大逆事件( 幸徳事件 )と丸善 〜「 非戦論 」を唱え散っていた、幸徳秋水と時流に臆せず「 信念 」を貫き通した、内田魯庵
3人の花形記者が揃って
『萬朝報』を退社した旨を伝える
記事が同紙面上に躍った。
▶︎ 『萬朝報』明治25年(1892年)11月1日創刊
第3面に扇情的な記事を載せたことから、世にいう “ 三面記事 ” という言葉が誕生した
“ 3人の花形記者 ” とは
内 村 鑑 三
▶︎ 内村鑑三(1861〜1930)
出 典;Wikipedia
文学者でキリスト教思想者。教員時代は、東洋英和学校(現;麻布中学・高校)などでも教鞭をとった
幸 徳 秋 水
▶︎ 幸徳秋水(1871〜1911)
出 典;WEB RONZA(朝日新聞社)
明治を生きたジャーナリスト。本名は、幸徳傳次郎。秋水の名は、師匠の中江兆民から与えられた。
「 足尾銅山鉱毒事件」における明治天皇への直訴状は、幸徳が書いたものである
堺 枯川 (利彦)
▶︎ 堺 利彦(1871〜1933)
日本の思想家・歴史家で小説家。内村の教え子である、東洋英和学校出身の山路愛山と親交あり
権力者のスキャンダルについて
執拗なまでに言及するスタイルを貫き
当時、東都最大の発行部数を誇った『萬朝報』
社論を大きく転じたことで
非戦論者である3人は、この結論に至ったのだった。
仲間たちとともに平民社を結社。
▶︎ 「 平民社」 本社前にて
出 典;Wikipedia
同年11月15日『平民新聞』を刊行した。
▶︎ 『平民新聞』 明治36年(1903年) 11月15日 第1号の紙面
出 典;Wikipedia
寄稿人として「斎藤緑雨」「木下尚江」「安部磯雄」「小泉三申」などが顔を揃えた
創刊号発行部数は、8,000部。日露戦争開戦の直後には、出征や戦火の様子を特集。64号まで発行された
ちょうど同じ頃、ある1人の人物が
机に向かい、懸命に翻訳作業をおこなっていた。
当時既に丸善に入社していた
内田魯庵である。
翻訳家・小説家。明治34年(1901年)丸善に書籍顧問として入社。
丸善のPR誌『學鐙』の編集に晩年まで携わるなど、丸善に大きな影響を与えた
彼の目が追っていたのは
ロシアのトルストイが書いた『復 活』
堕落した政府・社会・宗教への
痛烈な批判を込めた同作は
1899 年にロシアの雑誌『ニーヴァ』に
発表されたのを皮切りに
木下尚江の在籍した『毎日新聞』
(旧;『横浜毎日新聞』)に掲載された。
※現在の『毎日新聞』とは無関係
▶︎ 木下尚江(1869〜1937)
出 典;Wikipedia
旧松本藩士。英吉利法律学校(現;中央大学)東京専門学校(現;早稲田大学)出身。
「廃娼運動」「足尾銅山鉱毒問題」などで論陣を張った、評論家・新聞記者
内田魯庵に『復 活』の日本語翻訳を
依頼した時のことを木下はこう振り返っている。
「1人の好きな青年を励まして
トルストイの『復 活』を
訳させることにした。
此の青年は、ト翁(トルストイ)崇拝で
且つ立派な文章を持つて 居たので
感激して忠実に筆を執つた」
その後『復 活』は丸善から単行本として
明治41年(1908年)10月に前編が
明治43年(1910年) 1月に後編が出版された。
▶︎ 『復 活』日本語版の発売を知らせる自社広告(写真;右ページ)
『学 鐙』明治43年(1910年)7月18日発行号 前付掲載
日本とロシアは、明治37年(1904年)2月から
明治38年(1905年)9月にかけて
丸善社員として日々奮闘していた、八田庄治は
ドイツ語、英語など、その語学能力の有能さを買われ
米国陸軍少佐・相當官軍医シーマンの通訳として
満州へと旅立っていった。
▶︎ 丸善社員時代の内田魯庵(写真右)と八田庄治(写真左) 筆者私物
明治30年8月入社の八田庄治は、独学でドイツ語を研鑽。日露戦争時の明治38年5月〜7月の2ヶ月間
米国陸軍少佐・相當官軍医シーマンの通訳として満州へ。樺太民政省嘱託を経て、丸善に復職。
大阪支店支配人を経て、昭和2年取締役選任。令息・八田徳治とともに丸善に大きく貢献した
▶︎ 丸善3代目社長・小柳津要人(1844〜1922) 筆者私物
両国の対立から勃発した、この戦争に対し
「非戦論」を唱え続けたトルストイは
1904年6月発行の『ロンドンタイムズ』に
「悔い改めよ」と題した論文を寄稿。
▶︎ 晩年のトルストイとその孫
出 典;Wikipedia
この「非戦論」「平和主義」に共感した
『平民新聞』の紙面の大半を使い
日露戦争に対し、真正面から
彼に対する、政府の監視は
日増しに厳しくなっていった。
夏目漱石は、その時の様子を
連載中の「それから」の中に取り入れた。
「 秋水が外出すると、巡査が後を付ける。
万一、見失ひでもしやうものなら
非常な事件になる。今本郷に現はれた
今神田にきたとそれからそれへと
電話が掛かつて 東京市中大騒ぎである 」
(夏目漱石著『それから』より抜粋)
日露戦争の好景気の中、突き進もうとする日本政府。
その政府を批判し「無政府主義」に走らんとする、秋水。
仲間たちは、その身を案じ
“ 救出作戦 ” を計画する。
親友・小泉三申のすすめで、幸徳秋水が
湯河原の老舗旅館「天野屋旅館」へ向かったのは
明治43年(1910年)3月22日のことだった。
▶︎ 在りし日の「天野屋旅館」(大正時代)
幸徳秋水はこの場所に2ヶ月半逗留し『通俗日本戦国史』の執筆を行った
漱石も2回に渡り逗留。2回目に訪れた際、この場所で手掛けた『明暗』は未完のままとなった
明治43年(1910年)
6月1日 午前7時
上京すると言い残し「天野屋」から
人力車に乗り、出掛けていった秋水。
彼を待っていたのは「無政府主義者」
一斉検挙のため、湯河原の街にそっと
身を潜める、刑事たちだった。
午後8時30分
門川軽便鉄道待合所
▶︎ 小田原早川口から熱海までの海岸沿い25kmを駆け抜けた「軽便鉄道」(熱海鉄道)
昭和8年(1933年)丹那トンネルが開通。「東海道本線」へと姿を変えていった
出 典;Wikipedia
人力車を降りた秋水に刑事たちが近づき
“ でっちあげ ” の拘束状を元に検挙。
それは、秋水が明治天皇の暗殺を
計画している、という根も葉もないものだった。
その後、湯河原「天野屋旅館」で
秋水の隣室にいた、親友・田岡嶺雲の元にも
刑事が訪れ、駐在所への同行を求めた。
明治時代の評論家・中国文学者。『九州日報』の記者として北清事変に従軍。
下層民に対するヒューマニティの立場から健筆を振るうも
秋水処刑の1年後、後を追うかのように41歳で亡くなった。
東京帝国大学文科大学漢文科選科(現;東大文学部)卒業。
私の曾祖伯父は、同じ時期に東大漢文科本科に在籍していた(第一回卒業生)
出向いた駐在所で、嶺雲が目にしたのは
寂しそうに1人でぽつんと座っている秋水の姿だった。
1時近くになって帰宅を許された、嶺雲。
一言秋水と話がしたいと申し出るも
その願いが許されることはなかった。
「 さ よ う な ら 」
立ち上がって帰って行く気配の嶺雲に
秋水はそっと遠くから声を掛けた。
これが2人の今生の別れとなった。
明治43年(1910年)5月25日から始まった
無政府主義者の一斉検挙。
明治政府によって捏造された「天皇暗殺」
秋水は獄中で、1人胸のうちを書き綴った。
「 私は死刑に処せらるべく 今東京監獄の
一室に拘禁せられて居る。嗚呼死刑!(中略)
死刑となった、吉田松蔭も雲井龍雄も
江藤新平も赤井景韶も富松正安も死刑となった。
刑死の人には実に盗賊あり殺人あり放火あり
乱臣賊子あると同時に賢哲あり忠臣あり
学者あり詩人あり愛国者・改革者もあるのである」
(幸徳秋水著『死刑の前』第一章 「死生」より抜粋;一部省略)
郷里に暮らす母・多治子は
命掛けで息子・秋水を訪ねる旅に出た。
神戸ー新橋間が19時間も掛かった時代。
はるばる高知県の土佐から獄中の息子を訪ねた
齢七十の母は「最期は潔くせよ」と気丈に言い
一粒の涙も見せることはなかった。
そして四谷の宿屋に戻るや否や
声を上げて、ただひたすらに泣いた。
▶︎ 秋水の母、幸徳多治子
秋水と面会後の明治43年12月28日午前5時、急性肺炎のため急逝する(自殺説あり)
その様子は明治43年12月29日付『東京朝日新聞』で報じられた
明治44年(1911年)
1月24日 午前8時
幸徳傳次郎(秋水)以下
11名の死刑執行。
翌朝、管野須賀子処刑。
死刑宣告からわずか6日。
12名の人間がこの世から消された。
明治天皇へと直接嘆願しようとしていたが
間に合わなかった。
あまりにも早過ぎた。
まるで目障りなものを、秘密裏に消し去るように
政府の独断を以て、早々と完遂した死刑だった。
徳冨蘆花は「謀叛論」と題し
こう呼びかけた。
▶︎ 徳冨蘆花(1868〜1927)
出 典;Wikipedia
小説家。 熊本バンドの1人で、トルストイに傾倒。
父・徳冨一敬は、横井小楠門下の俊英だった
「彼らは乱臣賊子の名を受けても
ただの賊ではない。志士である。
自由平等の新天地を夢み、身を捧げて
人間のために尽くさんとする志士である」
幸徳秋水は、死刑宣告を受けた
明治44年(1911年)1月18日に
こんな言葉を遺している。
▶︎ 「幸徳秋水絶筆」(明治四十四年一月十八日)
出 典;幸徳秋水を顕彰する会公式ホームページ
こまごまとした成功失敗について
今あげつらうのはやめよう
人生への意気込みを捨てぬことこそ
古今を通じて大切なことだ
このように私は生きてきて
このように死んでいくが
罪人となってあらためて
無官の平民の尊さを覚えることができた
幸徳以下12名が処刑された「大逆事件」が
政府による捏造であったことが公にされるのは
第二次世界対戦後のことだった。
政府により抑圧され、自由な発言さえ
許されなかったこの時代。
事件後も決して「信念」を曲げることなく
▶︎ 「トルストイ談」内田魯庵 著(『学鐙』明治38年2月15日発行号)
大正5年(1916年)2月5日発行の『学鐙』の中で
“ 丸屋善十郎 ” はこう述べている。
(『学鐙』大正5年2月5日発行号「二階の一隅より」抜粋)
この “ 丸屋善十郎 ” なる人物は
内田魯庵その人である。
『学鐙』の書籍紹介ページに登場する
魯庵の分身 “ 丸屋善六 ” や “ 丸屋善助 ” は
丸善の宣伝マンとして、また1人の等身大の人間として
時に「愛」を、時に「人生」を優しく語りかけている。
100年以上後の今この瞬間に読んでも
心をぐっと掴まれる、文章の数々。
良いと思ったこと、自分が信じたことを
時代の流れに捉われることなく
広く世間の人々に伝えようとした、内田魯庵。
そのまっすぐな「信念」に
目頭が熱くなった。
▶︎ 大正5年(1916年)に撮影された、48歳の内田魯庵 (筆者私物)
今月の『東京人』に掲載された、二葉亭四迷ほか文化人たちの集合写真を目にし
はじめて自分が予てより気になっていた写真の人物が「内田魯庵」と気づいた
丸善もまた、一貫して毅然とした態度を貫いた。
社員の知識向上と修養のため
明治41年(1908年)から隔月で開催していた
「名士講演会」の弁士に、幸徳ら処刑された
12人の人々とも親しい、木下尚江を招いたのだ。
大逆事件からまだ間もない
同じ年の11月15日のこと。
丸善は利益を追求する一商社でありながら
何という危険をおかすのだろうーー。
当時の人々はそう口々に言った。
▶︎ 「沼津明治史料館」に佇む、江原素六先生像 ( 2015年8月訪問・撮影)
丸善が第1回「名士講演会」の弁士として、海老名弾正とともに招いた、江原素六。
旧幕臣で、戊辰戦争時「撒兵隊」を率いるも、慶應4年8月、徳川家達公とともに沼津へ移住。
この地で次々と新しいことに挑戦し、士族授産・土地の活性化に深く尽力した。
戊辰戦争戦後、この街で暮らした小柳津要人と旧知の仲であり、私の母校の先生でもある
政府の弾圧を恐れることなく
やがて来たる時代を感じ取り
正しい道をまっすぐに歩もうとした、丸善。
その先導者となって、新しい時代を照らし出すための
燈(ともしび)を掲げ続けた、内田魯庵。
誰よりも早く時代を先取りし、人々を導いていく
さらに不動のものとなり、暗く厳しい時代の中
世の風潮に雷同することなく
強くまっすぐに生き続けていったのかもしれない。
▶︎ 幸徳秋水から、反戦仲間・岡茂樹宛に送られた、ハガキと直筆サイン入りの写真
出 典;『高知新聞』2017年9月23日付
岡茂樹は、黒岩涙香の従兄弟。『萬朝報』時代に2人は知り合った
『平民新聞』に呼応し、岡はサンフランシスコに「平民社」支部を立ち上げた
▶︎ ロシアの作家・トルストイから安部磯雄を通じ「幸徳秋水たち」に送られた手紙
出 典;『丸善百年史』
▶︎ 『平民新聞』廃刊後、仲間たちの手で創刊された『直言』
昨年12月『平民新聞』『直言』『光』の計121号分が、三重県紀北町で発見された。
「 国立国会図書館に収蔵されていない欠番の新聞もあるかもしれない 」として調査が進む
<編 集 後 記>
私がはじめて「幸徳秋水」という人物を認識したのは
大学1年生時の「法律基礎」の授業だったと記憶します。
その後「彼」と再会したのは、いまから約10年前。
当時、毎月原稿を依頼していたジャーナリストの方が
出版なさった本のテーマ。
それが「幸徳秋水」でした。
昔の出来事、且つあまりにも難しい内容と感じ
しっかりと読むことができないまま
本棚にしまわれていた、その本のページが
再び開かれたのは、一昨年のこと。
丸善の歴史を辿る中で、欠かせない人物である
「内田魯庵」を調べた際、彼のお父上が
その昔、相場で一儲けした人物だと知り
「明治・大正の相場師」のことを数多く
描いていたその方の著作をあれこれ読み返したのです。
その1冊がこの『幸徳秋水と小泉三申』でした。
秋水の人生や取り巻く友人たちの様子が
細かく描かれ、今度はあっという間に
本の世界へと入り込んでいきました。
「なぜもっと早く読まなかったのだろう」
そうも思いますが、いまが私にとっての
“ その時 ” だったのだと思います。
10年ぶりに触れた、明確で美しい日本語表現。
毎月送られてくる、原稿が楽しみで仕方なかったこと。
はじめてお目にかかった時、サインをいただいたこと。
さまざまな時間が、一瞬で心によみがえりました。
この1冊がなければ「大逆事件」のことを
「幸徳秋水」という人物のことを
心にとめることもなく
明治という抑圧された時代を懸命に生きた
丸善人たちの思いを理解できなかったと思います。
素晴らしい著作を通じ、幸徳秋水の人生と
その生きた時代をご教示くださいました
日本経済新聞社・元商品部記者で
ジャーナリストの鍋島高明先生 ならびに
編集初心者だった私に鍋島先生をご紹介くださり
相場関連、経済関連記事のご指導をいただきました
日本経済新聞社・元商品部記者、高橋さんに
この場をお借りし、深く御礼申し上げます。
<参考文献>
『 学 鐙 』 丸善株式会社(大正 5年2月5日発行号)
『-反骨の友情譜- 幸徳秋水と小泉三申 』鍋島高明著 (高知新聞社)
『高知新聞』 2017年9月23日付 朝刊
「産経ニュース」 2017年12月7日付 「三重県総合博物館」記事
※本文内は『学鐙』にて表記統一