昭和33年7月6日発行号(6月下旬発売)の
「 50年の思い出 」
このタイトルに続き、こんなことが書かれていた。
投稿の送り主は、かつてわずかな期間
とても気が弱かったこともあり
年下店員たちの心ない「いじめ」により
入社からわずか1ヶ月で
故郷へ帰ってしまったこと。
そうした中でも、先輩たちがとても
優しく親切にしてくれたことが
いまでも強く心に残っていること。
当時の大坂支店の支配人は
「大塚金太郎」という人物だったこと。
『思い出の記』をいまでも
大切に大切に持っていること。
「フジさん」と呼ばれていた上役の人が
毎日閉店後、懇切丁寧に英語を教えて
くれていたこと。
遠い昔のあれこれを懐かしく語った文章は、
最後こんな言葉で締めくくられていた。
こうした人物のことをご存知の方がいらしたら
嬉しい限りです」(東京都中野区・前田哲人)
この「前田哲人」という人物から
思いの丈の言葉たちは、やがて活字となり
全国の人々の元へと届けられた。
昭和33年7月2日
東 京・四 谷
図書館用品関連ビジネスに尽力していた
▶︎ 間宮不二雄 (丸善OB、日本図書館協会 理事)
出 典;富山県立図書館「間宮文庫目録」
当時 総務担当役員だった「伴亀之助氏」の紹介で、日本橋丸善に入社。
明治40年・京都支店開設に伴う一連の人事異動で、大坂支店メンバーとなった
あの投稿を寄せた、前田哲人氏だった。
彼の記憶の中の「フジさん」とは
実に45年ぶりの再会。
この再会劇の裏側には、たくさんの
この前田哲人なる人物に、数々の情報を寄せた。
雑誌発売とともに、前田氏へと連絡を入れたのは
当時、丸善本社重役 (監査役)だった、五十嵐清彦。
「丸善華客カード」を開発、粛々と作成していた人物だ。
▶︎ 五十嵐清彦 大正初期撮影
(明治40年4月入社〜昭和42年3月31日在職中に逝去)
祖母の「心友」 3代目社長・小柳津要人に連れられ、日本橋本店に入社。
明治43年から大正4年まで「不二さん」とともに大坂支店に勤務した
几帳面で、綺麗な文字を書く彼は、
不二さんの指示通り、顧客名を延々清書し
京都支店と福岡支店にも保管するようにと
ほか2冊清書して送った。
すぐに電話をかけ、このことを知らせた。
「 ストック係 」を務め、大正元年( 1912年 )に
書籍の在庫を効率的に整理するための
「 書籍売上スリップ 」を開発した人物である。
▶︎ 丸善「 ストック係 」だった、斎藤哲郎が開発した「 書籍スリップ 」
これが少しずつ発展し、各書店が在庫を管理する「売上スリップ」となった
やがて書店が商品在庫を管理するために
使用する「 売上スリップ 」へとして
新刊書籍の中に挟み込まれるようになり
世の中へとじわりじわりと浸透していった。
そのほか和歌山の成川 新一という人物からも
前田氏の元に連絡が入ったという。
インターネットもメールもない時代。
ネットワークにより、雑誌発売から数日にして
45年という時を超え、2人の再会が叶ったのだった。
▶︎ 丸善大坂支店社員集合写真 明治43年〜大正3年撮影
彼に徳富蘆花の本をくれたのは「鳥居義三」だった (3列目右から3人目)
かつての 支配人・大塚金太郎ともに、この時既に故人となっていた
▶︎ 何もわからない状態からやっとここまで解明
写真左上部3名のうちの中央の人物;「不詳」「加藤伊三郎」「伊藤慶之助」
2列目左「後藤新吉」?(明治末期から大阪支店に在籍)
たった1冊の雑誌の投稿がつないだ
遠く遠く離れた、人と人の絆。
この席上で発覚した
もう1つの不思議な縁。
それは、前田氏が仕事を通じ親しくしていた
不二さんとは、生涯を通じ無二の親友だったこと。
人と人との不思議なつながりを感じた前田氏は
この再会の席上で、あることを思いつく。
大手出版社編集局で、編集経験を積み
長く機関紙の編集長をしていた彼にとって
媒体作りこそ、最大の「得意技」であり
最高の “ 感謝の形 ” だったのだろう。
知り得た人々に「原稿依頼書」を送り始めた。
在籍していなかった彼に、すべての人が
良い顔をしたわけではない。
それでも数多くの人がこの考えに賛同。
続々と原稿が前田氏の元へと寄せられた。
その数、1ヶ月間で60通。
その1通1通の原稿に前田氏は、ドキドキと
胸をときめかせながら目を通したのだろう。
自分の知らない、大好きな先輩
「フジさん」の横顔。
空白だった、45年の時を埋める如く
1つの1つの原稿に目を通し
丁寧に校正していったのだろう。
閉ざされた彼の心の中の「45年間の思い」
それは決して物理的な「時間」に
限ったことではない。
去らざるを得なかったという
本人にしかわからない、複雑な思い。
「あの時いじわるをされなかったら」
「あの時もっと図太い神経を持ち
つまらない『いじめ』に耐え抜くことができたら」
ナンセンスなことかもしれない。
それでもその後の彼の人生において
心の片隅でずっと
その繰り返しだったのではないか。
苦しい自問自答。
永遠におわらない、心の葛藤。
まだ年かさいかない、地方出の素朴な少年から
これからの “ 夢舞台 ” を奪った「職場いじめ」
私には痛いほど、前田氏の心がわかる。
その悔しさを乗り越え、実現した再会劇。
初めて前田氏の気持ちが晴れ渡り
すべての思いが昇華していったのではないか。
前田さんの「フジさん」への感謝の気持ちから
誕生した、たくさんの愛情溢れる、原稿たち。
そうして完成したのが
▶︎ 『間宮不二雄の印象』 前田哲人 編 (昭和39年発行)全240頁
なった、中村春太郎は、この本の中で
中村春太郎(明治40年4月入社〜昭和37年12月退社) 写真左)伊藤孝子
入社したころ不二さんたち先輩に
英語を教わったことを懐かしく振り返り
不二さんがその後の人生の中で出合ってきた
幾多もの天災人災にもくじけることなく
地道な「図書館事業」に力を尽くす姿を賞賛。
取締役などを歴任した、伊藤四良(しろう)は
▶︎ 伊藤四良(写真当時福岡支店支配人、取締役など歴任)
昭和6年5月、取締役・八田庄治とともに8ヶ月間の欧米視察へ。
「しろうさん」は、 祖父・父ともに大変にお世話になった人物だ 昭和3年撮影
半世紀にわたり交友を続ける間宮さんを
友情に厚く、進歩的頭脳、博覧強記
剛毅果断の持ち主であるとし
ものがあると言った。
不二さんとほぼ同時期入社の斎藤哲郎は
入社したばかりで何もわからず
右往左往していた自分に
「君どうしたの?」とやさしく東京弁で話しかけ
とても親切にしてくれたことを懐かしく振り返り
▶︎ 写真前列左より)松下領三、斎藤定四郎、荒川實(7代目社長)
苦楽をともにした、五十嵐清彦は
支配人・大塚金太郎と不二さんが時々
巻き起こす、つばを飛ばしながらの大激論や
涙を流しながらの大論争があったことを
そっと明かした。
それは突然嵐のように起き、そうした後は
台風一過の如く、2人は笑顔だったという。
当時の大阪支店は、京都支店開設に伴う
売り上げ数字の減少をカバーするべく
関西ほかエリアでの、新たな販路開拓を
目指して百戦錬磨の日々。
その中心にいたのが、支配人・大塚金太郎と
「会計係」の村上英四郎、そして
みんなのリーダー格の不二さんだった。
▶︎ 丸善大阪支店・支配人 大塚金太郎、村上(犬塚)英四郎、間宮不二雄 大正初期撮影
支配人・大塚金太郎は、丸善創業4人衆「大塚熊吉」の長男として、明治11年8月8日誕生。
明治21年に丸善大阪支店に入社。村上英四郎は「会計係」として、大塚を支えた
遠い昔の大切な思い出。
「フジさん」への感謝の気持ちを
「活字」に変え、不二さんを取り巻く
たくさんの人々とその温かな思いを
共有しようとした、前田哲人氏。
数多(あまた)の友人たちから
賞賛の言葉を贈られた、不二さんは
こんな風に述べている。
「人生は五十年といいます。それに近い間、
全く消息を絶っていたのが、前田氏が
出来たことは奇蹟という外はありません。
この一事で更に深く感ぜしめられました」
「活字を愛する者」から「活字を愛する者」へ。
見えない糸がそっとつないだ、大きな奇跡。
不二さんにとって、この愛情がつまった1冊は
どんな勲章よりも大切な「宝物」となったに違いない。
祖父の旧友・不二さんのことを調べる中
その中で思いがけず目にした
在りし日の “ 祖父の声 ”
まるで本の中でずっと生き続けてきたような
祖父の言葉の数々に、思わず涙がこぼれた。
発行から半世紀以上の時間を超えて
孫である「私」へと届いたメッセージ。
これこそが「活字」の持つ 素晴らしさであり、
図書館の存在意義だと感じる。
前田氏が遺した1冊の本は
45年というその心の歳月にとどまることなく
この先の未来永劫、なにかを知ろうとする者すべてに
等しくあたたかなメッセージを与え続けていくだろう。
▶︎ 「交友50年丸善温故会」 昭和31年「しろうさん」の発案で撮影
丸善「本の図書館」長だった、 中村春太郎が「懐かしい先輩」と振り返った「玉井弥平」の姿や
前田氏が「フジさん」の大親友と知らずに親しくしていた井上清太郎の姿ももちろんある
写真前列左より)斎藤哲郎、伊藤四良、日下定次郎、玉井弥平
写真後列左より)間宮不二雄、福本初太郎、井上清太郎、五十嵐清彦、木内憲次
<参考文献>
『間宮不二雄の印象』 前田哲人 編 (昭和39年発行)