< 太平洋戦争と丸善 2 > 「 鶏小屋 」で再起を誓い合った、仙台丸善の社員たち 〜焦土に建った仙台市内第一号の店( 丸善仙台支店・立川 武雄の記憶)
杜の都・仙台。
“ 独眼竜 ” で知られる、伊達 政宗公が
関ヶ原の戦い後、徳川 家康公の許しを得て
かつての国分氏の居城「 千代城 」
この街はまだ「 杜の都 」ではなかった。
慶長6年( 1603年 )国分氏の「 千代城 」を大改修し
新たに「 仙台城 」と名付け自らの本拠地とした
伊達政宗公はある日のこと、家臣たちを集めこういった。
「 屋敷内には飢餓に備え
栗・梅・柿など
実のなる木や竹を植え
隣との境には杉の木を植えよ 」
▶︎ 伊達 政宗( 1567〜1636 )
仙台を本拠地に62万石の城下町を築いた伊達 政宗公。
彼のお母上様は出羽国の名将・最上 義光公の妹君である
この言葉をきっかけに少しずつ少しずつ
人々の手により丁寧に作られていった屋敷林は
寺院仏閣の林や青葉山の緑と一体となり
“ 街全体が緑に包まれる姿 ” となった。
明治42年( 1909年 )の観光案内書では
仙台の街を「 森の都 」として紹介。
昭和初期になり「 杜の都 」と
記載されるようになった。
出 典;icotto 心みちるたび
青葉城の石垣や復元された大手門脇櫓を目にすることができる
江戸時代、この仙台城下に暮らす
豪商の多くは近江商人だった。
17世紀後半に仙台へと進出した奈良屋は
任じられ、藩の財政運用にも関与したほどだった。
時は移り変わり、江戸から明治・大正へ。
明治40年( 1907年 )東北帝国大学( 現;東北大学 )の
設立をきっかけに “ 学都 ” としての地位を確立したこの地に
丸善が「 出張所 」を開設したのは
大正4年( 1915年 )10月21日のこと。
翌大正5年( 1916年 )2月1日に
同出張所は仙台支店へと昇格。
▶︎ 丸善仙台支店初代支配人;館村 甚治
( 写真は昭和3年大阪支店支配人のころ )
館村が大阪支店支配人を務めた時代の同支店売場長は司 忠だった
その社屋は、仙台の街において伝統ある
あの「 奈良屋呉服店 」の立派な建物内に
堂々開かれたのだった。
▶︎ 昭和初期の「 丸善仙台支店 」
2階バルコニー部分の柱には「 M 」のマークが施されている
昭和の時代となり、日を追うごとに
戦争の足音が近づく中
ついに仙台の街の象徴であり
先人たちの絆の結晶である
「 杜の都 」が虚しく破壊される
「 その時 」が訪れた。
昭和 20年(1945年)
7 月 10 日
9日夜から翌10日未明にかけ
米軍B29機の空襲を受けた、仙台の街。
123機の爆撃機から落とされた
街の中心部を焼き尽くした。
▶︎ 飛行中のB29機( 機体のサイズは全長30,2㍍、全幅43.1㍍ )
出 典;jiji.com( 時事通信社 )
焦土と化した仙台の街に降り注ぐ
無情なまでの生暖かい大雨は
空襲を受け壊滅状態となった街を
さらに見るも無残な姿へと変えていった。
藩政時代からの由緒を持つ「 奈良屋呉服店 」の
巨構の中にあった、丸善仙台支店。
欅の梁は、なお数日余燼となって火を吹き上げ
燃え尽きたのは、仙台市内で最後だった。
▶︎ 空襲を受け焼け野原となった仙台の街
出 典;『 1億人の昭和史 日本占領2 動き出した占領政策 』
焦土に立ち尽くす、仙台丸善の社員たち。
兵役や休職命令で1人2人と仲間が姿を消していく中
支店の残留組として店を守っていた立川 武雄は
そのあまりの惨状に天を仰ぎ嘆息した。
「 早く営業を再開しなければ 」と焦るも
いくら歩き回れど大混乱の市中に
営業を再開する適当な場所さえ
得られそうになかった。
▶︎ 昭和初期の丸善仙台支店の社員たち( 部分 )
「 その日 」の記憶を後世へと伝え残した立川 武雄( 後列左から2番目;18歳のころ )ほか
林 義司、木村 金治郎、岩淵 芳治、菊地 久治などが長年に渡り仙台支店を支えた
前列左より)支配人;平原 暹三郎、吉田 正年、飯岡 宗次郎
中列左より)岩淵 芳治、伊藤 喜一郎、武藤 丈夫
後列左より)林 義司、立川 武雄、齋藤 徳助、笹崎 正實
がっくりと肩を落とす彼らに
温かな声をかける人物が現れた。
担当していた、宮城 徳三郎氏。
昔から丸善をご贔屓にしてくださる
大切な大切なお客様だった。
「 突飛な話だが、餌もなくて鶏も飼えず
空いている大きな鶏小屋がある。
それで良ければバラック替わりに使わぬか 」
建物を再建するための建築資材はおろか
板きれ1枚自由にならない難局。
立川 武雄を始めとする仙台支店の社員たちは
わらにも縋る思いで
宮城氏のご厚意に甘えることにした。
支店の焼け跡にぽつんと移築された
間口1間半( 約272.7センチ )
奥行4尺( 約121.3センチ )の鶏小屋。
この「 建物 」は、焦土に建った
仙台市内第一号の店として
市民の注意と羨望とを集めた。
3尺の焼きトタンに
日本語とローマ字で書いた
「 丸善仙台支店 」の文字。
立川たちはその「 看板 」を屋根へと掲げ
がらんどうの鶏小屋で互いに抱き合い
そっと「 再起 」を誓い合った。
「 衣料品配給登録 」では支店全社員が奔走し三越、藤崎の二大デパートを
凌ぐ大量登録を成し得た( 衣料品配給登録については後述 )
時同じくして焼け残った木町通りの一郭
呉服商の斎藤家が売る品物もなく
閉じていた店舗を丸善へと提供。
街の人々のそうしたあたたかな気持ちが
とてもとてもありがたかった。
さて次は商品だ。
売れる物であればなんでも
かき集めて良いとのことで
お椀、しゃもじ、火鉢、火箸などから
糊、紙、草履、下駄と荒物屋さながらの
商品たちが店の中へと次々並べられた。
本の類では『 週刊朝日 』やその後創刊された
『 雄鶏通信 』をはじめ、次々復刊されていく
雑誌の数々がその日のうちに
売り切れとなる盛況ぶり。
▶︎ 『 雄鶏通信 』( 雄鶏社/昭和21年4月上旬発行 )
出 典;史録書房
町の人々のご厚意による「 鶏小屋 」と「 借家 」とで
再起を目指した「 丸善仙台支店 」はその後
南町の太陽生命焼ビルの2階に事務所を移し
木町通りの「 遠正文具店 」の空き店と
荒町の「 小林雑貨店 」とを借り受け
事務所を中心に、北と南に売店を設けた。
社員たちは南町の事務所で荷受した商品を
二ヶ所の店舗に品出しすべく
雨の日も風の日も
一日中大八車を曳き続けた。
▶︎ 江戸時代から昭和初期にかけて活躍した「 大八車 」
出 典; さぬき市歴史民俗資料館
そうした社員たちのたゆまぬ努力の積み重ねにより
やがて国分町に平屋の仮店舗が完成する。
本や雑誌を求め徹夜をも辞さない
熱心なお客様たちが毎日毎日
長蛇の列を作って丸善の開店を待った。
復興への道を与えてくれた原点ともいえる
「 鶏小屋 」は平屋店舗の裏へと移築され
ようやく丸善独自の商売を開始することに。
それでも足りない「 棚 」や「 ケース 」ほか
一部商品は、丸善仙台支店開店当時の社員で
同県石巻市で有力化粧品日用品問屋を営んでいた
株式会社菊田商店社長の菊田 貞一郎が提供。
すべてが人と人との「 協力 」
そして「 助け合い 」で成し得たもの。
その後、昭和20年( 1945年 )10月30日
丸善仙台支店は新築社屋を起工、翌年9月10日落成。
同日から晴れて開店する運びとなった。
▶︎ 戦後やっとの思いで完成した「 丸善仙台支店 」社屋
制定された「 繊維製品配給消費統制規則 」
同年2月1日より衣料品の総合切符制が実施された。
▶︎ 「 衣料品切符 」( 丸善社員・髙根 博提供 )
出 典;『 丸善百年史 』
戦争中から戦後にかけて
繊維品の原料が一切輸入できず
極端に衣類の供給が逼迫したため
国民の繊維製品消費を規制しようと
政府が設けた制度で、以降人々は
下着や靴下、シャツなどの繊維製品を
自由に購入することができず
衣料品の購入には、1年間有効の
「 配給切符 」と「 お金 」とが必要になった。
▶︎ 我が家に保管されていた「衣料切符入」(表)
小売店は消費者の投票により登録店として指定された
▶︎ 我が家に保管されていた「 衣料切符入 」( 裏 )
以降、昭和25年( 1950年 )まで
続いていくこの制度。
書籍と並び、これまで自慢の洋品を
数多く取り扱ってきた丸善だったが
この時代は贅沢品が禁止され
全くもって腕の振るいようがなく
本店・支店とも「 衣料品登録 」をした顧客に
商品を渡すことが主な仕事となっていた時期があった。
「 丸善仙台支店 」仮店舗の壁面に掲げられた
“ 衣料品の登録をぜひ丸善へ ” のキャッチコピーは
戦後の辛く苦しい時代、仙台に暮らす人々とともに
手を取り合い、必死で復興を目指した
丸善社員たちの “ 確かに生きていた時間 ” を
戦後74年の “ いま ” にそっと伝える。
▶︎ 「 丸善仙台支店 」仮店舗に掲げられた衣料品登録の看板
『 丸善百年史 』にもわずかに記載されている
「 鶏小屋 」から戦後の復興を目指した
丸善仙台支店のエピソード。
しかしながら、誰が実際に体験し
本社へとその歴史を伝え残したのか
その一切が百年史には記載されていなかった。
その戦争体験を活字へと残した人物が
長年に渡って仙台支店を支え続けた
立川 武雄だと知った時
なんとか「 彼 」の名前を残したいと思った。
少年の面影をわずかに残す「 彼 」が
丸善社員としてたくましく成長し
戦中・戦後の大変困難な時期を
支店の仲間たちそして街の人々と
手を取り合い必死で乗り越え
次第に白髪混じりとなっていく姿を
古いアルバムの中に見つけた時
心の中に「 なにか 」が湧き上がった。
▶︎ 「 丸善仙台支店 書籍課のメンバー 」( 昭和31年撮影/部分 )
写真左より)岩淵 芳治、緑川 鶴松、菊地 久治、立川 武雄
岩淵、菊地、立川は長年に渡って仙台丸善を支え続けたメンバー。
撮影当時・仙台支店書籍課長だった緑川 鶴松は祖父ともっとも親しかった人物
遠い昔、祖父を見送ってくれた
緑川 鶴松、石川 万介、石森 恒雄、立川 武雄
宮生一夫、有賀 鉄雄、渋谷 晃、田中 幸夫ら
心やさしき仙台支店の仲間たち。
( 木村金治郎は、昭和37年3月21日先に旅立つ )
彼らが過去 “ 確かに生きていた時間 ” を
丸善人として生涯勤め上げた仙台の街を
いまここに顕彰したいと思った。
▶︎ 「 丸善仙台支店 文具課のメンバー 」( 昭和31年撮影/部分 )
写真左より)石森 恒雄、木村 金治郎、石川 万介( 当時仙台支店長 )、林 義司、有賀 鉄雄
中村春太郎の後任として、終戦後の11月から仙台支店長となった木村金治郎。
石森 恒雄は令息・浩一とともに親子2代で仙台丸善に貢献した
伊達政宗公の入城以来
この仙台の地で生きてきた先人たちが
何代もに渡って少しずつ協力しながら
築き上げた美しい「 杜の都 」
74年前の無情な戦火に焼き尽くされるも
人と人とが協力し合い、助け合いながら
緑豊かな美しい街を築き上げていった
仙台人ならではの「 心意気 」は
江戸時代の初めから少しも色褪せることなく
いまなおこの街にしっかりと
生き続けているのかもしれない。
▶︎ 新緑の「 定禅寺通り 」
出 典;Wikipedia
戦後の復興とともに「 杜の都・仙台 」の象徴は、欅の落葉樹の並木道に姿を変えた。
祖父を慕ってくれた心やさしき仲間たちがいた「 仙台丸善 」の繁栄を東京から願う
菊地 久治 昭和28年( 1953年 ) 勤続30年表彰
石川 万介 昭和33年( 1958年 ) 勤続40年表彰
有賀 鉄雄 昭和35年( 1960年 ) 勤続30年表彰
木村 金治郎 昭和37年( 1962年 )勤続40年表彰
岩淵 芳治 昭和38年( 1963年 ) 勤続40年表彰
林 義司 昭和40年( 1965年 ) 勤続40年表彰
緑川 鶴松 昭和40年( 1965年 ) 勤続40年表彰
立川 武雄 昭和41年( 1966年 ) 勤続40年表彰
渋谷 晃 昭和41年( 1966年 ) 勤続30年表彰
田中 幸夫 昭和48年( 1973年 ) 勤続20年表彰
宮生 一夫 昭和50年( 1975年 ) 勤続50年表彰
石森 恒雄 昭和51年( 1976年 ) 勤続40年表彰
< 編 集 後 記 >
『 丸善百年史 』に記載される「仙台支店・復興の記録」( 一部 )は
昭和40年10月当時、丸善仙台支店の書籍仕入課長であった立川 武雄氏が
戦後20年を振り返り「 復興までの忘れ得ぬ仙台の記憶 」として
一筆したため、丸善本社へと寄せたものです。
彼が付けた渾身のタイトルは
「 焦土に鶏小屋で開店 」
立川さんの文章は、明瞭且つ大変に美しく
戦後74年という遠い時を超え、戦争を知らない私の心に
その時・その瞬間の「 忘れ得ぬ情景 」をそっと伝えてくださいました。
先人たちが懸命に生きた困難・苦難の日々を決して忘れることなく
“ いま ” という平和な時に生かされていることを感謝したいと思います。
「 立川さん、仙台支店の皆さん本当にありがとう 」(清彦)
<参考文献>