大正15年(1926年)7月3日。
台湾・基隆港を出港、日本へと向かう
内台航路の「 笠戸丸 」から
1人の男が漆黒の洋上へと身を投じた。
男の名は「 森 丑之助 」
18歳から概ね30年もの間
未開の地だった台湾に暮らし
原住民研究や植物調査に
多大なる力を尽くした人物だった。

▶︎ 台湾・基隆への直行艦として活躍した大阪商船 「 笠戸丸 」
出 典;『 郵便が語る:台湾の日本時代50年史 』
明治39年(1906年)のハワイ移民ならびに明治41年(1908年)の
ブラジル移民の送迎船として使用されたことでも広く知られた船だった
不平士族最大の反乱である、西南戦争が起きた
明治10年(1877年)「 丁丑 」の年の 1 月16日
誕生した、森 丑之助。

▶︎ 森 丑之助(1877年〜1926年)
出 典;『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』
生来の虚弱体質に加え、身長は161cmに満たず。
胸囲は74㎝で、人並み以下。
幼い頃は医師から20歳過ぎまでか
長くて25歳まで生きるか否かといわれていた。
こうした身体の不健全さや
彼自身の「 境遇の事情 」などから
規則に従った学業を修めることができず
「 長崎商業学校 」で学んだ
支那南方官話(中国語)を武器に
縁あって陸軍の通訳として
日本の領有間もない台湾へと渡った。

▶︎ 明治期の「 長崎商業学校 」校舎
出 典;『 日本商業学校一斑 』
中津藩士・猪飼 太兵衛正範子息で福澤 諭吉門下の猪飼 麻次郎が校長を務めた同校。
慶應門下の猪飼は「 交詢社 」設立等々で、丸善創業者・早矢仕 有的と交流があった。
同校は「 長崎市立商業高等学校 」として存続し、本年「 創立140周年 」を迎えた
幼い日に誰からともなく聞いた
「 南方の熱帯の島国。
鬼のような生蕃のすむ台湾 」を
心に思い浮かべながら
基隆へと上陸したのは
明治28年(1895年)9月のこと。
まだこの頃は、義重橋湖畔の溝に
いまだ清国兵隊の腐乱した
死体がいくつも横たわっていた。
明治29年(1896年)1月
台湾へ渡って4ヶ月。
ちょうど台北で「 芝山巌事件 」が起きた頃
丑之助は当該事件の現場からそう遠くもない
「 大嵙崁 」(だいかかん)へと入った。

▶︎ 大正4年(1915年)頃の台湾
出 典;『 幻の人類学者森丑之助:台湾原住民の研究に捧げた生涯 』
これが丑之助初の「 蕃地入り 」
(台湾原住民の居住地に入ること)であり
初めて蕃人の生活に触れた瞬間だった。

▶︎ 「 タイヤル族トロコ蕃の蕃社 」(撮影;森 丑之助)
出 典; 『 台湾蕃族圖譜 第1巻 』
当時の台湾には祖霊信仰に基づく
「 首狩り 」の風習があり
そうした山岳地帯は
総面積の65%を占めていたが
丑之助は武器も寸鉄も携帯せず
警察の保護同行も一切受け付けず
不自由だった足を引きづりながら
台東、花蓮港、恒春方面へと自らの足で
台湾の大地を踏み締め踏査して行った。

▶︎「 タイヤル族の頭骨架 」(撮影;森 丑之助)
出 典; 『 台湾蕃族圖譜 第1巻 』
人間の頭部に力が宿ると考えそれを敬い自らの力にしようとする呪術的なもの
勇気のある姿を見せることで結婚可能という能力の証明であったことなど
台湾原住民たちに首狩りの風習があった理由には諸説存在している
この時代は「台湾総督府 」の民政局や
殖産局の技師、東京帝国大学の各分野の
調査者たちが派遣されており
丑之助も日々独自調査を進めていく中で
さまざまな人々と出逢っていく。
明治29年(1896年)の秋頃、通訳として訪れた
花蓮・新城・太魯閣方面で出逢ったのが
「 第一回台湾原住民調査 」として来島していた
「 東京人類学会 」メンバーの鳥居 龍蔵であった。

▶︎ 鳥居 龍蔵(1870年〜1953年)
出 典;『 日本考古学史資料修集成 3 』
明治3年(1870年)4月4日 現在の徳島県徳島市東船場町にて誕生。
「 東京人類学会 」に入会。坪井 正五郎と出逢い、人類学者の道を歩む。
森 丑之助は亡くなるまで鳥居を尊敬。台湾での遺物発見 についての知らせを
鳥居に送り続け、鳥居は森を「 台灣蕃人調査のオーソリチー(その道の権威) 」と呼んだ

▶︎ アミ族の村で調査をする鳥居 龍蔵
出 典;『 鳥居龍蔵の見たアジア:徳島の生んだ先覚者 』
日本最古の企業PR誌『 學 鐙 』の中に鳥居はこんな言葉を残している。
「 私の半生は実に丸善とともにあった。丸善は洋書店ではあるが私としてみれば
親しい良友であって、私の半生の交際として全く忘るべからざる所である。
嗚呼、思えば私の東大助手——講師——助教授時代、いささか感ずる所あって
退職して今日に至るまで、私の友人としてよき伴侶であった 」(47巻12号より)
生涯で合計5回渡台し
現地調査を行った、鳥居 龍蔵。
明治31年(1898年)に行なった
鳥居3回目の調査に丑之助は同行。
自ら進んで鳥居の助手となり
地理の嚮導から土語蕃語の通訳
調査補助などを担当。
台東・恒春などを回って、ブエマ、パイワン
スカロ、マカタオなどを調査。

▶︎ 「 パイワン族卑南の男子 」(撮影;森 丑之助)
出 典;『 台湾蕃族圖譜 第1巻 』
その2年後の明治33年(1900年)
4回目の調査にも丑之助は同行し
1月〜2月のパイワン調査を皮切りに
3月にツォウ・プヌンを調査。

▶︎ 「 ブヌン族カンタバン蕃の住家 」(撮影;森 丑之助)
出 典;『 台湾蕃族圖譜 第1巻 』
4月には阿里山より水山を経て
雪の中を絶食2日目にして
「 新高山 」(現;玉山)初登頂。

▶︎ 「 ツォウ族発祥の地と伝わる新高山 」(撮影;森 丑之助)
出 典;『 台湾蕃族圖譜 第1巻 』
新高山に陸軍の測量隊以外で最初に登ったのは、丑之助だった。
2回目の登頂時、自らが作った観音像を携帯し山の中に置いた
▶︎ 「 世界日本主要山岳比較 」
出 典;『 高等小学校地理新指導書 巻2 』
日本の最高峰「 富士山 」の3,776mより高い「 新高山 」(玉山)
幼少期から足が不自由だった丑之助の探検にかけた情熱に感服
5月〜6月にタイヤル調査。
7月には埔里方面で平埔、タイヤル、ブヌンへ。
その後、八通関を通って中央山脈を横断し
花蓮、宜蘭一帯の調査を行った丑之助は
10月、鳥居の紹介で「 東京人類学会 」に入会。
坪井 正五郎とも交流を深めるようになる。

▶︎ 「 東京人類学会メンバー 」(明治26年頃)
出 典;『 鳥居 龍蔵傳 徳島郷土叢書 』
前列左より)八木 奘三郎、坪井 正五郎、井上 喜久治、下村 三代吉
後列左より)山崎 直方、若林 勝邦、鳥居 龍蔵
また、明治38年(1905年)から始まった
「 総督府有用植物調査 」のメンバーとして
当該主任の川上 瀧弥が丑之助を抜擢。

▶︎ 川上 瀧弥(1871年〜1915年)
台湾総督府民政部殖産局時代
明治4年(1871年)1月24日、旧庄内藩士の次男として誕生。
明治33年(1900年)札幌農学校本科に入学、植物病理学専攻。
台湾各地を周り優れた研究を残し「 台湾総督府博物館初代館長 」なる。
北海道の阿寒湖で新種の緑藻を発見「 マリモ 」と命名した人物でもある
恩師の1人である、新渡戸 稲造の影響を
大きく受けた篤実な人物だった。

▶︎ 台灣時総督府時代の新渡戸 稲造(中央脱帽)
出 典;『 新渡戸稲造(さっぽろ文庫:24) 』
明治34年(1901年)後藤 新平の招聘により渡台した新渡戸は
民政部殖産課長として辣腕を振るい「 台灣製糖の父 」となった
丑之助は川上の薫陶を受けながら
次々と高山植物を採取。

▶︎ 「 モリシャクナゲ 」
出 典;『 躑蠋・皐月・石楠花 』
丑之助が発見した新種の植物 「 モリシャクナゲ 」
ピンク色をしたツリガネ形の花で4月〜5月台湾の山に咲く
2人で「 新高山 」に登り
「 玉山石竹 」「 玉山当帰 」ほか
10数種類の新しい品種の標本を採集。

▶︎ 「 カワカミシャクナゲ 」
出 典;『 躑蠋・皐月・石楠花 』
発見者である、川上の名を冠した植物は40数種類以上に及ぶ
その中には、氷河時代の「 生ける化石 」といわれる
稀少植物の「 カワカミ薄雪 」(別名;玉山薄雪草)
(ヨーロッパ名;エーデルワイス)もあり
星形のかわいらしい花びらで
発表時にはその美しさに世間をあっと驚かせた。

▶︎ 台湾・玉山の岩場に咲く「 カワカミウスユキ 」
出 典;『 花の歳時記 別巻2 〔アメリカ/アジア/オセアニア) 』
海抜3,000m以上の高地の岩場に咲く「 カワカミウスユキ」
台湾で唯一の「 エーデルワイス 」の仲間

▶︎ 「 カワカミウスユキ 」
出 典;『 講談社 園芸大百科事典 :フルール5(夏の花 1) 』
台湾の中央山脈に分布し「 玉山薄雪草 」別名あり
帰国後すぐに「 台湾総督府博物館 」の新築移転に
付随した台湾原住民関連の展示等を行うなど
精力的に活動すると同時に
台湾総督府の内田 嘉吉の後押しもあり
『 台湾蕃族圖譜 』(第一巻、第二巻)を刊行。
次いで大正6年(1917年)には
『 台湾蕃族誌(第一巻) 』を刊行。

▶︎ 「 台湾総督府博物館 」(初代館長;川上 瀧弥)
出 典;『 創立三十年記念論文集 』
明治41年(1908年)10月の開館に向け森は準備段階から参加。
ハワイなどの南洋調査にも関わった植物学者の田代 安定とともに尽力。
台湾原住民関連の標本類の多くは丑之助の手で集められたものだった

▶︎ 開館準備をする総督府の職員たち
出 典;『 創立三十年記念論文集 』
写真右から3人目;川上 瀧弥館長、4人目;大島 正満技手、5人目;岡本 要八郎(着帽)
7人目;菊池 米太郎、8人目;島田 彌市技手(着帽)(当該書籍記載引用)
こうした多忙な日々の中で
一つの出逢いが訪れる。
その相手は、この頃既に新進作家として
世に名を知られていた、佐藤 春夫だった。

▶︎ 佐藤 春夫(1892年〜1964年)
出 典;『 谷崎 潤一郎(人と文学シリーズ 現在日本文学アルバム) 』
明治25年(1892年)4月9日 和歌山県新宮市の医家にて誕生。
学生時代から『 明星 』『 すばる 』に投稿。永井 荷風を慕い「 慶應義塾 」入学。
明治末期から昭和中期まで文芸評論、随筆、和歌、童話、戯曲と幅広く活躍した
文壇デビューからわずか1年半。
過剰な原稿依頼に加え、私生活の悩みにも
多大に苦しめられていた、佐藤 春夫。
田園生活をともにした、遠藤 幸子に去られ
その後輩女優である、米谷 香代子と
新たに同棲していたが、実の弟から
彼女との過ちについて謝罪され
1人衝撃を受けていた。

▶︎ 自宅バルコニーでくつろぐ佐藤 春夫(大正14年5月/文京区関口町)
出 典;『 新日本少年少女文学全集14 』
大正7年(1918年)7月15日『 中央公論 』に発表の「 指紋 」には
毎月決まって『 學鐙 』が自宅に送られてくることが記載されている
同じ頃、親友であり且つ
文壇デビューを助け後押ししてくれた
谷崎 潤一郎が妻である千代を軽んじ
密かに彼女の妹を愛していることを知る。
自らの愛する人と兄弟との裏切りにあう
その苦痛を身をもって痛感していた春夫は
何とか千代と語り合いたいと願いつつ
何もすることができず、苦しみが増していた。
結果、極度の神経衰弱へと陥り
新宮の街に一時帰郷。
そこで再会したのが、幼馴染でもある
親友の東 熙市(ひがし きいち)だった。

▶︎ 東 熙市(1893年〜1945)
出 典; 『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』
三重県尾呂志村(現;三重県南牟婁郡御浜町)出身で春夫の中学の同級生。
明治43年(1910年)頃に東京・湯島の下宿で佐藤 春夫と暮らす。
東京歯科医学専門学校(現;東京歯科大学)卒業し歯科医院を開業
上京したての頃、湯島の下宿で
佐藤と同居していた東は
いまは歯科医となって台湾へと渡り
打狗(現;高雄)で歯科医院を開業。
建物を新築した関係で
その資金集めのため、一時帰国中だった。
佐藤の辛く苦しい胸の内を聞くや否や
快活な東は、台湾に来るよう熱心に誘った。
興味を持った佐藤は旅行バッグに
荷物を詰め込みすぐに出発。
7月6日基隆に無事到着し
ここから約2ヶ月間
佐藤は打狗にある東の家に
滞在することになった。
この間、佐藤は福建省にも足を伸ばし
約2週間、滞在厦門・漳州をなどを訪れ
近代化へと向かう中国を体感。
また、東が「 台湾総督府博物館 」で
佐藤に引き合わせた、森 丑之助作成の
旅行計画に沿って、9月中旬から2週間
霧社〜能高山〜彰化〜鹿港〜台中〜
台北と台湾縦断旅行を行った。

▶︎ 森 丑之助が佐藤のために作成した「 台湾島旅行日程表 」(部分)
出 典;『 佐藤春夫宛森丑之助書簡 』
途中、蕃人(原住民族)の反乱が発生し
鎮圧隊が次々集結する場面にも遭遇。
佐藤はその時、奇妙な光景を目にした。
顔面に刺青がある紛れもない現地女性が
なぜか和服を着て、現地の男たちに
何やら大声で号令している。
山中での異様なこの光景は
佐藤の脳裏にいつまでも焼きついて
なぜか離れることはなかった。

▶︎ 『 台湾蕃族圖譜 第一巻 』( 大正4年9月28日発行)
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション
佐藤は打狗から日月譚、霧社などの山地を回って台北に到着するまでの間
森 丑之助が大正4年に発行した『台湾蕃族誌』を携行し読み進めた
その後、10月1日から15日までの約半月を
台北の丑之助の自宅でゆっくりと過ごし
2人は友誼を深め、佐藤は帰国の途についた。

▶︎ 「 台湾地方自治制創始記念絵葉書 」(大正9年10月1日発売)
出 典; 『 日本記念絵葉書総図鑑 』
佐藤の旅行中に発売された 「 台湾地方自治制創始記念絵葉書 」(2枚組の1枚)
当時の台湾は田 健治郎総督と下村 宏総務長官のもと、文化的同化政策を展開。
佐藤は下村(絵葉書下の人物)の保護を受けつつ台湾の危険な山中を旅し
訪れる各所で日本が掲げる「同化政策」の矛盾を次々と目にしていく
小田原御幸の浜付近に暮らしていた
谷崎 潤一郎を訪ねた。

▶︎ 旧制第一高等学校時代の谷崎 潤一郎(前列左から2人目)と新渡戸 稲造校長
出 典;『 谷崎 潤一郎(人と文学シリーズ 現在日本文学アルバム) 』
新渡戸は丸善3代目社長・小柳津 要人の長男 邦太の妻・信子(のぶ)の叔父であり
彼の盟友・内村 鑑三の妻・静子は、私の高祖母(旧岡崎藩士)の姪にあたる
家には千代と妹のせい子がいた。
谷崎は妻・千代がいながら
せい子のエキゾチックな風貌と
自由奔放な性格に惹かれて
彼女を女優にしようと夢中だった。
時に谷崎35歳、せい子15歳である。

▶︎ 「 葉山 三千子 」の芸名で銀幕デビューした小林 せい子
出 典;『 俳優名鑑 大正11年度 』
デビュー作は大正9年(1920年)の映画「 アマチュア倶楽部 」
この作品は谷崎の書き下ろしシナリオによるものだった
谷崎はせいに求婚するつもりで
佐藤に千代との再婚を勧める。
かねてよりの秘めた思いもあり
佐藤は喜んでこの申し出を受け入れた。
ところがせいへの求婚が不調に終わった谷崎は
突然12月4日に前言を撤回。
怒った佐藤は近所の旅館「 養生館 」に潜伏。
一度は谷崎が詫びて和解したものの
谷崎は佐藤が事件を作品化する危惧を抱き
「 ゴマカシの和解 なら真っ平だ 」と警告。
佐藤は谷崎と絶交し、9年もの間連絡を断つ。

▶︎ 谷崎 潤一郎と長女・鮎子(大正9年8月/小田原十字町)
出 典;『 谷崎 潤一郎(人と文学シリーズ 現在日本文学アルバム 』
ちょうど佐藤との「 小田原事件 」が起きた頃に撮った1枚。
心なしかどこか疲れきっているような表情に見える

▶︎ 佐藤が詠んだ「 秋刀魚の歌 」(全文)
出 典;『 谷崎 潤一郎(人と文学シリーズ 現在日本文学アルバム 』
「 小田原事件 」後に佐藤が自らの胸の内を謳った作品
世に「 小田原事件 」といわれた
この一件から9年。
絶好状態になった2人はついに和解。
佐藤と千代はめでたく結ばれる。
昭和5年(1930年)のことだった。
しかしながら、きっと誰よりも
佐藤の幸せを喜んでくれたであろう
丑之助はこの世にもういなかった。

▶︎ 千代が佐藤に贈った娘時代の写真
出 典; 『 佐藤春夫読本 』

▶︎ 千代が帯留に使っていた「 蜻蛉玉 」
出 典; 『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』
彼らは結婚式の結納品として神聖な「 蜻蛉玉 」を用いる習慣がある。
佐藤も丑之助からもらった大切な逸品を愛する千代に贈ったのかもしれない
台北で佐藤を見送って数年。
順調な人生を送っていると思われた
丑之助に一体何があったのだろう。
時間を少し巻き戻してみる。
大正12年(1923年)9月 1 日
正午近くの11時58分に起こった
未曾有の大震災により丑之助は
自邸に大切に大切に保管してあった
未刊の原稿類や台湾原住民関連の
貴重な資料の全てを失った。
なぜ長く暮らす台湾ではなく
東京に資料があったのか。
それには深い訳があった。

▶︎ 森 丑之助最後の住所地「 旧麻布区 」の地図
出 典;『 東京市及接続郡部地籍地図 』上巻
赤印が丑之助最後の住所となった「 旧麻布区櫻田町77番地 」付近。
青印はともに台湾調査をした鳥居 龍蔵が暮らしていた「 麻布霞町21番地 」
赤印左隣の神社マークが「 櫻田神社 」(現;港区西麻布3-2-17)
地図中央「 北日ヶ窪町 」界隈は2003年から「 六本木ヒルズ 」が建設
『 台湾蕃族誌 』の続刊となる
2巻から10巻までの刊行。
並びに既に2冊発行し、佐藤も興味を持って
台湾の旅路で読んでくれた
『 台湾蕃族圖譜 』続編の写真集。
これらの発刊は丑之助の大きな目標だった。
しかしながら研究発表を応援してくれた
内田 嘉吉が総督府を去ってしまったこと。
思うように資金が整わなかったこと。
ほかさまざまな政治的な事情もあり
台湾での続刊発行が厳しいとわかり
彼は最後の砦として故郷である
日本へと貴重な資料を持ち帰り
必死で出版依頼をしていたのだった。

(明治43年5月竣工/設 計;佐野 利器博士)
祖父・清彦入社3年後に建てられた「 丸善本社赤煉瓦ビル 」
4階建・エレベーター付きの日本初煉瓦造りの鉄筋ビルだった
「 3巻くらいであればまだ良いが
10巻では売れる見込みがないから 」
どこもこうした見解で
引き受けてはもらえず。
そうこうしている間に

▶︎ 関東大震災により倒壊した明治43年(1910年)竣工の日本橋丸善本社ビル
出 典;『 関東大震災69年:空撮震災前と現代の東京 』
建築構造学者・佐野 利器設計による日本初の鉄骨構造建築も火災熱には耐えられなかった

▶︎ 日本橋「 白木屋 」( 現;「 COREDO日本橋 」 )付近
出 典;『 関東大震災;写真記録 』
「 中に数十人居マス助ケテ下サイ 」と書かれている
灰燼に期した出版計画。
大きな絶望で言葉がなかった。
18歳の時から台湾の地で28年間
「 武器 」ではなく「 情熱 」を掲げ
まだ見ぬ原住民たちの住居地である
「 蕃社 」に入り、恐れることなく
まっすぐな心1つで向き合ってきた日々。
そのうちの10年間は公職につかず
どこにも所属することなく
自分の意志だけで、台湾の村々をくまなく巡り
言葉を学び、台湾研究に従事してきたのだ。
平地でさえ抗日活動が激しかった当時
警察の随行保護も受け付けず
自らの誠意と勇気で得た「 学術成果 」
これほどの超人的なことは
丑之助以外にはなし得ないことだった。
もはやあれほどの資料を再び集めることは
不可能であると思うと残念で仕方がなかった。
人生全てを失ったような大きな絶望だった。
それでも丑之助は諦めなかった。
なぜなら彼にはもう1つの
大きな夢があったからだ。

▶︎ 「 ツォウ族四社蕃の男女 」(撮影;森 丑之助)
出 典;『 台湾蕃族圖譜 第2巻 』
たった1枚の撮影にも長い長い時間を要した「 乾板写真 」
カメラを構える撮影者への信頼の心がなければ写せない1枚
第5代総督に就任するや否や
警察本署の下に「 蕃務課 」を設置。
明治43年(1910年)からは
「 五箇年計画理蕃事業 」を推進し
北部山地でのタイヤルに対し
「 討蕃 」を徹底し武力だけで
「 理蕃 」事業を進めていった。

▶︎ 台湾の人々が暮らす蕃社へ大砲で激烈な掃射を行う日本軍
出 典;『 台湾生蕃種族写真帖 :理蕃状況 』

▶︎ 理蕃政策の1つとして行った「 武器押収 」
出 典 ;『 大正二年討蕃記念写真帖 』
総督府による強引な狩猟用武器の押収が発端となり「 大分事件 」勃発。
丑之助は先住民族への非抑圧的なアプローチと自治権の付与を主張する。
複数ある民族の特質を学んできた「 研究者 」ならではの見識だったが
これに対し耳を傾け心を開いた上官は果たして存在したのだろうか
こうした中、これまでの日本人と
蕃人との関係や「蕃界」の様子は急変。
数年前までは友好だった蕃人たちは
日本人に反旗を翻し敵対していく。

▶︎ 佐久間 左馬太(1844年〜1915年)
出 典;『 近代名士写真 其2 』
全島の蕃人ほとんどが帰順していく中
タイヤル族のシブクン蕃だけは
反抗的な態度を持ち山奥に隠れ続けていた。
丑之助は何度も根気強く交渉を続けたが
佐久間総督の理蕃計画が出てから
友好的だった村々は
敵意を抱くようになってしまった。
また、丑之助自身も日本の政策により
台湾の人々が持ち得る、美しい芸術や
習慣を永遠に葬り去ることは
できないと感じていた。
そこで彼が思いついたのが
「 東埔 」に彼らを移動させ、保護。
その場所を「 蕃人楽園 」とすること。
シブクン蕃もこれに同意した。
心に描いたこの「 蕃人楽園 」の創設も
丑之助のもう1つの大きな夢になった。

▶︎ 「 台湾蕃族分布図 」(大正元年/1912年)
出 典;『 台湾生蕃種族写真帖 :理蕃状況 』
向かって左側が「 帰順度合い 」がわかるよう色分けされている地図。
「 全く帰順セザルモノ」が赤部分で左上から「 北勢蕃 」「太魯閣蕃 」「 シブクン蕃 」
この地図の作成以降、前者2つの蕃社は帰順し「 シブクン蕃 」だけが残ったのだろう
「 台湾総督府博物館 」を去って
『 台湾蕃族誌 』の続巻を刊行すべく
資料の再蒐集にあたっていた。

出 典;大林組公式ホームページ
同社は年間3,000円/3年間で9,000円の
研究支援を申し出てくれていた。
当然のことながら、これは再度調査
研究するための費用であったが
丑之助はやむなくその資金の一部を
「 蕃人楽園 」を創るための費用に
しようとしたのだった。
このことが原因でさまざまな噂を流され
出版する気がないと見做されてしまい
大阪毎日新聞社からの出資は中止。
全てが停止してしまった。
全くの事実無根。丑之助は出版に向けても
着々と準備をし、日々東京帝大と
京都帝大考古学教室を回り
その出版計画を切々と語りつつ
関連資料を出版のために借りたいと
一生懸命に相談していた。
▶︎ 「 慶応義塾大学三田演説館建設50周年記念 」(大正13年5月13日撮影)より
出 典;『 慶応義塾弁論部六十年史 』
大正13年(1924年)夏の巡航演説地を台湾に決めた「 慶応義塾弁論部 」
7月28日 午前9時30分に「 台湾鉄道ホテル 」に到着した、林 毅陸学長
教授2名、部員8名を出迎え、台湾についての話を聞かせたのは、森 丑之助だった
(写真左から5人目;鎌田 栄吉前学長、福澤 一太郎、尾崎 行雄、林 毅陸学長)
これは元々彼が撮影し、帝大に送ったもので
佐久間提督が先頭に立って行った
強引な破壊により失われた台湾の姿を
しっかり収めた「 もう二度とは撮影できない 」
とても貴重な写真だった。
政治的背景、人の悪意、妬み。
さまざまなものが渦巻く中
ありもしない噂を流され、足を引かれ
丑之助の夢は今度こそ本当に消え去った。

▶︎ 多くの台湾原住民たちに愛された森 丑之助
出 典;BIOS 通訊,佛系電子報
「 森さんは伝説に聞く、私たちの祖先の時代の男のようだ 」(高砂族談)
森 丑之助を「 ニッポンの酋長 」だと思っていた人も多くいた
台湾に戻った丑之助は、まるで別人のようだった。
抜け殻のようになり、一日中部屋にこもり
誰ともほとんど口をきかなくなった。
大正15年(1926年)7月3日
洋傘とタオルを持って
「 淡水に海水浴に行ってくる 」
そう言って、1人家を出た。
午後4時、基隆港に到着。

▶︎ 「 日本統治下の基隆の街 」
出 典 ; Wikiwand
この頃、丑之助の自宅では
彼の様子がおかしかったため
心当たりのある友人に連絡をし
その行方を探し回っていた。
深夜、丑之助を乗せた「 笠戸丸 」は
いつもと変わらずゆっくりと
基隆港を出港。
やがて日付けが変わり
甲板にいたたくさんの客人が
各々の船室へと消えていった頃
丑之助は死出の旅路へと向かった。

▶︎ 内台航路「 笠戸丸 」
出 典;『 船跡:ロシア船 笠戸丸 』
「 ウシノスケリヨコオチウシキヨス 」
佐藤のもとに丑之助の令嬢から
電文が届いたのは
8月1日のことだった。
初めてその事実を知った佐藤は
これまでの友誼を思い悲嘆に暮れた。
実は丑之助が台湾へと戻る
5月〜6月初頭の20日間ほど
小石川の佐藤の家に
丑之助が滞在していたのだ。

▶︎ 『 女誡扇綺譚 』第一書房
出 典;国会図書館デジタルコレクション
丑之助が亡くなる5ヶ月前に上梓された作品の巻頭部分。
下村 海南(宏)と森 丑之助(丙牛)への献辞文を掲げた
戸籍上はまだ生きている丑之助の葬儀が
台北の葬儀堂で開催された8月。
1冊の雑誌が発行された。
その中に「 生蕃の実状 」という
タイトルで4ページにわたっての
丑之助の寄稿が掲載された。
生蕃の研究を志してから今日まで
台湾の山奥を峯から峯に移り住み
ずっと仕事をしてきたこと。
台湾の人々には美しい習慣や
優れた芸術があり
滅びゆく種族とともに
それらが失われるのは残念であること。
世間では生蕃についての理解が全くなく
とんでもないことが伝えられていること。

▶︎ 別の種族同士で結婚した「 関野ゆき子 」と「 冨樫 勘平」を紹介
出 典 ;『 婦人之友 』
パイワン族の総統目・タイモミツセルの孫娘「 ゆき子 」(日本名)
彼女の祖父は明治30年(1897年)複数名の酋長とともに東京を訪問。
その時開催された「 歓迎会 」の席上で子爵・渋澤 栄一の演説に答礼した
20巻の原稿にまとめた調査資料が
地震で全て灰になってしまったが
もう一度出版に向けて
挑戦しようと思っていること。
その意気込みに加え、こうも書かれていた。
「 財力の乏しい私にとつていつもそれを
公にするといふことについては
販売者の手を待つことになり
どうかして広く生蕃の紹介をしたいとだけ
望んでいる私とは立場が違ふことから
いろいろと思うようにできない
困難を感ずるのでございます 」
( 森 丑之助 「 生蕃の実状 」より抜粋 )

▶︎ 幻となった『 台湾蕃族圖譜 』(織物ノ部)』目次案
出 典; 『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』
出版に至らなかった状況を
冷静に捉えた上で
こんな風に締め括っている。
「 しかし今度は集められるところまで集めて
まとまらないものなら、出版はできなくても
どこかの博物館に原稿のまま
寄贈しようと 心に決めています。
いつかは興味をもつてくださる方の
目に触れるのを待つことができようと思っています 」
( 森 丑之助「 生蕃の実状 」より抜粋 )


▶︎ 同じ時代を台湾総督府で生きた、植物学者・佐々木 舜一の弔辞
出 典;『 台湾博物学会会報 (16)(86) 』
丑之助亡き後も、佐藤はあの日の台湾に
インスピレーションを受けたであろう
数多くの台湾関連作品を発表。

▶︎ 高村 光太郎が描いた「 佐藤 春夫像 」
『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』
文学を志して上京したものの思うような作品が残せず
行き詰まった頃の佐藤の姿を詩人で彫刻家の高村が描いた
『 黄伍娘 」『 星 』『 日月潭に遊ぶの記 』
『 蝗の大旅行 』(大正10年/1921年 1月〜9月)
『 鷹爪花 』(大正12年/1923年8月)
『 植民地の森 』『 魔 鳥 』(大正12年/1923年10月)
『 女誡扇綺譚 』(大正15年/1926年2月)
『 奇談 』(昭和3年/1928年1月)
『 霧 社 』(昭和11年/1936年7月)

▶︎ 「 佐藤春夫の台湾旅行工程図 」
出 典;『 女誡扇綺譚 』
私が人生で唯一「 海外一人旅 」をしたことがあるのが「台湾 」(台北・九份)
以来次回の台湾旅は電車を複数乗り継ぎ台湾島を1周したいと思っていたが
今回の丑之助との「 出逢い 」で佐藤の台湾小説集が「 旅の友 」として決定
この中の『 奇談 』を読んだ際
佐藤が刻んだ「 文字 」を介し
作品の中に永遠に生き続ける
大正9年の丑之助の面影を感じ
いままさに自分が丑之助と向き合い
話をしているような錯覚に陥った。
そして読み進めて、涙が溢れた。
この作中に登場する「 主人 」は
紛れもない、丑之助その人だという
確証を掴んだから。
蕃人からもらった貴重な蜻蛉玉。
命を助けてあげた頭目の話。
名前も学術名もない「 朝顔 」の花。
最後に出てくる12歳のかわいい少女は
丑之助のお嬢さんである
富美さんではないかと感じた。
丑之助亡き後に、発表された当該作品。
最後に消えてしまった美しい「 虹 」
どんな思いで佐藤はペンを走らせたのだろう。

▶︎ 『 霧 社 』(昭和11年/1936年7月)
『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』
作中にはあの日台湾で佐藤が目にした着物を着た奇妙な現地女性が登場する。
その後実際に起きる「 霧社事件 」のきっかけとなった人物の悲しい事実。
丑之助が生きていたならこんな悲しく辛い大事件は起きなかっただろう
昭和38年(1963年)8月に発表した
最後の台湾作品『 誘われて台湾 』には
遠いあの日、東 熙市の誘いから始まった
懐かしい「 台湾旅 」を振り返るとともに
お世話になった丑之助の人となりを
こんな風に書き残している。
「 言葉にふるさとの京なまりがあり
片足は不自由らしく跛行していたが
見かけによらない豪傑で
身に寸鉄も帯びないで
蛮山を横行して蛮人たちからは
日本の酋長であろうと
噂されている人であった 」
( 佐藤 春夫著 『 誘われて台湾へ 』より抜粋 )
佐藤は丑之助の人柄をこう懐かしく振り返り
彼が作成してくれた旅行日程と
関係各所に一生懸命手配してくれた
数々の細やかな配慮とやさしさがあって
総督府の客人のような高待遇を受け
興味深い台湾を安全にくまなく
見学してまわることができた
「 幸福な一夏 」だったと記した。
自らの30年間の人生をかけて
頑張ってきた「 心 」が報われず
シブクン蕃の人々との約束も守れず
極度の鬱状態に陥りつつも
残された人生最後の力を振り絞って
懐かしい佐藤の元を訪ねた、丑之助。
彼もまた佐藤といる瞬間だけは
台湾でのあの「 幸せな一夏 」を
感じていたのかもしれない。

▶︎ 「 百年の旅びと——佐藤春夫1920台湾旅行文学展 」
出 典;台湾国立文学館公式ホームページ
佐藤 春夫の渡台から100年後の2020年、台南にある「 国立台湾文学館 」にて
台湾初の「 佐藤春夫展 」が開催された。100年後のここから当時に思いを寄せ
「 旅行 」「 探究 」「 芸術 」「 生命の意義 」を再発見しようしたこの素晴らしい試み。
台湾の植民地社会に対し問題提起をした、佐藤の旅行文学の魅力が改めて評価された

▶︎ 「 台湾総督府博物館 」(1908年10月24日設立)
設計;野村 一郎、荒木 栄一(助手)
出 典; 国立台湾博物館公式ホームページ
台湾縦貫鉄道開通記念(10月24日開通式)で 創設された「 台湾総督府博物館 」
公式ホームページの「 本館 」を紹介するトップ記事の文章にこう書かれている。
「 展覧会と博物館の準備作業は森丑之助が担当しました 」

▶︎ 「 国立台湾博物館 」(1988年/国定史跡)
出 典; 国立台湾博物館公式ホームページ
丑之助の人生と努力の結晶とが静かに眠る「台湾総督府博物館 」は
現在「 国立台湾博物館 」と名称を変え彼があの日あの瞬間感じた
驚きと発見を世界中から訪れるたくさんの人々に伝え続けている
< 編 集 後 記 >
行方不明を伝えられていた「 蕃通 」の森 丑之助氏が
7月4日、内台航路「 笠戸丸 」から投身自殺したと
現地の『 台湾日日新報 』が伝えたのは
大正15年(1926年)7月31日のことでした。
遺留品は、わずかに靴・タオル・時計・洋傘だったこと。
遺族や知己が基隆まで遺留品等の確認に訪れ
本人のものと相違なかったことなどが記載されていました。
彼と親しかった人、残念ながらそうでもなかった人。
記録に残っているほとんどの人々が
一様にして口を揃えたのは、森 丑之助氏が
「 台湾蕃人研究 」と「 植物研究 」並びに
「 台灣総督府博物館 」創設のために
多大なる貢献をしたということでした。
その中でもっとも目を引いた追悼文は
同氏の蕃族に対する見識の高さを伝えた
「 岡本 要八郎 」という鉱物学者のものでした。

▶︎ 「 台湾総督府博物館 」の地質鉱物室にて(写真右手;岡本 要八郎 )
出 典;『 創立三十年記念論文集 』
明治9年(1876年)1月13日 旧西尾藩士・岡本 多丸の八男として愛知県・西尾の地に誕生。
実兄・武藤 針五郎(岡本 多丸の五男)は「 芝山巌事件 」で絶命した 関口 長太郎の友人。
明治28年(1895年) 関口と武藤は2人で渡台。彼も「 台湾総督府 」の職員として働いた
出 典 ;『 職員録 大正10年 』(印刷局編)
どんなに頑張っても資格がなかったため「雇 」から「 本官 」にはなれなかった。
そのことで何度も何度も辛酸を舐めた丑之助氏のその「 心 」を思うと胸が傷む
彼は「 芝山巌事件 」で虐殺された
六氏先生の1人・関口 長太郎先生が
まだ、西尾尋常高等小学校長だった
明治28年(1895年)4月に
新任教師として同校に赴任した人物。
数年後、渡台する彼ら2人と入れ替えで
同校の校長へと着任したのが
私の曾祖父・五十嵐 有躬(ありちか)でした。
「 台灣総督府博物館 」で丑之助氏と
ともに働く親しい同僚であったこと。
丑之助氏が自らの研究資料を東京へと携帯し
切なる思いで訪れていたこと。
そして何よりも1番に驚いたことは
丑之助氏が私のご近所の人だったこと。
私が人生のほとんどを過ごし暮らす
この街に彼の人生最後の住所地があり
100年という「 時 」の違いはあれど
おそらくあちこち同じような場所を
歩いて行き来していたことに
言葉を失い、不思議な縁を感じた次第です。
人生に失望し、五島沖で海の藻屑と化した、丑之助氏。
ずっとその「 心 」を救ってくれる人を待ち続け
没後100年を目前にさまざまな部分で繋がりがあった
私を偶然近所で見つけ、どうか自分に気づいてくれと
必死に声をあげたのかもしれません。
99年という、長い時を要してしまいましたが
あなたの辛く口惜しかった、心の叫び
「 いま 」という時を生きる、縁ある私に届きました。
蕃人研究に生涯を捧げた森 丑之助氏は
「 一兵も用いず、一人も殺さず 」
台湾に長く暮らしてきた人々の心に直に触れ
彼らの紡いできた人生を尊重しながら
新しい「 文化 」に馴染んでもらおうとした
心やさしき人物だと私は思っています。
没後100年に向け、1人でも多くの方に
森 丑之助の台湾にかけた情熱を知っていただき
「 なにか 」を心に感じていただければ幸いです。
令和7年(2025年)7月20日
丸善の小さな応援団長
マルゼニアン
< 参考文献 >
『 幻の人類学者森丑之助:台湾原住民の研究に捧げた生涯 』
楊南郡 著 笠原 政治 宮岡 真央子 宮崎 聖子編訳 風響社/2005年7月
『 台湾原住民族研究の足跡 』笠原 政治著 風響社/2022年2月
『 台湾蕃族圖譜 第1巻 』臨時台湾旧憤調査会編 /1915年
『 台湾蕃族圖譜 第2巻 』臨時台湾旧憤調査会編 /1915年
『 台湾博物学会会報 第三年 』台湾博物学会編/ 1913年10月
『 台湾博物学会会報 (16)(86) 』台湾博物学会編/ 1926年10月
『 台湾博物学会会報 (16)(87) 』台湾博物学会編/ 1926年12月
『 台湾原住民研究 』日本順益台湾原住民研究会 風響社/1997年10月
『 明治の冒険者たちーー新天地・台湾にかけた夢 』柳本 通彦著 新潮社/2005年3月
『 日本古書通信 第26巻第1号 』日本古書通信社/1961年1月15日発行号
『 椰子の葉陰 』川上 瀧弥著 六盟社/1915年5月
『 台湾史小事典 』遠流台湾館 編著 監修・呉 密察 編訳・横澤 泰夫 中国書店/2010年
『 南方文化=Tenri Bulletin of South Asian Studies 』1997-11 天理南方文化研究会
『 生誕130周年 知られざる佐藤春夫の軌跡 ー秘蔵資料をよむー 』 河野 龍也 編著
( 実践女子大学・新宮市立佐藤春夫記念館 包括連携協定締結記念)2022年10月8日
『 佐藤春夫読本 』辻本 雄一 監修 河野 龍也 著勉誠出版/2015年10月31日
『 新日本少年少女文学全集14 』田中 豊太郎著 ポプラ社/1958年
『 郵便が語る:台湾の日本時代50年史 』玉木 淳一著 日本郵趣出版 /2021年2月
『 日本記念絵葉書総図鑑 』島田 健造著 日本郵趣出版/1985年10月
『 新渡戸稲造(さっぽろ文庫:24) 』札幌市教育委員会文化資料室/1985年9月
『 創立三十年記念論文集 』台湾総督府博物館 台湾博物館協会/1939年
『 佐藤春夫宛 森丑之助書簡 』新宮市佐藤春夫記念館/2003年
『 日本商業学校一斑 』永野 耕造 編 /1906年1月
『 鳥居龍蔵傳 徳島郷土叢書(10)』 岸 積 著 徳島県教育出版物/1966年
『 鳥居龍蔵の見たアジア:徳島の生んだ先覚者 』 徳島県立博物館/1993年
『 ある老学徒の手記 : 考古学とともに六十年 』鳥居 龍蔵著 朝日新聞社/ 1953年
『 日本考古学史資料修集成 3 』斎藤 忠著 吉川弘文館/ 1979年11月
『 高等小学校地理新指導書 巻2 』市川 三千蔵著 東洋図書/1937年至1939年
『 躑蠋・皐月・石楠花 』田村 輝夫、写真;富成 忠夫 ほか 講談社/1974年
『 講談社 園芸大百科事典 :フルール5(夏の花 1) 』講談社/1980年7月
『 花の歳時記 別巻2 〔アメリカ/アジア/オセアニア) 』小学館/1983年4月
『 谷崎 潤一郎(人と文学シリーズ 現在日本文学アルバム 』学習研究社/1980年
『 俳優名鑑 大正11年度 』キネマ同好会/1922年
『 関東大震災;写真記録 』森田 峰子編 図書刊行会/1980年8月
『 関東大震災69年:空撮震災前と現代の東京 』毎日グラフ別冊 毎日新聞社/1992年
『 東京市及接続郡部地籍地図 上巻 』東京市区調査会/1912年
『 東京市麻布區全圖明治二十九年一月調査 』東京郵便電信局 北畠 茂兵衞 1896年5月
『 台湾生蕃種族写真帖 :理蕃状況 』成田写真製版所/1912年
『 大正二年討蕃記念写真帖 』台湾日日新報社/1913年
『 地学研究 12(2/3)』 日本地学研究会 編集・監修/1961年4月
『 船跡:ロシア船 笠戸丸 』藤崎 康夫著 時事通信社/1983年5月
『 詩文半世紀 』佐藤 春夫著 読売新聞社/1963年
『 新台湾の人々 』 宮川 次郎著 拓殖通信社/1926年
『 女誡扇綺譚 』佐藤 春夫著 第一書房/1926年
『 學 鐙 』 47巻12号 丸善株式会社/1943年

クレジットなきものは筆者私物