< 太平洋戦争と丸善 4 > 爆心地に消えた姉の行方を探し続けて 〜丸善広島支店/文具事務機械課 販売係長 岩田 昭男の記憶
太平洋戦争末期の昭和20年( 1945年 )8月6日。
一人の青年が学徒動員中に受けた傷を治すため
広島市内にある自宅にて療養していた。
彼の名前は、岩田 昭男。
旧制中学の2年生である。
昭和13年( 1938年 )文部省の通達により始まった
夏休み期間中の学生たちによる勤労作業
「 学 徒 動 員 」
▶︎ 広島陸軍兵器補給廠に動員された学徒たち / 昭和18年( 1943年 )頃
出 典;広島原爆資料館「 企画展 」動員学徒 失われた子どもたちの明日
数年後の昭和16年( 1941年 )には
軍隊をモデルにした「 学校報国隊 」が作られ
次第に戦火が増した昭和19年( 1944年 )には
「 決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱 」により
期間を問わず、学生たちは次々軍需工場へと動員されていた。
▶︎ 軍事訓練をおこなう県立広島工業学校の生徒たち / 昭和17年( 1942年 )
出 典;広島原爆資料館「 企画展 」動員学徒 失われた子どもたちの明日
“ その日 ” は、天気の良い暑い朝だった。
雲一つない抜けるような青空の中を
飛行機の爆音がいくつも近づいては遠ざかっていく。
午前7時31分に解除された、警戒警報。
さあ、今日も一日を始めようと
裏庭へ出た岩田 昭男は
突如「 ピカッ 」とした強い光を感じ
その瞬間何かに強く打たれた気がして倒れ込んだ。
目の前が一瞬真っ暗になり、何も見えない。
咄嗟に何かが自分に直撃したと思った。
その頃、昭男の自宅から2キロメートルの地点にある
島病院上空約600メートル付近で
強烈な熱線とともに四方へ放たれていく、放射線。
爆心地周辺の地表面の温度は
3,000~4,000度に達していた。
▶︎ 昭和20年( 1945年)午前8時15分広島に投下された原子爆弾
出 典 ;広島市公式ホームページ
爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が
それよりも爆心地に近い地域では80~100%が絶命した
どれ位の時が経っただろう。
目前に薄らと光が見え始め
それが段々とはっきりしてきた。
「 自分は生きている 」
家の下敷きになったものの、幸い無傷だった。
光を頼りに外へ出た昭男が目にした光景。
それはまさに地獄絵図そのものだった。
見渡す限り家々は潰れ、人々は真っ黒。
火傷を負った人、傷だらけの人。
悲鳴をあげる人、逃げ惑う人。
別室にいて無事だった母や弟と一緒に
裏山付近の川原に避難するも
そこは既に逃げて来た人々で溢れかえっていた。
火傷で顔が焼け爛れ誰だかわからない人。
血だらけの人や既に死んでいる人もいた。
どの顔も皆一様に真っ黒だった。
▶︎ 丸善社内報の企画「 戦後20年特集 」の挿絵より
出 典;『 丸善ニュース 』( 昭和40年9月・10月合併号 )
その頃、広島市内は見渡す限り火の海で
空は真っ暗になり、大粒の雨が
滝のように地面を叩きつけていた。
やがて雨は止み、焼け残った知人の家を
尋ねた頃は既に夕刻近かった。
爆心地近くに行っていた姉を探そうと
昭男は焼け跡と死体、負傷者収容所での
悲惨な有様を絶えず目にしながら
焦土と化した街を彷徨うように歩き続けた。
「 どこかでなんとか生きていて欲しい 」
そんな切なる思い一つで——。
▶︎ 爆心直下で倒壊を免れ、焼け野原に残った「 広島県物産陳列館 」
出 典; 中國新聞ヒロシマ平和メディアセンター
1915年竣工の煉瓦造り3階建、ドーム状の中央部/5階建ての白亜の塔。
デザインはチェコ人の建築家ヤン・レツル( 1880~1925年 )のもの。
「 原爆ドーム 」として戦争の悲惨さを未来永劫伝え続ける使命を持つ
終戦から9年後の昭和29年( 1954年 )
広島の地に初めて誕生した
「 丸 善 広 島 出 張 所 」
▶︎ 丸善広島出張所( 昭和36年4月4日以前の鉄砲町145番地壽屋ビル2Fの社屋 )
昭和29年( 1954年 )5月1日 丸善広島出張所誕生。
大阪支店の管轄で所長は三宅 実が務めた
昭和36年( 1961年 )4月4日に
革屋町30番地(現;中区本通り)へと場所を移し新築。
同年4月7日、トップに福岡支店賣場長だった
西口 一美を迎え晴れて「 広島支店 」となった。
昭和40年( 1965年 )
被爆20周年を機に被災の記録や資料を
後世に残そうという声が全国的に高まり始め
同年7月15日に東京で
「 原爆被災資料収集協力委員会 」( 仮称 )が結成。
丸善広島支店は地元企業の一員として
原爆が投下された8月6日を中心に
繰り広げられるこの催しに参加。
8月3日から10日までの7日間
同店3階の特別会場において
戦後広島で出版された同人雑誌・私家版のうち
原爆資料として貴重な諸雑誌・単行本約300点を揃え
「 広島の文学資料展 」を開催した。
▶︎ 戦後20年目を迎えた広島で開催された 丸善「 広島の文学資料展 」
出 典;『 丸善ニュース 』( 昭和40年9月・10月合併号 )
井伏鱒二が広島文学会に寄せた書簡など未公開の貴重資料も含まれ
NHK広島放送局や中國新聞社なども大きく報道するなど盛況だった
賑わう会場の様子を遠巻きに見つめる人の中に
丸善の徽章である “ Mバッジ ” をつけた
1人の男性社員の姿があった。
それは大人になった
岩田 昭男その人だった。
爆心地からわずか2キロメートルの自宅で被爆。
目を覆いたくなるような地獄絵図の中
ひたすらに爆心地を歩き回り
延々姉を探し続けた彼は
筆舌に尽くし難い悲しみや苦しみ
心身の傷みを抱えながら懸命に生き抜き
縁あって丸善の仲間となり
東京・日本橋本店で働きそして
郷里の広島へと戻ってきたのだった。
前列左端から岩田 昭男、金沢 久雄、田中 常三郎、中村 和吉、永井 彌忽兵衛、渋井 真一、江口 良雄ほか
▶︎ 丸善日本橋本店/機械部氏名一覧( 昭和31年当時所属者 )
前述の丸善「 広島の文学資料展 」に顔を揃えた
広島出身の詩人で小説家の原 民喜は
最愛の妻との「 死 」という名の
別れの悲しみを乗り越えようと
東京から郷里・広島へ帰郷し、被爆した。
▶︎ 原 民喜( 1905年11月15日〜1951年3月13日 )
広島県広島市幟町( 現;中区幟町 ) にて誕生。慶應義塾大学英文科卒業。
被爆した体験を、詩『原爆小景』( 1950年 ) や小説『 夏の花 』( 1947年 )などの作品に残した
彼もまた昭男同様 “ 8月6日のその瞬間 ”
頭上になんらかの一撃を覚え
次の瞬間目の前が真っ暗になり
そしてしばらくしてから
朧げに当たりの様子が見え出したと
小説『 夏の花 』に記載している。
また、詩集『 原爆小景 』には
あの日の広島で昭男を始めとする
被爆した全ての人々が
一様に目にしたであろう
無惨な光景を記している。
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「 助ケテ下サイ 」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス
( 原 民喜著 『 原爆小景 』「 コレガニンゲンナノデス 」 )
耐え難い苦しみや悲しみ「 死 」の向こう側に
永遠の救いを求めた、原 民喜。
原爆の目撃者としての強い使命感を胸に刻み込み
「 コレガ人間ナノデス 」「 燃エガラ 」
「 火ノナカデ 電柱ハ 」「 日ノ暮レチカク 」
「 真夏ノ夜ノ河原ノミヅガ 」「ギラギラノ破片ヤ 」
「 焼ケタ樹木ハ 」「 水ヲ下サイ 」「 永遠のみどり 」の
9編からなる『 原爆小景 』を発表すると
あたかも自らの使命を全うしたかのように
昭和26年( 1951年) 国鉄中央線吉祥寺
西荻窪間の線路に身を横たえ鉄道自殺をした——。
出 典;広島平和記念資料館
梶山季之らの奔走により昭和26年11月15日に仲間たちが広島城内に建立。
遺書に添えられていた詩を刻む石碑は現在ゆかり深い広島平和公園に移設されている
昭和20年( 1945年 )8月6日の原爆投下当時
広島市内には居住者のほか、軍人、通勤者、
建物疎開作業への学徒動員者など
周辺町村から入市した人を含め
約35万人ほどの人がいたとされる。
原爆によって死亡した人の数は
正確にはわかっていないが
昭和20年( 1945年 )12月末までに
約14万人が死亡したと推計。
爆心地から1,2キロメートルの地点では
その日のうちに50%の人が
爆心地に近い場所では
80%〜100%の人が亡くなったと推定。
日本人のみならず、米国生まれの日系米国人や
ドイツ人神父、東南アジアからの留学生たち
当時日本の植民地であった朝鮮や台湾
中国大陸からの人々、そして米兵捕虜など
様々な国籍を持つ人々が一瞬にして
原爆の惨禍に巻き込まれ
命を奪われたことを忘れてはならない。
ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ
死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ
とはのみどりを
とはのみどりを
ヒロシマのデルタに
青葉したたれ
( 原 民喜『 原爆小景 』「 永遠のみどり 」 )
▶︎ 通称「 原爆ドーム 」となった「 広島県物産陳列館 」( 1996年世界遺産登録 )
出 典;広島県総務局広報課
1915年 ( 大正4年 ) に広島県産品を展示販売する施設「広島県物産陳列館」として竣工。
被爆の痕跡を視覚的に残した世界唯一の建物として兵器廃絶と世界の恒久平和を願い保存された
< 編集後記 >
自分が生まれるはるか昔に出版された
『 丸善ニュース 』の中の「 戦後20年特集 」
その記事を目にし初めて
丸善社員の中に広島に投下された
岩田 昭男さんはこの寄稿文の最後にこう綴っています。
「 今なお姉の行方はわからないままで
20年目の8月6日を迎えた 」
戦争の苦しみ、悲しみ、悲惨さ——。
こうした思いを人知れず心の奥底で抱えながら
生きていらっしゃる戦争体験者の方々が存在していること。
また、絶え間ない空爆の恐怖の中
生死の狭間を懸命に生きている人々が
世界の中にいることを忘れてはならないと思います。
民族の違い、習慣の違い、見た目の違いはあれど
人の心に国境はありません。
戦争の恐怖を乗り越え懸命に生き抜き
丸善で一生懸命に働いた岩田さん。
あなたが59年前に記した「 思い 」
遠い時を超え、この私にも届きました。
あなたのご家族がお元気で暮らしていること
幸せであることを切に願うと同時に
広島の地でこの瞬間も頑張っている
丸善広島支店の方々に向け、当記事を掲載いたします。
令和6年( 2024年 )8月6日
マルゼニアン