今から遡ること65年前のこと。
複製画を集め始めたことをきっかけに
複製名画の美術館を自費で建設しようと
尽力した一人の洋画家がいた。
その人物の名は「 大石 輝一 」
(おおいし てるかず)
「 アート・ガーデン 」(藝術の園)と銘打った
当時、66歳の市井の画家は
雨の日も風の日も休むことなく
妻と手を取り合い、二人三脚で
夢の「 美術館建設 」へと心血を注いでいた。
「 若い人たちに美しいものを見せてあげたい 」
そのひたむきな思いと長年敬愛して止まない
フィンセント・ファン・ゴッホへの熱い思い。
それだけが、日々彼の心を突き動かしていた。

▶︎ 大石 輝一(1894年〜1972年)
出 典;『 ハルビン素描集 』
明治27年(1894年)11月23日 大阪市西区南堀江にて誕生、7歳で父を失う。
大正5年(1916年)三重県熊野市新鹿町の友人・大橋 定規宅に長期滞在中
詩人の佐藤 春夫と出逢い交流。定規の父(実業家・鹿町銀行取締役)大橋 定文の
勧めで洋画家を目指し上京。岡田 三郎助と藤島武二設立の「 本郷洋画研究所 」に学ぶ
昭和27年(1952年)12月8日
太平洋戦争により、焦土と化した東京の街に
戦後初めてとなる、鉄骨鉄筋コンクリート
地下2階・地上9階建てビルが堂々完成した。

▶︎ 日本橋丸善本社ビル(現在地に同じ;東京都中央区日本橋2-3-10)
出 典;『 丸善百年史 :近代日本のあゆみと共に(下巻) 』
昭和27年(1952年)12月8日竣工、清水建設が手がけた、戦後悲願の丸善本社ビル。
落成記念品の「 女神アテナ像 」を慶應義塾に縁深い、彫刻家・柴田 佳石に制作依頼
そして、その翌年の昭和28年(1953年)は
前出の画家・大石 輝一が愛して止まない
この世に誕生してちょうど100年という
記念すべき年であった。
出 典; 『 ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅 』
1853年3月30日、オランダ南部ブラバンド地方の「 ズンデルト牧師館 」にて誕生。
ポスト印象派の画家で、残された多くの書簡からその波乱に満ちた人生も注目される。
明治5年(1872年)19歳の時、ブリュッセルに暮らす弟・テオにこの肖像写真を送った

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ 「 ひまわり 」 (1888年/SOMPO美術館蔵)
(2023年7月18日 筆者撮影)
「 生誕100年 山下 清展 百年目の大回想 」鑑賞日に撮影。
ゴッホとゴーギャンがアルルで共同生活をしていた1888年11月〜12月頃の作品
ゴッホの母国・オランダでは
3月27日、28日の2日間
「 デン・ハーグ市美術館 」にて
シンポジウムが開かれ
(Eeuwfeest Vincent van Gogh Symposion)
ちょうど100年目の誕生日となる
3月30日から5月17日までの日程で
「 生誕百年記念展覧会 」を開催。

▶︎ 「 ハーグで開かれたゴッホのシンポジウムのカタログ 」
出 典;『 ゴッホ巡礼 』
その後、5月23日から7月19日までは
「 クレラー・ミュラー美術館 」
7月24日から9月20日までを
「 アムステルダム市立美術館 」が
それぞれ渾身の記念展覧会を開催。
3館共同の告知ポスターが
大小2種類ずつ作られた。

▶︎ 「 ゴッホ百年祭記念展ポスター 」
出 典;『 ゴッホの百年 』
ゴッホがオーヴェル時代に描いた水彩風景画を使用した5色刷りのポスター。
「 デン・ハーグ市美術館 」は、収集品160点と国外からの20点のほか
ゴッホの個人的な記念品や写真、彼に大きな影響を与えた日本の版画類も展示された
また、新聞や雑誌は「 ゴッホ特集号 」や
「 記念写真帖 」を次々発行。
記念メダルや葉巻などが発売されたほか
ゴッホを生涯に渡って支え続けた
弟 テオ・ファン・ゴッホ所蔵品の展覧会や
日本を愛し続けた、ゴッホを記念する
「 歌麿展 」なども開催。
▶︎ 「 ゴッホ生誕百年祭記念シガーラベル (オランダ) 」
出 典;『 ゴッホの百年 』
ゴッホのその生涯を描いた
テクニカラーの映画も堂々完成した。

▶︎ 映画「 炎の人ゴッホ 」のフランス版ポスター(1956年)
出 典; 『 ゴッホの耳ー天才画家最大の謎ー 』
同作でゴッホを演じたのは、マイケル・ダグラスの父「 カーク・ダグラス 」
日本における、ゴッホ生誕百年記念祭は
フランス文化の会主催/朝日新聞社後援での
「 講演会 」(武者小路 実篤、滝澤 修 、式場 隆三郎)と
「 炎の人 」のカラースライド上映。
その他、記念事業としてフランスの美術映画
「 ヴァン・ゴッホ 」の上映や
制作による、シャンソン入りドラマ
「 詩人の魂 」の放送。

▶︎ 「 ゴッホ生誕百年記念祭:記念講演会 」(講演者;式場 隆三郎)
出 典;『 ゴッホの百年 』
ゴッホが生まれてちょうど100年を迎えた「 その日 」に開催された講演会。
講演者の1人・滝澤 修は「 劇団民藝 」で長くゴッホを演じ評価された俳優。
幼い頃から絵画に親しみ治安維持法で逮捕された際、獄中でゴッホの伝記を読んだ
NHKラジオ放送では「 百年記念展について 」の
開催挨拶(式場 隆三郎)が読み上げられ
NHKテレビでは「 ゴッホ劇 」が放送された。
「 戦争で灰色になった日本を
彩り溢れる美術の力で元気づけたい 」
その願いと使命を掲げ、終戦間もない
昭和22年(1947年)に
「 丸善美術部 」を開設。

▶︎ 丸善美術部の「 美術展 」の様子
出 典 ;MARUZEN-YUSODO公式ホームページ
第二次世界大戦後フランス政府に押収された「 松方コレクション 」428点のうち
370点(絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点)が日本へ帰国。
その返還運動に力を尽くした1人が丸善8代目社長・司 忠(つかさ ただし)だった
辻 永(つじ ひさし)画伯をはじめとする
「 光風会 」のメンバーなどと連携。
弟・辻 光(つじ ひかる)が画廊を担当
美術事業に力を注いでいた丸善は
5月11日から16日までの期間
竣工間もない、日本橋本社ビル・3階にて
「 ヴァン・ゴッホ 生誕百年記念展 」を開催。
▶︎ 『 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展目録 』A5版/54ページ
(原稿執筆;式場 隆三郎)
(編集・制作;丸善株式会社「 洋書部 」 八木 佐吉)
ゴッホ文献500点、大判原色複製150点、資料100点から構成された本展。
世界一のゴッホ美術館と名高い「 アムステルダム市立美術館 」の当時の館長
W・サンドバーグから贈られた、激励と感謝のメッセージも掲載されている

▶︎ 八木 佐吉(1903年〜1983年)
出 典;『 書誌索引展望3(4) 』
明治36年(1903年)8月28日 東京市京橋区(現;東京都中央区)にて誕生。
大正5年(1916年)丸善入社。「 珍籍展覧会目録 天正使節渡欧350年記念展 」(昭和7年)
「 シェークスピア文献展覧会 」(昭和8年)「 モリス展 」(昭和9年)など
各種展覧会の目録制作にその手腕を発揮。和洋書・新古・出版事業など
「 本 」にまつわるあらゆる部署を歴任。多くの人々に愛され尊敬された丸善人
『 朝日新聞 』東京本社版は
5月12日〜16日の ” 5日通し” で
「 ヴァン・ゴッホ展より 」と題し
ゴッホ作品を紹介する記事を掲載。

▶︎ 『 朝日新聞 』(東京本社版)昭和28年5月12日付 掲載記事
「 茅屋 」「 アルマンの像 」「 ラ・ムスメ 」「 星月夜 」「 二人の子ども 」の
5作品を学芸面にて連日紹介。宣伝部の頑張りが伝わってくる

▶︎ 「 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展 」期間中出稿した広告
「 辞書入荷 」「 ネクタイセール 」「 ゴッホ展 」と
何とも 欲張りな3段突き出し(新聞広告/雑報)
同展は予想以上の大きな反響を呼び
会場は連日多くの観衆で埋め尽くされ
多くの老若男女で溢れ返った。

▶︎ 「 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展 」を観ようと日本橋丸善に押し寄せた人々
最終日には武者小路 実篤、画家・中村 研一、土岐 善麿、式場 隆三郎で座談会開催。
戦争が終わって10年も経たない時代、まだ本物の絵を借りることは叶わなかったが
それでも人々は美術がもたらす「 心の豊かさ 」や「 発見 」を求め丸善へと足を運んだ

▶︎ ご来臨になられた高松宮殿下夫妻をご案内する式場 隆三郎
出 典;『 ゴッホ巡礼 』
式場 隆三郎 丸善「 洋書部 」 石川 實 八木 佐吉

出 典;医療法人 式場病院(精神科)公式ホームページ
「 包帯をしてパイプをくわえた自画像 」について解説する、式場 隆三郎。
複製画とはいえ当時の最先端技術で製作された大変価値の高いものだった
このような形で大きな話題となった
「 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展 」
多大なる貢献をした立役者は
精神科医(医学博士)で日本を代表する
ゴッホ研究家の式場 隆三郎である。

▶︎ 式場 隆三郎(1898年〜1965年)
出 典;医療法人 式場病院(精神科)公式ホームページ
明治31年(1898年)7月2日新潟県中蒲原郡五泉町(現;五泉市)に誕生。
新潟大学医学部を卒業後、昭和11年(1936年)市川市国府台に「 式場病院 」設立。
学生時代より「 白樺派 」の人々と交流し、医学・文藝・美術・スポーツと幅広く活躍。
長年に渡っての社会貢献活動により、平成11年(1999年)市川市名誉市民となる
まだ、新潟大学医学部の学生だった頃のこと。
式場はある1冊の雑誌と出合った。
明治43年(1910年)4月に創刊された
武者小路 実篤、志賀 直哉、柳 宗悦らによる
『 白樺 』である。
ページを繰る度に目に飛び込んでくる
ただただ心を奪われ、夢中になった。
▶︎ 雑誌 『 白樺 』創刊号(明治43年4月創刊)
大正6年(1917年)頃から式場は『 白樺 』を購読。
夏目 漱石や高山 樗牛を離れ西洋やロシアの文学に傾倒

▶︎ 富士五湖巡りスタイルの志賀 直哉(左)と武者小路 実篤(右)(明治39年/1906年撮影)
日光や赤城山などに度々足を運んだ、志賀 直哉ら「 白樺派 」の同人たち。
山で出逢う「 白樺 」 の木が好きだったことから『 白樺 』と命名。
「 麦 」「 草 」などの候補もあったが、正親町 公和の鶴の一声で決定した
大正8年(1919年)11月15日。
『 白樺 』に触発された式場は
医学部の仲間たちと同人誌『 アダム 』を創刊。
わずか1枚だけ入れる口絵の選択に悩んでいた時
その中から「 田舎道 」を選んで掲載した。

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ「 田舎道 」(1882年)
出 典;『 ゴッホの宇宙(そら) 』
ハーグ郊外の荒涼とした一本道を描いた、画家になって2〜3年後の作品。
コンテ、鉛筆、インク、白チョークなどを使用した、モノクロの素描
岸田 劉生表紙で、同誌2号を発行。
併せ新潟大学の「 池原紀念館 」にて
「 泰西美術複製展覧会 」を開催。
新潟新聞社(現;新潟日報社)が
写真班を連れ、複製画の写真を撮影
新聞に同展のことが掲載された。

▶︎ 「 池原記念館と池原 康造初代校長の胸像 」(大正12年/1923年撮影)
出 典;「 新潟大学全学同窓会写真館 」
新潟大学付属病院の傍に建てられ、集会室として利用されていた「 池原記念館 」
隆三郎たちアダム社が開催した「 泰西美術複製展覧会 」 1日400人余りが鑑賞した
この年の9月13日に初めて
武者小路 実篤と房子夫人に新潟で面会。
「 初めて会うのに10年前から親しくしている
人たちに会うような気がした 」と感激の言葉を発し
次いで柳 宗悦や志賀 直哉を我孫子に訪ね
バーナード・リーチの作品や朝鮮の美術品を鑑賞した。

▶︎ 日本の文化・美術など社会全体に大きな影響を与えた『 白樺 』同人 出 典; 『 日本文壇史 16(大逆事件前後) 』
前列左より)田中 雨村、志賀 直哉 、里見 弴、柳 宗悦、園地 公致、三浦 直介、有島 生馬
後列左より)武者小路 実篤、小泉 鐡、高村 光太郎、木下 利玄、正親町 公和、長与 善郎、日下 諗
日本にゴッホ旋風を巻き起こした、式場 隆三郎。
雑誌『 白樺 』との出逢いがきっかけとなったが
「 白樺派 」と呼ばれる同人たちは
いつどうやってゴッホと出逢ったのだろう。

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ「 暗色のフェルト帽をかぶった自画像 」
式場が「 ゴッホの元祖 」と呼んだ
武者小路 実篤が「ゴッホ」の存在を
知ったのは、23〜24歳の時のこと。
それまで通俗的なドイツの美術雑誌を
丸善に依頼して取り寄せていた、武者小路。
ある1冊の本の記事から
ドイツの若い芸術家たちに
甚大な影響を与えている「 ゴッホ 」という
オランダの画家の存在を知る。
しかし「 ゴッホ 」の顔も知らなければ
どんな絵を描くのかも全くわからない。

▶︎ 武者小路 実篤(1885年〜1976年)
出 典;『 自分の歩いた道 』
明治18年(1885年)5月12日 東京市麹町区(現;東京都千代田区)にて誕生。
初等科より学習院に学び中等科6年の時に生涯の盟友・志賀直哉と出逢う。
丸善で画集を探すのが楽しみで仕方なく、前日には丸善に行く夢を見たという。
埼小説家・詩人・画家で劇作家。埼玉県入間郡毛呂山町に「 新しき村 」設立
若くて好奇心の強かった武者小路は
どんな絵を描く人なのか知りたく思ったが
当時は複製でもお目に掛かれなかった。
そこで彼は普段洋書を通じ交流のあった
丸善洋書部の気立ての良い「 初ッつぁん」こと
社員の福本 初太郎に本の取り寄せを依頼する。
「 其頃丸善には現在本郷で本屋をしてゐる
福本 初太郎といふ人が未だ十五六の小僧で
私達の本の注文などに色々便宜を計ってくれた。
私達は『 初ッつァん 』といって
皆 大の 初ッつァん贔屓だった 」
(志賀 直哉 著「 丸善の憶ひ出 」より抜粋)

▶︎ 白樺の同人たちに愛された「 初ッつァん 」こと福本 初太郎(26歳の頃)
前列左より)八田 庄治、内田 貢(内田 魯庵)後列左より)福本 初太郎、池上 鉱次郎
(大正5年/1916年1月1日撮影)
明治23年(1890年)2月15日誕生、明治37年(1904年)日本橋丸善入社。
山崎 信興率いる「 洋物部 」を経て、明治37年(1904年)6月「 洋書部 」に配属。
「 万年筆 」という名称の生みの親である「 丸善の万吉 」(丸善での店名)こと
金澤 井吉の部下として、ドイツ語を学びながら洋書の担当者として活躍する
そうして届いた「 新印象派 」関連の本に
ゴッホの絵が掲載されているのを発見する。
その後、ドイツの美術評論家である
マイエル・グレフェ(1867~1935)の書いた
ゴッホ熱に取りつかれていく。

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ「 星月夜 」
(1889年/ニューヨーク近代美術館蔵)
「 いつか自分たちの『 美術館 』を作り
こうした名画を集められたら—— 」
そう考えるも高額ですぐには購入できず。
そこで武者小路は『 白樺 』の愛読者であり
大阪の実業家だった、友人・山本 顧彌太に
ゴッホの「 ひまわり 」購入をお願いし
また、ポール・セザンヌの「 自画像 」購入を
学習院の同級生・細川 護立に持ちかけた。
ゴッホの「 ひまわり 」を
80,000フランで購入。

▶︎ 山本 顧彌太が購入した、フィンセント・ファン・ゴッホ「 ひまわり 」
出 典; Wikimedia Commons
「 芦屋のひまわり 」と呼ばれたこの作品は
山本 顧彌太邸の応接間の壁にかけられたが
昭和20年(1945年)8月6日 の
神戸大空襲により焼失。
人々の希望の光となるはずの
気高く美しい芸術の灯火も
戦火の果てに虚しく消え去った。

▶︎ 芦屋の山本 顧彌太邸に飾られた日本初のゴッホ作品「 ひまわり 」
出 典; Wikimedia Commons
ゴッホの「 ひまわり 」の前で満面の笑みを浮かべる、山本 顧彌太と武者小路 実篤。
大正10年(1921年)に東京・上野、大正13年(1924年)に大阪・天王寺で公開された
今も昔も多くの人々を惹きつけるゴッホ。
それは単に作品の見た目のみならず
個性的な性格のため周囲と相容れず
悲劇的な最後を迎えることになるその人生や
数々の葛藤と闘いながらも
自分を信じ必死でもがき続けた
ゴッホの「 魂 」の叫びのようなものが
人々の共感を呼ぶからに違いない。
『 白樺 』の表紙を数多く手がけた
「 麗子像 」で知られる、岸田 劉生は
「 ゴオホは、苦しむ時、痛い時にも
全力をつくしてその中で生きた 」と言い
自身の日記に「 VAN GOGH の自画像 」と
いう題でこうした言葉を刻んだ。
「 耳の切りきずしみじみと
さみしき一人ぼつちかな
何を見つむるその目には(中 略)
なつかしやヴァンゴッホ
愛らしやヴァンゴッホ (中 略)
痛ましや 包帯の白々し
さても淋しきひとりかな 」
(岸田 劉生 1911年11月15日の日記より)

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ「 包帯をしてパイプをくわえた自画像 」
出 典;『 ゴッホの耳 ー天才画家最大の謎ー 』
この肖像画を観てゴッホへの想いを詠んだ岸田 劉生は、仲間と「フューザン会 」設立。
大正元年(1912年)展覧会を開催するも文化人で丸善社員の内田 貢(魯庵)に酷評され
劉生は激怒。『 讀賣新聞 』を舞台に激しい論争が巻き起こり家族関係も拗れる原因となる
志賀 直哉は「 ゴッホの絵には
人間の苦しみと美しさがある 」と評し
昭和4年(1929年)イギリス・ロンドンで
初めて本物のゴッホ作品を観た、柳 宗悦は
「 苦しい文明から生まれた、燃え上がる浄い魂 」と言った。

▶︎ 『 ゴッホの耳 ー天才画家最大の謎ー 』
バーナデット・マーフィー 著 (早川書房)
「 ゴッホが切ったのは耳全部なのか一部なのか 」「 耳を渡した女性は誰なのか 」
その人生の「 謎 」に心掴まれた1人の女性ジャーナリストが7年の歳月をかけ
緻密な独自調査を繰り返し書き上げた、秀逸なノンフィクション作品
また、精神医学の観点から
ゴッホに興味・関心を持ち
分析したのは、式場 隆三郎だった。
医師である式場がその専門分野の中で
最も興味を持っていた「 病跡学 」(=パトグラフィ)
天才や偉人の作品を精神医学的に検討して
彼らの「創造性の秘密」に迫ろうとするもので
昭和5年(1930年)ヨーロッパで収集した
資料文献をベースに本格的なゴッホ研究を
始めた式場は、昭和7年(1932年)労作
『 ファン・ホッホの生涯と精神病 』(上下巻)を発表。

▶︎ 『 ファン・ホッホの生涯と精神病 』
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション
日本を代表する、染色工芸家・ 芹沢 銈介の装幀。
序文は柳 宗悦、中村 降治、寿岳 文章による

▶︎ 『 ファン・ホッホの生涯と精神病 』
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション

▶︎ 『 ファン・ホッホの生涯と精神病 』(下巻) 出 典;国立国会図書館デジタルコレクション
ゴッホが終焉の地で交流した医師・ポール=フェルナンデ・ガシェの子息で
生前のゴッホを知るポール=ルイス・ガシェの祝辞(和訳)。
ガシェ医師は診察はパリの診療所で行い、オーヴェールではアマチュア
芸術家として作品を制作。画家仲間としてのゴッホに目をかけていた
▶︎ 『 ファン・ホッホの生涯と精神病 』(下巻)
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション
ゴッホが亡くなった34年後の大正13年(1924年)11月2日にガシェ家を訪ねた茂吉。
医学研究のため西洋留学した彼は西洋美術に興味を覚えゴッホに関心を深めていく
このゴッホ研究の大著で
世に認められた式場は
昭和11年(1936年)12月1日
精神病院/国府台病院を開院。
(のち「 医療法人 式場病院 」へ改称)

▶︎ 「 式場病院 」(市川市国府台6-1-14)エントランス
出 典;『 病院 30 (6) 』
欧米各国の精神病院を参考にスイスレマン湖畔の精神病院を模して完成させた。
入口から病院建物までなだらかなスロープが続き、彫刻や絵画が飾られている

▶︎ 「 式場病院 」内の美しいバラの咲く庭園
出 典;『 病院 30 (6) 』
スイスのレマン湖畔の精神病院がバラを作業療法に用いていることに感銘を受けた式場。
昭和27年(1952年)病院内の広大な庭園に心癒される美しい「 バラ園 」を手がけ始める。
愛情を受けたバラたちは500種2,000本(写真当時)となり多くの人々の目を愉しませた
そして、この年、かけがえのない
大切な1つの出逢いが訪れる。

▶︎ 「 市川市ローズ・カーニバル 」の様子(昭和32年/1957年5月)
出 典;『 いちかわバラ物語2016 』
市川市では式場を中心に「 市川バラ会 」を創設し市川駅ロータリーにバラ300株を植樹。
昭和32年(1957年)5月 同会創立5周年を記念し「 市川市ローズ・カーニバル 」を開催。
高松宮妃殿下、秩父宮妃殿下をお迎えし、浮谷 竹次郎市長が「 ローズ・シチー 」宣言をした
式場が病院を開業した市川の地に
知的障害児のための福祉施設
「 八幡学園 」ができたのは
昭和3年(1928年)のこと。
誠実な社会事業家の久保寺 保久が
私財を全て投入し、一族をあげて
精神薄弱児の保護と教育を目指し
情熱もって設立した施設だった。
明治24年(1891年)東京に生まれた久保寺は
旧制第一高等学校から、東京帝国大学英法科に入学。
その後、京都帝国大学文学部へ転校。
ここで学んだ「 社会学 」を通じ
非行少年の行動、その心理や
社会との関わりに興味を持ち
そこで出逢う子どもたちの中に
精神薄弱児が多く混在していることに気づき
「 八幡学園 」設立に至ったのだった。

▶︎ 第二回精神薄弱児愛護協会 第二回総会 (昭和12年/1937年10月21日)
出 典;『 人物でつづる障害者教育史 日本編 』
前列左より)1人おいて、岩崎 佐一、脇田 良吉、石井 亮一、留岡 清男、川田 貞次郎、岡野 豊四郎
後列左より)1人おいて、渡辺 実、石井 克己、林 蘇東、久保寺 保久、長野 幸雄
昭和9年(1934年)5月
この「 八幡学園 」に1人の少年が
母親に連れられてやってきた。
のちに「 日本のゴッホ 」と呼ばれ
画家として名を知られる、山下 清である。

▶︎ 山下 清(昭和11年/1936年頃)
出 典;『 家族が語る山下清ー夢みる清の独り言
社会事業家の石井 亮一が清を判定した上で「八幡学園 」入学を指示。
清を直接担当した教諭の「 渡辺 実 」は久保寺 保久の娘婿である
大正11年(1922年)3月10日
大橋 清治、ふじの長男として誕生した、清。
日露戦争で日本が勝利した、輝かしい日を祝う
お祝いの日「 陸軍記念日 」に生まれた、長男。
それは、喜びに満ち溢れたものだった。

▶︎ 「 陸軍記念日を祝う人々(東京都中央区:有楽町マリオン前)
出 典;『 朝日歴史ライブラリー戦争と庶民 1940年ー1949年 第3巻 』
その幸せも束の間、清たち家族を襲ったのが
翌年の大正12年(1923年)9月1日に起きた
仕事と住居を一度に失った一家は

出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
その後も困難は続く。
3歳になった清は重度の消化不良を患い
突然歩行が不自由になったのである。
3ヶ月で回復し歩けるようになったが
その代わりのように発する言葉に
少し吃りが出るようになった。
大正15年(1926年)一家は
再び、東京の浅草へと戻り
清は「 石浜小学校 」へと入学するも
なかなか馴染めず、休みがちになっていく。

出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
そして昭和7年(1932年)父・清治が亡くなり
清を含む3人の子どもたちを育てていくことが
難しいと考えた母・ふじは再婚を決意する。
最初は優しかった、2人目の夫。
お酒を飲むと乱暴になり
ふじや子どもたちに暴力を振るった。
「 食べること 」が大好きだった清が
食事時、顔を蹴飛ばされ
血だらけになることもあったという。
また、学校の勉強も学年が上がるごとに
清は次第についていけなくなり
成績表は図工以外全て落第点の「 丙 」
「 みんなと同じでない。どこかが違う 」
そんなところから始まった
級友たちの清への「 からかい 」は
次第にしつこい「 いじめ 」となり
やがて「 嘲笑 」「 差別 」へと変わっていく。

▶︎ 10代の清の母・山下 ふじ
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
山下 ふじは佐渡郡新穂村大字正明寺の出身。父・大橋 清治も同じ新潟人で
白鳥の飛来で知られる、北蒲原郡水原町(現;阿賀野市)から上京した
昭和9年(1934年)清11歳の時
ふじは夫が仕事に出た留守を見計らい
わずかな荷物と玩具を持ち
3人の子どもと仔猫1匹を連れて
円タクに乗り込んだ。

▶︎ 空車の札を出しながら日比谷交差点を走る「 円タク 」
(昭和10年/1935年 撮影;師岡 宏次)
大正末期から昭和初期にかけて活躍した「 1円タクシー 」
1円均一の料金で東京市内どこまでも乗車できた
それ程遠くない三ノ輪の木賃宿の
四畳一室に逃げ込んだ家族は
その1週間後、少し前に知り合いを通じ
手配していた、杉並区和田堀の母子ホーム
「 隣保館 」へと身を寄せる。
しかし、新天地においても
清を取り巻く環境は少しも変わらず。
小学校や「 隣保館 」でも、いじめられる日々。
とうとう清は爆発し、刃傷沙汰を起こし
わずか四十余日で「 隣保館 」を
追われることになった。
そうしてたどり着いた「 八幡学園 」は
全国で8番目にできた
知的障害児のための施設だった。
当時の生徒数は30名。
収容年齢は10歳未満から30歳近い者まで。
小児麻痺、聾唖児、全く口を聞かぬ者
何でも食べてしまう子など
知能程度のほか、千差万別の特徴がある
その子どもたちと園長の久保寺 保久
妻・美智子、子息・久保寺 光久
渡辺 実らが起居を共にする日々を送っていた。
母と「 隣保館 」の寮母・大野先生に伴われ
「 八幡学園 」へと入園した清は
そこで行っていた手工の一つだった
色紙を手でちぎって画用紙に貼っていく
「 ちぎり絵細工 」に没頭、心の安らぎと
自分の居場所を少しずつ見つけていく。

▶︎ 「 八幡学園 」で貼り絵を行う山下 清(16歳)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
昭和12年(1937年)臨床心理学者・戸川 行男の尽力により早稲田大学にて
園児たちの「 展覧会 」が開かれ 画家の安井 曽太郎らもその作品に感嘆。
昭和14年(1939年)には銀座の「 青樹社 」にて「 特異児童作品展 」開催
小学校でいじめられていた清。
貼り絵を始めた頃のモチーフは
昆虫や花ばかりだった。

▶︎ 山下 清 「 はえ 」 貼り絵(昭和9年/1934年)
出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
次第にその心は開かれていき
独自の手法を用いた「 貼り絵 」で
友達や学園での生活を描き始める。

▶︎ 山下 清 「 ともだち 」貼り絵 (昭和13年/1938年)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
清が入園した翌々年「 八幡学園 」に
顧問医としてやってきた、式場 隆三郎は
清の貼り絵が放つ躍動感溢れる色彩や
独自性のあるタッチに驚くと同時に
その才能にいち早く気付き
広く一般に知らしめていく。
園児たちの「 展覧会 」が開催された後
「 ゴッホ 」の画風に似た
山下 清の作品を『 文藝春秋 』にて紹介。
後に、フェルトペンを使った素描画など
新しい絵画技法に取り組んでいくことを
清に積極的に勧めていった。

▶︎ 山下 清 「 上野の地下鉄 」貼り絵(昭和12年/1937年)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
昭和2年(1927年)上野〜浅草間を結ぶ日本初の地下鉄「 銀座線 」が開通。
当時の乗車運賃は10銭。清は17歳の時「 上野動物園 」に遠足で訪れている
式場との出逢いにより「 日本のゴッホ 」として
世間に知られるようになった清だったが
6年間の学園生活に飽きてしまったこと
また、太平洋戦争の戦火が迫る中
「 徴兵 」を恐れたことなどを理由に
突如「 八幡学園 」を飛び出す。

▶︎ 放浪中の山下 清
出 典;『 家族が語る山下清ー夢みる清の独り言 』
昭和15年(1940年)11月18日 風呂敷包1つ持ち突如姿を消した清。
浴衣に下駄履き、リュックサックというスタイルで日本全国を放浪した
18歳から32歳までの間に
大きく分けて4度にも渡る
「 学園脱出 」を繰り返し

▶︎ 清が書いた「 放浪記 」
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
放浪中の家清が家や学校に戻った時に書いた「 放浪記 」
のちに『 放浪日記 』というタイトルで出版され人気を博した
ぶらりぶらりと日本全国を
線路に沿って歩き回り
時に強制入院、逮捕されながら

▶︎ 山下 清が愛用していたリュックサック
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』

▶︎ 山下 清がつけていた「 認識票 」
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
見ず知らずの自分を信じ
住み込みの従業員として雇ってくれる
人情のある心温かな人々とも出逢い

出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
昭和15年(1940年)11月「 八幡学園 」を脱走した清は千葉県各地を放浪。
「 白樺派 」の人々が愛した我孫子の街にある「 弥生軒 」へと辿り着く。
現在も巨大な鶏唐揚げが名物の蕎麦屋としてJR我孫子駅で存続している
さまざまな発見をしながら
大好きな「 温泉 」や「 花火 」を味わい

▶︎ 山下 清「 別府のワニ 」 ペン画(昭和31年/1956年)
出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』

▶︎ 草津温泉で式場と一緒に「 湯もみ 」体験をする清(昭和30年代)
出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
その時その瞬間目にした美しい景色や風物を
驚異的な記憶力を駆使し脳裏へと蘇らせ

▶︎ 特異な集中力で貼り絵を制作する山下 清
出 典;『 家族が語る山下清ー夢みる清の独り言 』
まっしろな画用紙の中へと投影。
次々と作品を生み出していく。

▶︎ 山下 清 「 長岡の花火 」貼り絵(昭和25年/1950年)
出 典;『 山下 清の秘密:その知られざる生涯と才能の謎を解く 』
明治12年(1879年)に始まった、 日本一と称される伝統ある花火大会。
毎年8月1日に長岡空襲で亡くなった人々への鎮魂と平和への願いを込め開催。
独自技法「 こより 」を駆使し細部まで拘った本作は清の代表作となった
時に世間を騒がせ、新聞を賑わせ
周囲の人々を幾度もヒヤヒヤさせながら

▶︎ 鹿児島県谷山町(現;谷山市)の小松原墓地で子どもたちに囲まれる清
出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
清を発見したラ・サール高校2年の飯村(現在;瀧川) 守国さん(写真中央)は
清の類稀なる「 記憶力 」に並々ならぬ興味を覚え「 精神科医 」の道へと進む。
その後、鹿児島大学名誉教授兼「 鹿児島衛生協会復帰施設 」の 所長となった

▶︎ 「 もうリュックはやめなさい 」と式場から鞄を贈られる清
『 読売新聞 』昭和31年8月3日付夕刊
リュックサックは「 浮浪者が使うものだ 」と馬鹿にし始めた清。
大型のボストンバッグを式場から贈られ荷物を詰め替えながら
「 風呂敷づつみより入らないんだな 」と意外な表情をする
変わらぬ愛情で向き合ってくれる
後見人的存在の式場 隆三郎と
弟・辰造とに支えられ
かけがえのない人生の時間を過ごし

『 朝日新聞 』昭和29年1月21日付夕刊
昭和29年(1954年)1月18日ー23日に渡り「 日本橋丸善 」にて開催された
「 ヴァン・ゴッホ友の会結成記念 ゴッホ展 」に式場 隆三郎と一緒に訪れた清。
ゴッホの「 カラスのいる麦畑 」の絵の前で立ち止まり感嘆しこう呟いた。
「 凄い『 青 』だね。僕の貼り絵では出せない強さだなぁ 」

▶︎ 群馬県上牧温泉の名宿「 辰巳館 」で温泉を楽しむ式場と清(昭和36年/1961年)
出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
大正13年創業の老舗旅館「 辰巳館 」から依頼を受け大浴場の壁画を制作。
岩城硝子のガラスタイルを使用した、縦4m×横8mもの紅葉風景が完成した
さまざまな新しい挑戦をし続け

▶︎ 「 大文字焼風景 」(鉄釉壺)(昭和31年/1956年)牛ノ戸焼
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
昭和31年(1956年)5月 式場 隆三郎指導のもと陶磁器の絵付けに挑戦。
ほぼ曲面の陶磁器に下絵なしで描く作業を短期間にて習得し周囲を驚かせた

出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
長崎での展覧会の際に有田に立ち寄った清は数カ所の窯場を訪れ
100点を超す作品を制作。当該作品のモチーフは「 グラバー邸 」
昭和36年(1961年)6月9日
羽田発午後10時30分の
「 エアー・フランス 」で
ついに日本を抜け出し
ヨーロッパ9カ国へ。

▶︎ 初めてスケッチブックを手に出発した清(昭和36年/1961年)
出 典;『 家族が語る山下清ー夢みる清の独り言 』
各国大使館で「 海外で放浪されたら国際問題になる 」と心配された際
清は 「 美しいところを見て、絵を描くのが目的 」とはっきり答えた
式場 隆三郎が委員を務める
「 日本医科芸術クラブ 」の
第一回欧州視察旅行に参加するという
名目且つ全責任を式場が持つ、という
約束の元、その旅は始まった。

▶︎ 羽田空港で花束をもらい式場と欧州に出発する清
出 典;『 裸の大将ヨーロッパを行く 』
世界最大のオペラハウスである ニューヨーク「 メトロポリタン歌劇場 」で
日本初のプリマドンナとして「 蝶々夫人 」を歌った、ソプラノ歌手の今井 久仁恵から
花束を贈られ 『 花より「 佐渡おけさ 」か「 草津ぶし 」を歌って欲しかったな 』(清)

出 典; 『 裸の大将ヨーロッパを行く 』
出発前、銀座の喫茶店「 グロリア 」で夕食を摂った「 日本医科芸術クラブ 」一行。
海外へ行くのに「 エビフライ 」や「 ステーキ 」を食べることに疑念を抱いた清は
1人特別注文した「 鮭 」「しその実 」「 たらこ 」のおにぎりを食べた

▶︎ 山下 清「 ストックホルムの市役所の庭 」水彩画(昭和36年/1961年)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
「 石や銅の像になると男でも女でもパンツをはかないので
それをみんなで感心してみているのはどういうわけだろう 」(清)
オランダ・イギリス・フランス
▶︎ イギリスにて陸軍近衛師団の兵隊さんと
出 典;『 裸の大将ヨーロッパへ行く 』
旅の疲れか、次第に「 ロンドン 」を「 ドンドン 」と言いそうになる清。
「 番兵の人は人形みたいにちっとも動かないけど 疲れないのかな 」(清)

出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
ゴッホ終焉の地・オーヴェールに墓参した後にゴッホの「 自画像 」を鑑賞。
「 やせてひげの生えたゴッホが青いほのおをバックにしてまるでぼくたちを
にらんでいるようなので、どうして自分の顔をこんなおそろし気に書くのかな 」(清)
スイス・エジプトなど、十数カ国を
わずか四十数日で巡っていった。

▶︎ ラクダに乗って「 ピラミッド 」へ(エジプト・カイロ)
出 典; 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
「 大昔に土人をいっぱいつかったので 土人はただで働いたかもしれない。
土人の子孫がその時の金を取り返そうとたくさんチップを取るんだな 」(清)
帰国後、スケッチを元に貼り絵
水彩画、素描と次々に制作。

▶︎ 山下 清 「 パリのエッフェル塔 」水彩画(昭和36年/1961年)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
これらの作品は清晩年の代表作となった。

▶︎ 山下 清「 凱旋門 」フェルトペン画(昭和36年/1961年)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
清が描いた旅行中のスケッチ画は50枚以上。
帰国後の秋に作品展を開いた
このヨーロッパへの旅に先立ち
通常下駄履きスタイルの清に
「 靴 」をプレゼントした人物がいた。
阪神画壇の洋画家・大石 輝一である。

▶︎ 洋画家・大石 輝一
出 典;『 大石輝一;特別陳列 』
伊藤 慶之助や辻 愛造ら阪神画壇の仲間たちと「 艸園会 」を結成。
前者・伊藤は画家になる以前、大阪丸善に勤務。祖父の同僚だった
昭和31年(1956年)3月の
大丸・東京店を皮切りに
空前の山下清ブームの中
全国各地で開催された「 山下清展 」

▶︎ 全国の「 山下 清展日程表 」(1956年〜1961年)
出 典;『 山下 清・日本の風物 』
昭和9年の「 八幡学園 」入園以降、500点近い作品を同学園内で生み出した、清。
大丸・東京店での「 山下清展 」1カ月の来場者数は80万人を超える大盛況だった

▶︎ 子どもたちに絵を教える、清と式場 隆三郎(於;長崎)
出 典;『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』
特殊な才能を見抜く眼力があった式場 隆三郎は「 草間 彌生 」も発見。
昭和29年(1949年)東京「 白木屋 」にて草間の初個展を開催したが
その「 白木屋 」に彼女を紹介したのも、この式場 隆三郎だった
多忙を極める中、ややノイローゼ気味に
なっていた清のよき気分転換になればと
神戸大丸での展覧会の会期中
式場が彼の一時滞在を依頼したのが
知り合いだった、画家の大石 輝一。

▶︎ 神戸大丸の「 山下 清展 」会場で(写真左より;大石、式場、清)
随筆家・寿岳 文章とのつながりから
知り合った、阪神画壇のこの画家もまた
熱烈なゴッホ愛好家だった。

▶︎ 大石が妻と経営していた喫茶店「 ラ・パボーニ 」
(兵庫県西宮市千歳町34番地)
出 典;『 阪神再見:建物・文学地図・駅とまち 』
大石自らが設計、内装も自身で仕上げた、昭和9年(1934年)創業の喫茶店。
芸術家で賑わったこの店の常連客には小松 左京や野坂 昭如、遠藤 周作がいた。
戦火に巻き込まれた幼き兄弟の悲劇と深い愛情を描き、アニメーション化された
野坂 昭如の『 火垂るの墓 』の中に大石の喫茶店が「 パボニー 」として登場する
遠いあの日、武者小路 実篤らが
「 白樺美術館 」の常設作品にしようと
実業家の山本 顧彌太に購入させた
ゴッホの「 ひまわり 」
東京と大阪でわずか14日間のみ
一般公開されたその会場に
大石は足を運び「 ひまわり 」を鑑賞。
以降、ゴッホに心酔したのだった。

▶︎ 大石 輝一 「 桃 」
出 典;『 ハルビン素描集 』
昭和29年(1954年)大石たち主催で神戸市・三宮の朝日ビルにて
式場蒐集のゴッホ複製画を展示する 「 炎の画人ファン・ゴッホ展 」を開催

▶︎ 大石 輝一「 海岸(紀伊勝浦)」1918年 油彩
出 典;西宮市大谷美術館収蔵品データベース
佐藤 春夫と出逢った数年後に描いた作品。佐藤も「 二科展 」に挑戦していた時期。
この海を訪れいつまでもつきることのないゴッホやゴーギャンの話をしたのかもしれない
色々とお疲れ気味だった清は
弟・辰造と2人「 ラ・パボーニ 」の
3階にあるアトリエに1週間泊まり
大石や妻・邦子と交流。

▶︎ 宿泊中の「 ラ・パボーニ 」前で式場先生(左)と
出 典;神戸のタウン誌面/月刊KOBECCO
大石自身の壁画、暖炉が昔のまま残る、阪神間で最古参の喫茶店。
清の旅日記 『 日本ぶらりぶらり 』の中にも大石のことが登場する
清初めてのペン画作品といわれる
「 夙川風景 」を描いた。

▶︎ 山下 清「 夙川風景 」(昭和31年/1956年)ペン画
出 典;神戸のタウン誌面/月刊KOBECCO
▶︎ 山下 清(左)と大石 輝一(右)
出 典;神戸のタウン誌面/月刊KOBECCO
大石が清にプレゼントした「 靴 」は 残念ながらサイズが合わず。
元町の丸善神戸支店で大きいサイズのものと交換し欧州へ出発

▶︎ ありし日の「 丸善神戸支店 」
(兵庫県神戸市神戸区元町通1-63)
「 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展 」開催の2ヶ月後、支店に昇格。
「 元町丸善 」の愛称で愛された同店舗は 平成15年(2003年)6月30日に閉店
「 日本のゴッホ 」といわれる清と
熱狂的なゴッホ通の画家との出逢い。
大石が清と正面から向き合い
気づかされたこと。
それは実はしっかりと
「 知恵のある一人物 」でありながら
周囲に対してはどこまでも
「 無抵抗 」で「 純粋 」であり
この無抵抗な純粋さほど
強いものはないという事実だった。
「 一生懸命打ち込めることがあること 」
それこそが素晴らしいじゃないか。
大石はかねてより自らの心に描き続けている
「 複製美術館建設 」建設への思いを一層強くした。

▶︎ 制作中の清
出 典;『 山下清作品集[ 別冊 ] 』
金になる絵も描かず、借金をしてまで
独力で「 複製美術館 」を建設しようとする彼を
式場は「 君は第二の山下清だ 」と皮肉ったが
大石は強く感じていた。
「 自分の気持ちに素直に向かっていくこと。
そうすれば、きっと次の扉は開く 」
昭和29年(1954年)大石は知人の紹介で
宝塚の隣に位置する三田市に
4万平方メートルの土地を購入。
南方に裏六甲、北西には丹波山塊を巡らす展望。
何より晩年のゴッホが愛した、南仏アルルの
景色に似ている、それが決め手となった。

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ「 収穫 」(1888年)
出 典;『 ゴッホの宇宙(そら) 』
1888年の早春、憧れの日本によく似ていると思う南仏「 アルル 」に到着。
郊外のラ・クロー平原とアルピーユ山脈を描いた、自身最高傑作の1つ
まずは、一番小高い場所を選び
土地の整理と道作りから
妻・邦子と二人で始めた。
ほとんど独力の地道な土方仕事で
容易なことではなかった。
手に負えない時だけ、1時間6,000円の
ブルドーザーを雇ったりもした。
門や塀はコンクリート造り。
その吸水性や耐久性を高めるため
1つひとつのコンクリートの中に
20センチほどの川の石を
隙間なく入れて塗り込めていく。
その石は大石が武庫川で選び
リュックサックに詰め込み
少しずつ地道に運び込んだものだった。
河原で懸命に集めた石片を背負っては
何度も何度も山道を行ったり来たりする
彼の姿を異様な目で見つめる人もいた。
画家仲間たちも冷ややかだった。
それでも大石は脇目もふらず
「 一生懸命打ち込めることに向かう 」
その素直な思いだけを念頭に邁進していく。

▶︎ ゴッホの記念碑を建てる広場と丹波石で作った石垣(写真後方)
出 典;『 週刊読売 』1962年3月18日号
これと同時進行でアトリエでは
ゴッホがオーヴェルで最後に描いた
自画像をモチーフにした
レリーフ作りが始まった。
フィンセントの能力を信じ
生涯を通じ支え続けた弟・テオ。
テオの死後にその遺志を引き継ぎ
義兄の芸術を世に問うため
生涯を捧げた、ヨハンナ。
この奇跡の人間像を標示して
みんなと共に冥福を祈りたい。
ゴッホ家の3人の人に
永遠の愛情を捧げ、冥福を祈りたい。
日本の浮世絵が大好きで
日本に行くことを長年夢見ながら
絶命したゴッホのために
その「 魂 」を自分が日本に迎え入れたい。
大石のそのまっすぐな思いは
清に負けない位、純粋で無垢だった。

出 典;『 週刊読売 』1962年3月18日号
昭和36年(1961年)2月、台石の据え付けが完了する
大石は当初この広大な敷地の中に
5棟の美術館を建て、自ら蒐集した
名画の複製を分類・陳列。
「 ゴッホ記念碑 」の前面には
「 ゴッホ広場 」を作り、その中心に
「 タラスコンへの道を行く画家 」の中の
スケッチブックを持って歩くゴッホの姿の
等身大像を制作しようと考えていたが
時間的にも財政的にも厳しかった。
そこでやむなく記念碑以外
未完成のまま、自らが敬愛する
「 ゴッホ記念碑 」の除幕を
挙行することにしたのだった。

▶︎ フィンセント・ファン・ゴッホ「 タラスコンへの道を行く画家 」(1888年)
出 典;大塚国際美術館
第二次大戦中に戦火から守るため、地中深くの岩塩坑に避難させたが
それ依頼行方が分からなくなっている作品(陶板による原寸大複製)
昭和37年(1962年)5 月27日
小雨の降る中、開催された
「 ゴッホ記念碑 」除幕式。
一画家が私財を投じ少しずつ
地道に作ったこの記念碑の式典には
兵庫県の阪本 勝知事、田島 淳太郎西宮市長
オランダ領事夫妻、フランス副領事夫妻を
はじめとする数多くの人々が列席。

▶︎ 「 ヴィンセント・ファン・ゴッホの記念碑 」除幕式
出 典;『 ファン・ゴッホ 生成変容史 』
朝日新聞社社友で神戸新聞社元取締役会長の朝倉 斯道が委員長を務め
関西日蘭協会(1959年設立)会長の松下 幸之助も祝電を寄せた
ゴッホの故郷・オランダの国歌演奏と
国旗掲揚に始まった同式典は
聖火の点灯、神戸生田神社権宮司
福田 義文による除幕と清祓式

▶︎ 大石 輝一「 ゴッホ記念碑 」(部分)
出 典; 『 史跡と伝説:カラー版 第7巻 』
オーベルにあるゴッホの墓をモデルに西宮市にある石材商に頼み加古川産の
重さ4トンもある黄色の凝灰岩を掘ってもらい、レリーフを大石が花崗岩に彫刻。
碑文は阪本兵庫県知事、神戸駐在オランダ総領事、松下幸之助に書いてもらった
雅楽演奏、ヴァイオリン献奏、合唱献唱
祝辞、大石夫妻の挨拶を経て
最後に「 君が代 」斉唱で終了した。

▶︎ 除幕式に列席した多くの人々(前列左から3人目;大石 邦子、4人目;大石 輝一)
出 典;『 ファン・ゴッホ 生成変容史 』
この地にはこの後も続々と
大石の思い溢れる石碑や詩碑が建立。
太平洋戦争中、敵国人(西洋人)という理由で
一方的にスパイ嫌疑をかけられ、逮捕。
連日連夜におよぶ激しい拷問に加え
飢えと寒さの中、寝ることさえできず
最後には正気を失い、発狂。
「 カトリック夙川教会 」創設・初代神父の
シルベン・ブスケ師の冥福を祈り制作された
「 シルベン・ブスケ師像 」
(昭和40年 /1965年5月)

▶︎ 「 カトリック夙川教会 」を創設した シルベン・ブスケ神父(写真中央)
出 典;『 月刊神戸っ子 KOBECCO 』2017年10月号
大正末期に個展会場として「 カトリック夙川教会 」を貸してもらった大石。
そのお礼に神父の肖像画を描くことを約束するも、大石がハルビンへの旅行中
神父は憲兵に無実の罪を着せられ拷問後死亡。その事実は18年も隠し続けられた

▶︎ 「 夙川カトリック教会と信者たち 」(昭和7年/1932年)
出 典;『 月刊神戸っ子 KOBECCO 』2017年10月号
『 沈黙 』『 海と毒薬 』で知られる作家・遠藤 周作が昭和9年(1934年)
11歳の時に洗礼を受けたのがこの「 カトリック夙川教会 」

▶︎ 「 カトリック夙川教会 」(西宮市霞町5-40) 撮影;鵜塚 健
出 典;『 毎日新聞 』2025年8月21日付 夕刊
13世紀に仏で造られた「サント・シャペル 」をモデルに昭和7年(1932年)竣工。
夙川の街そして教会のシンボルである高さ33mの尖塔は少年時代の遠藤 周作が
30mの地点までよじ登り、逆立ちをし神父に激怒されたことで知られている
昭和41年(1966年)4月3日には
武者小路 実篤から贈られた
「 ゴッホを想う詩碑 」

▶︎ 武者小路 実篤「ゴッホを想う詩碑 」(昭和38年/1963年)
出 典; 『 史跡と伝説:カラー版 第7巻 』
若き日の佐藤 春夫と大石 輝一が
色紙に絵と詩で合作した時に詠んだ
「 狂画人ゴッホ憐れむ 」の詩碑

▶︎ 佐藤 春夫「 詩碑 」(大正11年/1922年)
出 典; 『 史跡と伝説:カラー版 第7巻 』
大正5年(1916年)熊野で共通の友人・大橋 定規を介し2人が出逢った際
佐藤がこの詩を大石がひまわりの絵を描き合作を作った思い入れのあるもの
同年 5月22日には
「 民藝の父・柳宗悦先生讃碑 」
11月12日にはフランスに長年暮らした
彫刻家・高田 博厚と交流が深かった
ロマン・ロランの「 生誕百年記念碑 」などが
建てられるも、昭和47年(1972年)2月4日
大石の死後は、急速に忘れ去られていく。

▶︎ 大石 輝一 「 心の自画像 」(1972年/絶筆)
出 典;『 ハルビン素描集 』
ハルビンでお世話になった老人を思い出して描いた作品。
「 鉄斎のように、80歳になってから本当の絵を描くんだ 」が口癖だった
夫の7回忌に『 ハルビン素描集 』を上梓し
13回忌となる、昭和59年(1984年)に
大石の没後初めての個展を開催。
昭和61年(1986年)1月には
大石のその生涯を辿る「 特別陳列 」を開催。
建物全体が彼のアート作品だった
伝統ある喫茶店「 ラ・パボーニ 」を守りながら
夫を顕彰し続けた妻・邦子は
平成7年(1995年)の阪神淡路大震災による
「 ラ・パボーニ 」倒壊後の翌年に88歳で他界。
大石が人生最後の情熱を注ぎ込んだ
「 アート・ガーデン 」(藝術の園)は
ほとんど手入れされることなく
荒れ果てた森へと戻っていき
時の移り変わりとともに
大石がその昔この地に見た
「 アルルの風景 」は失われていった。

▶︎ 大石 輝一 「 フィンセント・ファン・ゴッホ記念碑」
出 典;『 ファン・ゴッホ 生成変容史 』
横約1メートル、縦約2メートルの黄龍石で作られた記念碑。
大石が最後の情熱を注いだ作品並びに各種詩碑は「 戦争の悲惨な歴史 」や
「 日本におけるゴッホの歴史 」に繋がる大変貴重なものである。
戦後すぐに阪神画壇で懸命に生きた画家たちの顕彰と併せ保存が望まれる
武者小路 実篤ら「白樺派 」により
発見・紹介され、式場 隆三郎の
あくなき研究と発表により
日本に浸透していった、ゴッホ。
「 日本のゴッホ 」といわれた
山下 清との類似点は、やはり
「 よき理解者・支援者に出逢えたこと 」
他人にはなかなか理解されにくい
ゴッホの孤独な「 心 」を弟のテオが理解し
生涯に渡って支え続けたように
昭和11年(1936年)式場 隆三郎に見出された
山下 清は、昭和40年(1965年)11月に
式場が亡くなるまで、先生と生徒として
また、時に親子のように同じ時を過ごした。

▶︎ 長岡市内の学校で子どもたちに絵を描いてみせる清 (後列左;式場 隆三郎)
出 典;『 日本列島 ・にんげん巡礼 』
「 佐渡 」と「 五泉市 」 同じ新潟県にそれぞれのルーツを持つ、清と式場。
2人は出逢うべくして出逢った、お互いにとってかけがえのない存在に思える
清を理解し、向き合ってくれた式場の存在は
幼くして「 父 」を失った清にとって
「 父 」のようであり「 父親 」以上の
かけがえのないものであったに違いない。

▶︎ 『 家族が語る山下清 :夢見る清の独り言 』(並木書房)
映画やテレビなどで自らの姿が誇張される度に「これは僕じゃない 」と戸惑った清。
「 世の中のことは半分位本当であればいいのかも 」と自分なりの落とし所を発見していく。
戦前から高度成長期を花火のような煌めきを放って生きた、山下 清の姿を家族が描いた1冊
式場 隆三郎という後ろ盾を失ってからは
歌川 広重の浮世絵「 東海道五十三次 」
ならぬ「 キヨシの五十三次 」に着手するも
時折、式場のことを思い出していた。
「 先生が死んでやっぱり悲しかった。
人が死んで悲しくない人はいないだろうな 」
式場が亡くなった際、弟の式場 俊三氏が
清の心の虚脱を招かないようにと
ある大きな「 宿題 」を出した。
それがこの「 東海道五十三次 」

▶︎ 「 東海道五十三次 」川崎大師(川崎)
出 典;『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』
亡き式場 隆三郎に代わり、弟の式場 俊三氏が清をスケッチ旅行へ連れ出す。
旅の振り出しは「丸善 」の聖地・日本橋だが 高速道路の下に隠れてしまった
現在の日本橋には創作意欲が湧かず「 皇居前 」がスタート地点となった
「 先生のこと時々思い出します。
死んでしまってもタマシイが
残っているというのはほんとなのかな 」

出 典;『 家族が語る山下清 :夢見る清の独り言 』(並木書房)
そう問いかけた清に時を超え
皆が愛するゴッホの言葉
(大江 健三郎訳)を以て
堂々こう答えたい。
「 死者を死せりと思うなかれ。
正者のあらん限り
死者は生きん。死者は生きん 」
(大江 健三郎 著 『 日常生活の冒険 』より)
自らの生涯をかけて取り組んだ
「 アート・ガーデン 」(藝術の園)の一角にも
ゴッホのこの言葉を刻みこんだ大石は
昭和36年(1961年)ある真実を知る。
それは、35年ほど前、個展の会場にと
「 夙川カトリック教会 」を貸与してくれた
シルベン・ブスケ神父の非業の死。
戦時中に起きた、理不尽すぎる逮捕と
繰り返された、激しい拷問。
1人寂しく精神病院で絶命した、その事実。
周囲の人々は深く深く傷つきながらも
かつての日本の軍国主義の過ちを許し
長年「 沈黙 」を続けていたのだった。

▶︎ シルベン・ブスケ神父(1877年〜1943年)
「 パリ外国宣教会 」のフランス人カトリック司祭。
明治44年(1911年)日本で最初に『 小さき花の聖テレジア 』を訳し
宮内庁にも献上。日本語が堪能であったためスパイ容疑をかけられた
押し込められた病院の中で
自らの死期が近いことを悟り
「 告解!告解!」と何度も叫んだ神父。
寒く暗い精神病院で、たった一人迎えた
筆舌に尽くしがたい、壮絶な臨終の苦しみ。
大石は悲しみを堪え、キャンバスへと向かった。
そしてその年のクリスマス。
完成した「 シルベン・ブスケ神父の肖像 」を
「 カトリック夙川教会 」へと寄贈。
慈悲深く素晴らしい人物だった
神父との「 約束 」を35年ぶりに
果たした瞬間だった。

▶︎ 「 夙川カトリック教会 のステンドグラス 」
出 典;『 月刊神戸っ子 KOBECCO 』2017年10月号
平成2年(1990年)大阪市内の教会で
その後、行方知れずになっていた
大石の「 シルベン・ブスケ神父の像 」が発見された。
36年ぶりに復活した肖像画。
キャンバスの裏には大石の直筆で
こう書かれていた。
神父 シルベン・ブスケ氏の霊に捧ぐ
昭和元年一月十日の夜
貴方の部屋でペチカ(暖炉)を囲んで
御約束した神父さんの肖像画が
立派ではありませんが描けました。
御笑納ください 。
昭和三十六年十二月 Xマスの日
西宮市住 大石 輝一
▶︎「 36年ぶりに発見された神父の肖像画の話を伝える新聞記事 」
『 産経新聞 』 平成9年12月24日付 大阪本社版/夕刊
記事内の写真(下)に写る絵画が大石の友情の証である「 シルベン・ブスケ神父の肖像 」
戦争中、多くの神父・牧師が特高(特別高等警察)や憲兵隊により逮捕・拷問された。
大石が描いた神父像は「 戦争の悲惨さ 」と「 国境を超えた友情 」を伝え続ける使命を持つ
遠い昔『 白樺 』に掲載された
日本で初めてとなる、児島 喜久雄翻訳の
『 フィンセント・ファン・ゴッホの手紙 』を
読んで躍動し、わずか14日間だけ公開された
ゴッホの幻となった「 ひまわり 」を鑑賞。
その後、作家として飛躍していく
佐藤 春夫との出逢いを通じて画家を志し
ゴッホ研究の第一人者・式場 隆三郎や
「 日本のゴッホ 」といわれた、山下 清とも交流。
自らの「 思いの丈 」を手紙にしたため
ゴッホの孫であるフィンセント・ウィレム・
ファン・ゴッホ氏へと送付。
生涯ゴッホを愛し、走り続けた
阪神画壇の洋画家・大石 輝一。
彼が長年所属した「 神戸洋画会 」
(設立;昭和21年/1946年〜)を
朝日新聞社社友の朝倉 斯道とともに牽引した
大塚 銀次郎という人物は、祖父の友人であり
丸善時代の忘れ得ぬ上司・大塚 金太郎の弟にあたる。
時期や期間、雇用形態は不明であるが
入社する以前の一時期、丸善の社員だった。

▶︎ 日本で最初の図書館用具商社を開いた、間宮 不二雄と仲間たち
出 典 ;『 図書館と人生 』
大正14年5月 F-M式鉄枠書架100基納入達成記念旅行先の京都・渡月橋にて。
大塚 兄弟、玉井 弥平、間宮 不二雄、日下 定次郎、井上 清太郎は元丸善社員。
そのうちの井上 清太郎は「 丸善夜学校 」の記念すべき第一回卒業生でもある
前列左より) 日下 定次郎、井上 清太郎、大塚 銀次郎、間宮 潤子、石井 凞市
中列左より)河村 罫引師、日下 三郎、和田某、玉井 弥平、間宮 不二雄、 田中 茂、大塚 金太郎、間宮 シゲ
後列左より)芝原 狷介、山本 義勇、曾我 利三、樽井 喜太郎、森 清、中川 貞恵、間宮 千嘉子、別所 松蔵
また、大塚 金太郎は「 白樺派 」に深く愛された
あの気立のいい「 初ッつぁん 」の
とても親しい仲間内であり
彼らの父は、早矢仕 有的とともに
創業「 四人衆 」の大塚 熊吉。
彼らの母は早矢仕 有的の親戚
(義兄 勝四郎の長女・お代)である。
日本におけるゴッホの元祖・武者小路 実篤の
「 ゴッホを想う詩碑 」があると同時に
佐藤 春夫や遠藤 周作とも関連性を持ち
小松 左京や野坂 昭如とも繋がりを見せる
「 アート・ガーデン 」(藝術の園)
戦後目覚ましく変わりゆく
時の移ろいの中で
感謝の気持ちをすっかり忘れ
利己主義へと走る人々を憂い
希望の炎を燃やす「 ゴッホ 」のような
熱意ある次世代の登場を願い
自らの心血を注ぎ
人生が終わるその瞬間まで
美しい芸術を後世に残そうとした、大石。

▶︎ 大石 輝一「 雪の金閣寺 」(1950年)油彩
出 典;西宮市大谷美術館収蔵品データベース
来るべき金閣寺の受難を察知していたかのように昭和23年(1948年)から
昭和24年(1949年)にかけて金閣寺を描くことに熱中した、大石。
昭和25年(1950年)放火により全焼した金閣寺再建に奔走するご住職への
協力の念で「 金閣寺の四季展 」を阪急百貨店美術部にて開催。5年後、再建。
喫茶店「 ラ・パボーニ 」を始めたのも
「 芸術 」を民衆の中に推し広めることで
芸術愛好家たちが集まり賑わう
若い人たちの明るく楽しい
親善の場を作りたかったからに過ぎない。
時を超えて突然聞こえてきた
大石の「 悲痛な叫び 」を
私は看過することができない。
どういう形であってもいい。
人の心に寄り添い続けた
心やさしき彼の積年の「 思い 」を
弛まぬ真っ直ぐな情熱の結晶である
「 アート・ガーデン 」(藝術の園)を
未来へと継承していって欲しい
そう強く願って止まない。

▶︎ 可憐なバラで溢れる「式場病院 」の庭園
出 典;医療法人 式場病院(精神科)公式ホームページ
バラの美しい庭園中央にディスプレイされている「 大谷焼 」は
清と一緒に徳島県鳴門市大麻の大谷焼・窯元を訪れ、特注したもの

▶︎ 「 炎の人・ゴッホ 」でゴッホを演じた俳優・カーク・ダグラス(右)
出 典; ポップカルチャーのニュースサイト:ナタリー
ゴッホを演じた同作でゴールデングローブ賞・主演男優賞(ドラマ部門)受賞。
令和2年(2020年)2月5日(アメリカ現地時間)103歳で旅立つ。
子息で俳優の マイケル・ダグラス(写真左)は 父親の俳優としての功績を讃えつつ
「 父さん、愛してる。あなたの息子であることを誇りに思います 」とコメントした
< 神 戸 洋 画 会 >
昭和21年(1946年)神戸東灘区に設立
常任理事;大塚 銀次郎(「 神戸画廊 」経営 大阪毎日新聞社元社員、元丸善社員 )
常任理事;小磯 良平 (会員)
常任理事;大石 輝一 (会員)
会 員;伊藤 慶之助 (元丸善社員:大阪支店勤務)川西 英、上田 清一
東 晴司、伊川 寛、江田 誠郎、大垣 泰治郎、角野 判治郎、小出 卓二
小松 益喜、田村 孝之助、辻 愛造、平松 武清、藤井二 郎、別車 博資
前田 藤四郎、桝井 一夫、三木 朋太郎、宮下 貞之介、山崎 隆夫

▶︎ 「 神戸洋画会のメンバー 」
出 典;『 大石輝一;特別陳列 』
昭和21年(1946年)3月18日 神戸大丸にて開催された
第一回「 神戸洋画会展 」参加メンバー22名。(上記記載)
この展覧会は神戸における、戦後初の充実した絵画展となり
同会はメンバーに多少の変動をみながらも
十余年間 毎年1、2回の発表展をもった。

▶︎「 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展 」開催月に発行された『 學鐙 』の表紙
『 學鐙 』昭和28年/1953年5月号
明治30年(1897年)3月に丸善が創刊した、現在も続く日本最古の企業PR誌
MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM
「 ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展 」開催の仕掛け人である
八木 佐吉氏の122回目のお誕生日と当該記念展
最終日開催の「 座談会 」にご出席くださいました
中村 研一画伯58回目のお命日に際し、当記事を掲載いたします。
多くの人々がゴッホを生涯愛し続けたように 私は丸善を敬愛し続けます。
令和7年(2025年)8月28日
丸善の小さな応援団長
マルゼニアン

「 美術館 」でしかお目にかかれないようなこうした逸品に出合えた時
丸善がかつて「 丸善商社 」だった頃の品格ある息吹を感じるのだ
MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM
< 参考文献 >
『 家族が語る山下清ー夢みる清の独り言 』新装改訂版 山下 浩 編 並木書房 /2024年
『 山下清作品集[ 別冊 ] 』式場隆三郎 編 栗原書房 / 1956年
『 山下 清の秘密:その知られざる生涯と才能の謎を解く 』篠原 央憲著
ロングセラーズ/1981年4月
『 生誕100年 山下清展 百年目の大回想 』山下 清著 友員 里枝子 / 2022年1月1日
『 山下清の放浪地図:昭和の日本をぶらりぶらり 』監修=山下 浩 平凡社/2012年
『 家族が語る山下清ー夢みる清の独り言 』新装改訂版 山下 浩 編 並木書房 /2024年
『 花や人形 』式場 俊三 著 牧羊社/1982年6月
『 人物でつづる障害者教育史 日本編 』精神薄弱問題史研究会 編/1988年2月
『 日本ぶらりぶらり 』山下 清 著 文芸春秋社/1958年
『 裸の大将ヨーロッパを行く 』山下 清 著 ノーベル書房/1981年10月
『 山下 清・日本の風物 』山下 清 画 式場 隆三郎 編 東峰書院/1961年
『 ヨーロッパぶらりぶらり 』山下 清著 文芸春秋社/1961年
『 日本列島 ・にんげん巡礼 』 佐藤 國雄 著 高文研/1993年3月
『 ゴッホの百年 』式場 隆三郎 著 美術出版社/1957年
『 出頭没頭 』 式場 隆三郎 著 現代社 / 1956年
『 ゴッホの耳 ー天才画家最大の謎ー 』 バーナデット・マーフィー著
『 ファン・ゴッホ 生成変容史 』國府寺 司 著 三元社/2023年
『 ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅 』ニーンケ・デーネカンプ ルネ・ファン・ ブレルク タイオ・メーデン・ドルプ著 鮫島 佳代訳 千足 伸行監修 講談社/2016年
『 ゴッホの宇宙 きらめく色彩の軌跡 』小林 英樹 著 中央公論新社/2010年8月10日
『 別冊みづゑ (2 ) 』美術出版社 / 1953年9月
『 ハルビン素描集 』大石 輝一 画 大石 邦子 著/1978年2月
『 大石輝一;特別陳列 』西宮市大谷美術館 編/1986年
『 兵庫教育 49 (7)(560) 』兵庫県総合教育センター 兵庫県教育委員会/1997年
『 神戸市史 第3集【第2】(社会文化編) 』神戸市/1965年
『 三田市史 下巻 』 三田市史編纂委員会 編 三田市/1965年
『 いしぶみ文学紀行 』木村榮治 著 のじぎく文庫/1966年
『 史跡と伝説:カラー版 第7巻 』 永木 徳三 著 日本史跡尊存会本部/1982年1月
『 阪神再見:建物・文学地図・駅とまち 』朝日新聞阪神支局編 /1975年
「 神戸のタウン誌/月刊KOBECCO 」2018年3月号(WEB)
『 殉教者シルヴェン・ブスケ神父 』夙川カトリック教会/2019年
『 自分の歩いた道 』 武者小路 実篤 著 読売新聞社/1956年
『 三彩 (351) 』三彩社/1976年11月
『 大震災’95 』小松 左京 著 河出書房新社/2012年
『 日本文壇史 16(大逆事件前後) 』伊藤 整 著 講談社/1979年1月
『 日本文壇史 19 (白樺派の若人たち) 』瀬沼 茂樹 著 講談社/1979年3月
『 父 岸田 劉生 愛蔵版 』 岸田 麗子 著 中央公論社/2021年5月25日
『 大江 健三郎全作品 第5 』大江健三郎 著 新潮社/1967年
『 夕陽 』志賀 直哉 著 桜井書店/1960年
『 書誌索引展望3(4) 』日本索引家協会 編/1979年11月
『 朝日歴史ライブラリー戦争と庶民 1940年ー1949年 第3巻 』 朝日新聞社
『 朝日新聞 』昭和28年(1954年)1月21日付 東京/夕刊
『 朝日新聞 』昭和31年(1956年)8月3日付 東京/夕刊
『 読売新聞 』昭和46年(1971年) 7月13日付 朝刊
『 朝日新聞 』昭和45年(1970年)2月22日付 東京/朝刊
『 産経新聞 』平成9年(1997年)12月24日付 大阪版/夕刊
『 神戸新聞 』平成28年(2016年)7月17日付 阪神版 /夕刊
『 神戸新聞 』平成28年(2016年)8月14日付 阪神版 /夕刊
『 月刊神戸っ子 KOBECCO 』2017年10月号
『 月刊神戸っ子 KOBECCO 』2018年3月号
「 阪急・阪神沿線散歩 」 三田ガーデンに今なお残るブスケ神父の記念像
『 學 鐙 (23)(4) 』 丸善株式会社 / 1919年 4 月
『 學 鐙 (50)(2) 』 丸善株式会社 / 1953年 2月
『 學 鐙 (50)(5) 』 丸善株式会社 / 1953年5月
『 學 鐙 (92)(7) 』 丸善株式会社 / 1995年7月
『 「 學鐙 」を読む ——内田魯庵・幸田文・福原麟太郎ら—— 』 紅野 敏郎 著
株式会社 雄松堂出版/2009年1月1日発行
『 丸善百年史 :近代日本のあゆみと共に(下巻) 』飯泉 新吾 丸善株式会社/1981年
資料提供;国立国会図書館

クレジットなきものは筆者私物
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