明治の昔、土蔵時代の丸善に入社した社員たちの 多くが通った英語学校が築地居留地にあった。 「 サンマー英語学校 」 この学校名( ほか サンマー学校 )は通称で 正式な名前は「 欧文正鵠学館 」といった。 明治初期にできた、社交の場 「 鹿鳴館 」 そこ…
時は明治20年代。 このころの日本橋界隈は 竹久夢二関連本で 人気を博した「 春陽堂 」 大橋佐平の「 博文館 」 徳富蘇峰の「 民友社 」と 出版の中心街としての賑わいがあった。 大通りといっても いまよりずっと道幅は狭く 向こう側の人と会話ができるほど…
明治42年(1909年) 10月14日(水)朝のこと。 丸善に入社し2年半を迎えた 五十嵐 清彦は人待ち顔で 「 新橋停車場 」に佇んでいた。 ▶︎ 旧新橋停車場(明治5年開業) 設 計;Richard Perkins Bridgens 彼が1人待っていたのは 故郷・岡崎からはるばる やって…
杜の都・仙台。 “ 独眼竜 ” で知られる、伊達 政宗公が 関ヶ原の戦い後、徳川 家康公の許しを得て かつての国分氏の居城「 千代城 」 ( のちの「 青葉城 」「 仙台城 」)に入城したころ この街はまだ「 杜の都 」ではなかった。 慶長6年( 1603年 )国分氏…
無類の本好きだった作家・大佛次郎が 人生で初めて知った洋書の店。 それはかつて神田の街にあった 「中西屋書店」だった。 ▶︎ 在りし日の「中西屋書店」 出 典;文房堂公式サイト 左手入口が画材文具店の「文房堂」右手入口が「中西屋書店」(神田の大火後…
本日3月31日はマルゼニアンの祖父 五十嵐清彦の命日です。 ▶︎ 五十嵐 清彦( 1892〜1967 ) 入社5年目;大阪支店勤務2年目 撮 影;大阪 ヱマ堂 明治40年4月丸善入社。本店和洋書売場長、広告課長、人事課長を経て 昭和22年総務部長、昭和23年監査役へ。亡く…
東京都渋谷区恵比寿三丁目。 サッポロビール工場跡地の再開発事業として 平成6年(1994年)に誕生した複合施設 「恵比寿ガーデンプレイス」にも程近いこの地区は かつて「伊達町」と呼ばれていた。 江戸時代この付近にあった 伊予宇和島藩伊達家下屋敷が そ…
昭和 9年(1934年)3月9日 その事件は北鎌倉で起きた。 突如現れた暴漢。 身を呈して主人を守った、1人の青年。 その側で凶弾に倒れる、紳士の姿。 青年の名は「 青木茂 」 彼が自らの命をかけて守った主人は 「 武藤山治 」 福沢諭吉が立ち上げた「 時事新…
その人の存在を初めて知ったのは いつのことだっただろうか。 一目みた瞬間に思ったのは リアル仙人 ▶︎ 熊谷守一(1976年/96歳のころ) 出 典;『熊谷守一画文集 ひとりたのしむ』(求龍堂刊) しかしその見た目以上に その人の描く独特なタッチの絵 かわい…
明治17年(1884年)5月 閉店後の日本橋丸善。 その日も相変わらず真夜中近くまで 煌々と明かりが灯っていた。 部屋の中にただ1人残り 黙々と事務作業を続けている人物。 それは東京本店支配人の 小柳津要人だった。 ▶︎ 小柳津要人(1844〜1922) 大学南校、…
昭和19年( 1944年)から始まった アメリカ軍による、日本本土への空襲。 ▶︎ 日本への空襲を行った 「 B29爆撃機 」 出 典;Wikipedia 日増しに激しくなる、太平洋戦争の戦禍から身を守るため 多くの人々が空襲の多かった都市部を離れ 安全な場所へと疎開( …
その昔、江戸へと向かう船舶の寄港地として 大いに栄えた下田港。 ▶︎ 下田港に佇む、マシュー・ペリー像 2017年3月18日訪問・撮影 我が家の “ ラストサムライ ” だった 高祖父・泰輔が書き残した日記に 度々登場するこの町は 幕末の息吹を感じることのできる…
明治36年(1903年)10月12日 3人の花形記者が揃って 『萬朝報』を退社した旨を伝える 記事が同紙面上に躍った。 ▶︎ 『萬朝報』明治25年(1892年)11月1日創刊 出 典;小学館デジタル大辞泉 都新聞(現;東京新聞)を退社した黒岩涙香が創刊。 第3面に扇情的…
全国有数の急流河川である天竜川は 諏訪湖を源流に、長野、愛知、静岡を通り 太平洋・遠州灘に注ぎ込む、長さ213kmの大河川である。 “ 暴れ天竜 ” の異名を取るこの川は 毎年雨季の訪れとともに氾濫を起こしては 付近の村々に甚大な被害を与えていた。 遥か…
2016年の1年間のみだったが なんとも不思議な体験をした。 高祖母の旧友であった、小柳津要人が 何度も夢に現れては、私にこう語りかけた。 「お世話になった人の命日には こうしてお参りをしたものだよ」 毎回毎回、異なる全く見知らぬ、廟所。 しかしなが…
明治43年(1910年) 12月19日午前。 東京・代々木の「代々木練兵場」 (現;代々木公園)にできた黒山の人だかり。 集まった多くの人々は「その瞬間」を いまか、いまかと待ち望んでいた。 人々が息をのみ、じっと見つめるその先には フランス製のアンリ・フ…
幼いころからなぜかとてもお気に入りだった 1枚のポートレイトがある。 幕末から大正期までを生きた 古い家族たちの写真とともに 我が家の「写真箱」の中で 家族同然、それ以上に大切にされてきた 1枚の立派なポートレイト。 そこに写っている人物は 白い髭…
慶應3年(1867年)1月11日。 一隻の船がフランスに向かい 横浜港を出航した。 フランス船「アルフェト号」 乗船していたのは、15代将軍 徳川慶喜公の弟君・徳川昭武公を 筆頭とする、40名ほどの日本人の一団。 ▶︎ 最後の水戸藩主・徳川昭武公(1853-1910) …
昭和33年7月6日発行号(6月下旬発売)の 『週刊朝日』にある投稿が掲載された。 「 50年の思い出 」 このタイトルに続き、こんなことが書かれていた。 投稿の送り主は、かつてわずかな期間 「丸善大阪支店」に勤めていたこと。 とても気が弱かったこともあり…
福井県北部。 県都・福井市に次ぐ規模を持つ、 福井県坂井市。 この町に、日本に現存する天守の中で 最も古い建築様式を持つ城がある。 日本100名城・丸岡城 ▶︎ 日本100名城・36番「丸岡城(坂井市丸岡町霞町1-59) 2017年5月4日撮影 その昔、加賀国 (現;石…
文京区本駒込。 この付近一帯がまだ「本郷區」と呼ばれていた 明治から昭和にかけ、私の曾祖父一家は この街に暮らしていた。 旧本多岡崎藩士であれば暮らすことができた 本郷區森川壱番地(現;東京都文京区本郷)の 本多岡崎藩旧江戸藩邸を経て、古い時代…
明治の終わりごろのこと。 大阪駅前に「三越呉服店」の 大きな看板が掲げられた。 「 婦人像(紫調べ)」 ▶︎「婦人像(紫調べ)」 岡田三郎助 当時三越呉服店(のちの三越)の理事であった 高橋義雄の夫人をモデルに描き、 明治40年(1907年)開催の「東京勧…
東京都中央区明石町。 築地にも銀座にもほど近い静かなこの街は 母方が祖母の代から暮らす、私の故郷である。 私がこの世に生まれ、第一声をあげた 「聖路加国際病院」 ▶︎ 現在「聖路加看護大学」となっているこの建物が、かつての聖路加病院。 人生の中でも…
「 大学卒業後は、新聞社に入りたい 」 バブルはとっくに弾け、就職難に突入していた時世。 若さと情熱以外持ち得なかったそんな私を 家族のように温かく迎え入れてくれた新聞社があった。 入社してみると、6大新聞の1社とは思えぬほどの アットホームで、…
「こんな夢をみた」 この言葉を繰り返し、次から次へと 主人公の「私」が夢の中で目にした あらゆる出来事へと場面が展開していくーー 黒澤明監督作品映画 「夢」 「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」 「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の…
さらさらと心地よい水の流れを感じることのできる 美しい高瀬川沿いを散歩しながら 幼い頃に読んだ森鴎外の『 高瀬舟 』の内容を思い出していた。 ▶︎ 京都・高瀬川のせせらぎ ( 2015年9月29日訪問・撮影 ) 高瀬舟は、京都の高瀬川を上下する木造の小舟。 江…
日本橋丸善3階の「MARUZEN Cafe」 いつもたくさんのお客さんで賑わっている。 年配の紳士やご婦人、お買い物帰りに立ち寄る女性など その年齢層は比較的高めに感じるも ランチタイムともなれば、幅広い客層で満席となる。 丸善創業者の早矢仕有的が考案した…
それでも善い方なのよ傘貸してくれる工場なんか外( ほか )にない事よ 番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ午後五時の夕立の中を足つま立って尻はしよりしをらしく千駄木の静かな通を帰ってゆく ああすれちがつた今の女工達丸善インキ工場の女工達 ( 高村光…
徳川家康公の重臣と聞いて 思い浮かぶのは、どんな武将だろうか。 五世祖父の家系が、古くより本多岡崎藩士であった私は まっさきに、藩祖・本多平八郎忠勝公を挙げるだろう。 ▶︎ 本多平八郎忠勝公 ( 1548年〜1610年 ) 出 典;Wikipedia 戦の時には必ず鎧の…
作家 三島由紀夫が自ら命を絶つ9カ月前 英国の翻訳家、ジョン・ベスターと対談した 肉声テープが、赤坂TBS内にて発見された。 ▶︎ 三島由紀夫(1956年撮影;31歳) 出 典;Wikipedia 約1時間20分にわたり自身の死生観、 文学論などを淡々と語るそのテープ。 …