928)
出 典;『竜洋町の史跡・文化財』
明治の昔、瀕死の丸善を救った「浜松の人」金原明善。
その善行の数々に心打たれ、以降明善の背中を追いかけ
篤志家として生きた立派な人物である。
サラブレッドのようなその血筋にもまさる
淑子さんの人間としての心の美しさ。
小柳津の家を何とかして守り抜こうとした
淑子さんの武士のようなまっすぐな「志」
そして誇り高き小柳津家の人たちの存在を
私はいま一度、ここに顕彰したい。
▶︎ 今年も春を忘れずに咲いた青山の桜のように、私の小柳津さんたちへの気持ちも変わらない