瀕死の丸善を守った、小柳津要人 〜彼を支え続けた “ 惣まくり ” の精神 と CSRの先駆者・早矢仕有的の「志」
その日も相変わらず真夜中近くまで
煌々と明かりが灯っていた。
部屋の中にただ1人残り
黙々と事務作業を続けている人物。
それは東京本店支配人の
小柳津要人だった。
▶︎ 小柳津要人(1844〜1922)
大学南校、慶應義塾で学び、明治6年 (1873年)横濱丸善商社入社。
大阪支店支配人、東京本店支配人を経て、明治33年丸善3代目社長となる
小柳津の丸善入社から約11年後の
丸善の屋台骨であった、丸家銀行が破綻した。
当時、丸家銀行の預金を流用し
商品に換えていた丸善にとって
店と銀行とは「車の両輪」のような関係。
丸家銀行の破綻はすなわち
丸善の倒産危機を意味していた。
丸家銀行破綻についてはこちら
koala555.hatenadiary.jp
それからの小柳津は
債権者たちと話し合っては
深夜0時頃まで帳簿の整理などをする毎日。
丸家銀行破綻から1ヶ月。
小柳津は1度も自宅に帰ることなく
丸善に寝泊まりしながら
事務処理に明け暮れた。
長女・鐸(たく)が重い眼病を罹った際も
「私が帰ったところで医者ではないから仕方ない」と言い
本当は心配な気持ちを1人ぐっと飲み込み
ただひたすらに会社の建て直しに邁進した。
▶︎ 小柳津一家が暮らした、旧駒込林町(現;文京区千駄木3丁目)に建つ看板
2016年2月5日撮影
小柳津家の近くに暮らしていた、大給子爵にちなみ「大給坂」と名付けられた坂道。
「大給松平家」は我が家の父方の先祖が220年に渡り代々仕官した大名であり
丸善の創業者・早矢仕有的が藩医として仕えた岩村藩主(大給氏分家)でもある
その後も1日置きないしは
2日置きに店で寝泊まりする生活が続き
気づけば、6年もの歳月が経過していた。
2016年2月5日撮影
大給子爵は邸宅を手放す際「庭のイチョウの樹だけは守ってほしい」と申し出た。
それからずっとこの場所で今日も亡き主人を想いながら1人寂しく生き続けている
丸家銀行の破綻をきっかけに
衰微し始めた、丸善。
店員たちは次第に浮き足立ち
それぞれに口実を設けては
逃げ出し始めた。
激減してしまった、店員の数。
「人の人情などまるで紙切れのようだ」
小柳津は心の中でそう思った。
そうした中でも1人獅子奮迅し続けるしかなかった。
彼の身を案じた友人はこういった。
「このように衰微している店に
長居したところで一生浮かぶ瀬はない。
この際転職してみてはどうだろうか」
そういってその友人は
自分の紹介できる「大蔵省」を
小柳津に何度も何度もすすめた。
その都度彼は丁重にお断りをし
一心不乱に丸善再建に向け
創業者・早矢仕有的に代わって
2代目社長となった松下鉄三郎とともに
事務処理を進めていった。
▶︎ 松下鉄三郎(1853〜1900)
創業者・早矢仕有的に代わり、2代目社長となった松下鉄三郎。
「命」をかけて丸善再建に尽力した彼の存在を忘れて欲しくない
「仕入先に対しては、いかなる犠牲を払ってでも
期限通りにきちんと為替を送らなくてはならない」
苦しい状況下での小柳津のこの行為が
後年丸善と海外の取引先との確固たる信用となり
電話1本入れさえすれば、どんな書籍であっても
すぐに郵送してもらえることに繋がった。
小柳津は後にこう振り返っている。
「一体信用というものは、之を積むには
多くの日月と多くの苦心とを要するが
之を破るには、実に一挙手一投速の
労に過ぎぬのである」
(『実業之日本』記事より抜粋)
15〜16年の長き月日をかけ
これを取り巻く人々の地道な努力の積み重ねにより
明治32年(1899年)終決を迎えようとしていた。
この間における丸善人たちの苦心の状況は
筆舌に尽くしがたいものだった。
ともに労苦を味わった、2代目社長の松下鉄三郎は
心身ともに疲弊し、ついに「命」を失った。
官吏への誘いを何度も断り続けてまで
小柳津が丸善再建にこだわった理由は
何だったのだろうか。
幼いころから叩き込まれた
“ 惣まくり ” の精神にほかならなかった。
「侍たるもの、どのようなことが起きようと
最後まで主君に忠実に生きなければならない」
▶︎ 本多平八郎忠勝公 (1548〜1610)
出 典;Wikipedia
戦の時には必ず鎧の上から大きな数珠を下げ、討ち取った敵方の供養をしていた
徳川四天王の1人であった
主君・本多忠勝公が遺した
この言葉を胸に強く刻み
代々の本多岡崎藩士たちは
長きに渡る徳川の世を生きてきた。
▶︎ 岡崎公園から臨む、我らの居城「岡崎城」(愛知県岡崎市康生町561)
2016年5月1日登城・撮影
「主君と枕を列(なら)べて
討死するを以って武士の本分となす」
幼き日の小柳津も岡崎城へ登城するごとに
この “ 惣まくり ” を読み聞かされた。
これこそが「武士の本分」だと叩き込まれた。
▶︎ 乙川方面から「岡崎城」へと向かう入口の橋
2016年5月1日撮影
徳川の世が終わるという時も
この「志」をもって戊辰戦争に
旧幕府軍の一員として参加。
沼津から箱根・會津浜街道を経て
五稜郭までを戦い抜いた。
丸善の窮状に遭遇した時も
あれこれ思い巡らせた結果
やはりこの教訓へと行き着いた。
「丸善」という名の主君と枕を列べ
討死する覚悟で全力を尽くそう、と。
しかしながら、小柳津が討死覚悟で
前代未聞の苦境へと立ち向かっていったのは
ただ単に幼いころからの “ 惣まくり ” の教え が
その魂に刻み込まれていただけではない。
偉大な人物の存在も大きく影響していたのではないかと思う。
▶︎ 早矢仕有的(1837〜1901)
坪井信道に学んだ後、慶應義塾に入塾、福沢諭吉に蘭学・英学を学ぶ。
横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)明治生命保険会社設立にも尽力した
慶應3年(1867年)2月12日
慶應義塾に英学修行の目的で入塾した。
これが福沢諭吉との「出逢い」
続いて彼が顔を合わせたのは
阿部泰蔵、小幡篤次郎・甚三郎兄弟
松山棟庵、小泉新吉ら福沢門下の人々。
当時の慶應義塾には、後の明治の世で
実業家として大活躍する人物たちが
ずらりと顔を揃えていた。
明治2年(1869年)1月
有的は、横浜・新浜町(現;中区尾上町)の自宅に
医書その他をならべて「書店」を開業。
これが「丸屋」の始まりであり
丸屋創業に際し、有的は
福沢諭吉の草案を参考に
「丸屋商社之記」を制定した。
凡ソ事ヲ為スニハ先ズ自カラソノ身分ノ地位ヲ
考ヘザル可カラズ今我輩ノ地位ヲ考フルニ
官ニ在リテ政ヲ為スノ責アルニ非ズ亦奴隷ト為テ
他人ニ仕ルノ務アルノ非ズ不羈自由我欲スル所ヲ
為ス可キ日本人ナリ既ニ日本人ノ名アレバ
亦其日本人タル身分ヲ考ヘ日本全国ノ繁栄ヲ謀リ
同国人ノ幸福ヲ助ケ成サザル可ラズ
(「丸屋商社之記」冒頭部分原文)
全文約8,700文字のうちの
冒頭部分138文字には
まだ見ぬ未来への理想と情熱とが溢れている。
いまから約150年前、未だ戊辰戦争も終わらぬ中にあって
現代に通ずる、CSR(=企業の社会的責任)の理念を
創業の精神として冒頭堂々掲げた、その「志」
彼の度量の広さを窺い知ることのできる
こんなエピソードが残っている。
大変に囲碁を好んだ有的。
時々夜遅くまで烏鷺の戦いを
丸善の店頭で度々かわしていた。
店員たちが夜やすむことができずに
大変に困っていることを知った小柳津は
時折それとなく忠告するも
深夜におよぶ店頭での熱い戦いが
止むことはなかった。
「この有様では到底店の立て直しも叶わない」
心を決めた小柳津は、辞職覚悟で
囲碁を楽しむ有的の前に出て
「どうか囲碁を自粛してほしい」と申し出ると同時に
その碁盤を思い切り叩き割った。
「怒られる‥‥‥」と思った小柳津。
「ああ、自分が悪かった、今後は改めよう」
そう言って、小柳津を咎めることはなかったという。
「流石、寛仁大度の社主だ」
そう小柳津は感じた。
早矢仕有的の度量の広さにより
命拾いした小柳津は一層のこと
彼の高い「志」のもと産声をあげた
丸善に対する思いを強くしていった。
有的も小柳津も亡き後の丸善で
創業者・早矢仕有的が明治初期に
社是として掲げた「企業の社会的責任」について
感銘を受けた丸善人がいた。
後に司 忠 (つかさただし)の後を継ぎ
9代目社長となる、飯泉新吾である。
▶︎ 飯泉新吾(丸善9代目社長)
出 典;『財 界』(昭和47年5月)
明治38年(1905年)茨城県筑波郡矢田部町(現;つくば市)生まれ。
大正9年丸善入社、取締役秘書部長を経て、昭和46年10月社長就任
▶︎ 取締役秘書部長時代の飯泉新吾(昭和31年)
▶︎ 『マネジメント』ピーター・ドラッガー著
「自宅に招いた日本人は、飯泉が最初で最後だ」
マクミランのこの言葉を思い出すたび
遠い遠い昔、全てを投げうって
瀕死の丸善を「志」1つでひたすらに守り抜き
未来の丸善人のため「信頼」という名のバトンを繋いだ
小柳津要人のひたむきな姿を思い浮かべずにはいられない。
< 編 集 後 記 >
本日9月8日は、丸善創業者である
幕末の動乱期、いち早く新たな「志」を掲げ
明治2年(1869年)横濱に「丸屋」を創業した、有的先生。
その際、堂々宣言したのは「企業の社会的責任」(CSR)でした。
福沢諭吉門下を中心に「志」同じくする人々が相集い
日本の近代化を目指し、洋書輸入を主体事業として
誕生した日本で初めての「株式会社組織」
それが「丸 善」です。
インターネットで何でも買える時代に
万年筆のインク1つ求めるにも
丸善店頭へと向かう理由。
それはかつて「丸善人」であった
祖父と父のほのかな “ 面影 ” を
感じたいからなのかもしれません。
まるで「マッチ売りの少女」のように
心の中にぽっと温かな光が灯り
「今日もありがとう」
そんな気持ちになります。
高祖母と小柳津要人氏とのご縁に始まり
明治・大正・昭和と合計110年
わたしたち家族の「絆」と「丸善への想い」は
並々ならぬものです。
日本橋の “ 文化的シンボル ” として
これからもずっとこの場所で
多くの人々に愛される丸善であって欲しい。
訪れる人 一人ひとりの心に
「ありがとう」の気持ちが生まれる
そんな素敵な場所であって欲しい。
いつもそう願って止みません。
創業者・早矢仕有的先生のご誕生を祝すると同時に
江戸からの長きにわたり、当家とご縁がありました
「小柳津家」そして、祖父と父がお世話になりました
飯泉新吾さんに深い感謝の気持ちを捧げ
当記事を掲載いたします。
平成30年9月8日
マルゼニアン
▶︎ 今年100歳を迎えた「フクロウ文鎮」と有的先生
「丸善創業50周年記念」(新海竹太郎作/大正7年)
<参考文献>
『 実業之日本 』 実業之日本社 (明治43年4月1日発行)
『 実業之世界 』 実業之世界社 (大正 4年4月1日号)
『 投 資 経 済 』 投資経済社 (昭和57年4月1日号)
『 財 界 』 財界研究所(昭和47年5月発行)
資料提供;国立国会図書館
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題 字;飯泉新吾(丸善9代目社長)