大佛 次郎を生んだ「丸善」と「中西屋書店」 “ 彦坂くん ” との思い出と丸善へのメッセージ
▶︎ 在りし日の「中西屋書店」
出 典;文房堂公式サイト
左手入口が画材文具店の「文房堂」右手入口が「中西屋書店」(神田の大火後の建物)
早矢仕有的の遠縁・池田治朗吉が「中西屋書店」の一部を借り明治20年「文房堂」創業。
明治39年(1906年)独立し、現在の「神田すずらん通り」に店舗を移し今日に至る
明治43年(1910年)のこと。
1人の青年が東京府立第一中学校
(現;東京都立日比谷高校)の門をくぐった。
のちに作家となる大佛次郎(本名;野尻 清彦)である。
▶︎ 『 The Blue Bird 』 Maurice Maeterlinck (1909)
単なる中古洋書の販売にとどまることなく
児童向けの絵本も次々に手がけた「中西屋書店」
その先導役として活躍したのは
“ 四人衆 ” 伊村克巳の養子となった
伊村金之助(旧姓;野呂)だった。
▶︎ 「丸善神田支店」支配人時代の伊村金之助(写真中央)
明治18年(1885年)8月25日「中西屋書店」入社
前列左より)佐々木正之助、伊村金之助、小田榮
後列左より)小川華子、高橋文子、大出サク、成島いね
大佛次郎に負けず劣らず
本好きだった伊村金之助は
鹿島鳴秋、巌谷小波らとともに
少女雑誌の編集を行いながら
数々の子ども向け絵本などを出版。
▶︎ 『少女号』(小学新報社刊)
出 典; 古書 古群洞
大正8年(1919年)第4巻第5号
大正5年(1916年)創刊、昭和3年(1928年)休刊
その後を追うように次々創刊されたのが
『コドモノクニ』(大正11年/ 和田古江)
こうした児童雑誌の創刊ラッシュにより
始まった大正期の「子ども文学ブーム」は
▶︎ 『童謡画集』(講談社/昭和12年)に掲載された清水かつら作詞の童謡「靴が鳴る」
作曲・弘田龍太郎 作画・川上四郎(大正8年発表)
出 典;「世界の民謡・童謡」
洋服と靴というスタイルが浸透し始めるのは大正後期ごろのこと。
清水かつらの歌詞に登場する「靴」には “ 新しさ ” があったに違いない
また、黒田清輝門下・白馬会所属の画家
岡野栄、中澤弘光、跡見泰らに
全国を写生旅行させて作った
さながらガイドブックともいえる
『 日本名勝写生紀行 』も丸善の分身である
「中西屋書店」伊村金之助渾身の企画だったことを
ここに忘れず挙げておきたい。
▶︎ 『日本名勝写生紀行』第壱巻(中西屋書店/明治39年)
木版画を含む贅沢な挿絵と紀行文で綴られた、素晴らしい作品。
岡野栄・中澤弘光・山本森之助・小林鐘吉・跡見泰らの挿絵は140点に及ぶ
▶︎ 彦坂弥三郎(昭和3年7月撮影;33歳のころ)
明治28年(1895年)愛知県生まれ、大正4年(1915年)丸善入社。
本店書籍部販売課次長などを担当し、昭和31年 (1956年)勤続40年表彰。
写真中央・蝶ネクタイの人物が当時27歳の彦坂弥三郎。
外務省時代の大佛が “ 彦坂くん ” と呼び時に歓迎し時に恐れた姿
そうして大佛は買った本の支払いのため
売れる原稿を必死で書くようになり
時代小説の『 鞍馬天狗 』で名を馳せ
『 パリ燃ゆ 』が生まれた。
出 典;「大佛次郎記念館」
記念館開館に際し 日本橋丸善にて「大佛次郎 “ パリ燃ゆ ” 資料展」が開催された
(昭和53年4月3日〜8日/日本橋丸善3階;資料後日掲載予定)
大佛の長兄である、天文文学者の
野尻抱影は『 学鐙 』の中に
こんな言葉を残している。
「 丸善は、彦坂氏は
後年の大佛次郎を生んだ
キッカケとなったと言っていい。
おもしろいことである 」
(『 学鐙 』第66-1より抜粋 )
▶︎ 野尻抱影(1885〜1977)
出 典;Wikipedia
随筆家で天文文学者。「冥王星」の名付け親。
若くして文学に興味を持ち、学生時代には小泉八雲に指導を受けた