時は明治20年代。
このころの日本橋界隈は
竹久 夢二関連本で
人気を博した「 春陽堂 」
大橋 佐平の「 博文館 」
徳富 蘇峰の「 民友社 」と
出版の中心街としての賑わいがあった。

▶︎ 「 鉄道馬車が走る日本橋界隈 」
明治15年( 1882年 )6月25日に開通した「 東京鉄道馬車 」
新橋ー日本橋の間を結び営業を開始した

多くの店員が入社から3年間は店の隣の宿舎で仲間たちと寝食をともにした。
毎食欠かさず食卓に並んだのはひき割り麦のご飯と岡崎八丁味噌のお味噌汁。
「 国民病 」といわれた脚気に麦が効果的だと正式に発表されたのは明治末期。
それ以前からいち早く麦入りのご飯に変えていた丸善の先見性には目を見張る
このころの丸善新入社員の中に
田中 二郎という人物がいる。
明治から昭和前半にかけ
日本橋丸善の「 顔 」として
数多の知識人たちに愛された
知る人ぞ知る丸善人である。

▶︎ 丸善社員・田中 二郎
( 大正5年1月撮影/44歳のころ )
明治5年( 1872年 )東京生まれ、明治21年( 1888年 )丸善入社。
英語に堪能で数多くの文人・知識人たちに愛された
彼が丸善に入社する
ちょうど1年ほど前のこと。
店の前に佇み、中の様子を
そっと覗き込んでは
互いに話し合う
2人の少年の姿があった。
これは今日が初めてのことではない。
兄弟と思しき彼らの見つめる先には
丸善の番頭・小柳津 要人の姿があった。
少年たちは同じ学校に在籍する
小柳津 邦太君のお父さんが
丸善の番頭さんと知り
こっそり覗き見しにきたのだった。
これが少年たちと
丸善との最初の出会い。
疎らな頬髭を生やした
なんとも上品な紳士の姿は
まだ幼い少年たちの心に強く残った。

▶︎ 小柳津 要人( 1844〜1922 )
出 典;『 小柳津要人追遠 』
大学南校、慶應義塾で学び、明治6年 ( 1873年 )横濱丸善商社入社。
大阪支店支配人、東京本店支配人を経て、明治33年丸善3代目社長となる
小柳津の長男である邦太および
少年たちの通う学校は
神田淡路町にあった
「 共 立 学 校 」
( きょうりゅうがっこう )
明治4年( 1871年 )に 旧加賀藩士の
佐野鼎たちが中心となり
創立した学校だった。

▶︎ 「 創立当時の共立学校 」( 明治 7年/1874年1月撮影 )
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション
2階左より5人目が創立者の佐野 鼎
遡ること約10年前の
万延元年 ( 1860年 )1月18日に
小栗忠順、木村 喜毅、勝 海舟
肥田 浜五郎( 肥田 昭作の義父 )
小野 友五郎、福澤 諭吉ら
総勢77名の武士たちが
アメリカへと渡った
「 万延元年遣米使節 」

▶︎ 「 写真館の少女とともに 」
ウィリアム・シュー - 慶應義塾大学福沢センター所蔵
「 万延元年遣米使節 」でアメリカに渡った福澤 諭吉が
15歳の少女・Theodora Alice と撮影した写真
そのメンバーだった佐野 鼎は
紐育( ニューヨーク )で目にした
学校光景が忘れられずにいた。

▶︎ 佐野 鼎( 1829〜1877 )
出 典;東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像
駿河国( 現;静岡県 )出身の郷士。
高島 秋帆からオランダ式西洋砲術を直接学び
長崎海軍伝習所第1期生として勝 海舟らと航海術などを習得。
加賀前田藩に召し抱えられ、2度西欧へと渡る
佐野の心を掴んだのは
聾学校での教育法や
盲学校の点字書籍の数々。
人々が等しく教育を受ける姿に
1人心が躍動した。
一流の西洋砲術を学び、航海術を習得。
海防・国防のため、仕官する藩のため
ただひらすらに走り続けてきた男が
これからは「 人間教育 」こそ
世の中でもっとも大切なことなのだと
言葉なく気付かされた瞬間だった。
明治以降、陸軍の造兵司頭
( 兵部省所属;兵器製造を行う部署 )
となった佐野だったが
全てを捨て去り、政府から退いた。
そして、親しくしていた2人の人物に
英語学校創立の相談を持ちかけた。
佐野の考えに賛同したのは
旧加賀藩御用商人の辻 金五郎と
加賀藩出入の米仲買人・茅野 茂兵衛。
3人は話し合いの上
神田淡路町の空地 1万坪を購入し
1,000坪の校舎を建てた。
そうして明治4年( 1871年 )に
誕生したのが「 共立学校 」だった。
人の運命とはわからぬもの。
「 新しい教育 」への情熱を燃やす
“ これからの佐野 ” を襲ったのは
明治10年代に猛威を振るったコレラ。
学校設立からわずか6年。
佐野 鼎は帰らぬ人となった。

▶︎ 『 幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像 』
( 宇神 幸男 著/現代書館 刊 )
佐野 鼎をコレラと診断したのは、津山藩医 石井 宗謙の子息・石井 信義。
彼は福澤 諭吉が学頭を努めていた時の「 適塾 」の生徒の1人。
その誠実な人柄と学才を福澤は愛し2人は亡くなるまで親しく交流した。
妻・愛子は福澤 諭吉の義妹、シーボルトの孫・楠本 高子は義母妹にあたる
彼亡き後の「 共立学校 」は
一時廃校寸前に追い込まれたが
大学予備門の教壇に立っていた
24歳の高橋 是清が立ち上がり

▶︎ 高橋 是清( 1854〜1936 )
出 典;『 近世名士写真 其1 』
アメリカのヘボン塾( 現;明治学院 )で学んだ後
藩命により勝 海舟の子・小鹿とともに米国に留学。
桑港で知遇を得た森有礼のすすめで文部省に入省。
日銀総裁を経て第20代内閣総理大臣に就任した

▶︎ 「 東京開成中学校卒業記念写真帖 」

▶︎ 「 丸善社員 五十嵐 清彦の子・順三の精勤賞状 」
この後 旧制静岡高校を経て東京大学へと進学した順三。
口数は少ないがいつも笑顔で穏やかだった彼は仲間たちから愛された
高橋 是清の下宿先の主人が
在りし日の佐野 鼎を助け
「 共立学校 」をともに創立した
茅野 茂兵衛だったこともあり
今日へと無事に繋がった
「 学びの場 」と 佐野 鼎の「 志 」

▶︎ 「 開成中学校・高等学校校旗 」
(「 東京開成中学校卒業記念写真帖 」より )
「 共立学校 」創立時のもう1人の立役者である
辻 金五郎はこの10年後、福澤人脈であり
丸善社中の杉本 正徳、鈴木 駅路 ( 駅次 ) 穂積 寅九郎ら
旧豊橋藩士( 吉良吉田藩士 )の面々とともに
秋田 「 小真木鉱山 」の開拓へと乗り出していく。

▶︎ 「 小真木鉱山会社幹部一同 」
出 典;『 尾去沢・白根鉱山史;近世銅鉱業史の研究 』
福澤人脈・杉本 正徳を筆頭に丸善社中で乗り出した鉱山投資。
小柳津 要人を丸善に紹介した穂積 清軒その弟・寅九郎は前列左から6番目。
この写真の前列に「 共立学校 」を創立した辻金五郎も写っている
あの日同窓生である小柳津君のお父さんを
日本橋丸善までこっそり覗き見しにきた
2人の少年の兄は「 共立学校 」を卒業後
東京一致英和学校( 現;明治学院 )を経て
東京朝日新聞の記者・山本 笑月となり
文芸部長、社会部長を務めた。
弟は 7〜8年後、東京法学院( 現;中央大学 )の
学生として丸善を訪れ、小遣いを節約しては
興味のある書籍類を何冊も購入した。
卒業後は、陸 羯南率いる「 日本新聞社 」へ。
その後、入社した「 大阪朝日新聞社 」で
「 長谷川 如是閑 」というペンネームをもらい
大正元年から「 天声人語 」を担当。

▶︎ 長谷川 如是閑( 1875〜1969 )
出 典;『 画報日本近代の歴史 8 』
東京・深川出身のジャーナリスト・評論家。
父・徳次郎は浅草に「 花屋敷 」( 現;花やしき )を開業。
大正デモクラシーの代表的論客として知られる
大正4年( 1915年 )からは
「 夏の甲子園 」の前身である
「 全国中等学校優勝野球大会 」を
社会部長として企画創設した。

▶︎ 「 全国中等学校優勝野球大会 」第1回決勝
京都二中( 現;鳥羽 )対 秋田中( 現;秋田 ) 於;大阪豊中グラウンド
出 典;朝日新聞DIGITAL
第1回は10校が参加し大正4年( 1915年 )に開催、まだ甲子園球場はなかった。
米価が暴騰し米騒動が起きた大正7年 ( 1918年)地方大会を勝ち抜いた
14校が大阪入りしていたが、大会は幻と消えた
長きにわたって日本橋丸善を愛した
長谷川 如是閑こと、長谷川 萬次郎。
彼が店頭に足を運ぶと
いつも「 おいでなさい 」といって
温かく迎えた店員がいたという。
その人物こそ冒頭で紹介した
明治から昭和を丸善で生き
文人・知識人たちに愛された
あの田中 二郎である。
小柳津君のお父さんを見に行った
長谷川 如是閑の懐かしい記憶。
そこから60年間に渡り続いてゆく
丸善との大切な思い出の中に
「 田中 二郎 」という1人の人物が
永遠( とわ )に生き続けていたことを
いまこの場を通じて
遠くの二郎さんに伝えたい。

▶︎ 丸善日本橋本店の社員たち( 大正11年頃撮影 )
左より)池上 鉱次郎、五十嵐 清彦、後藤 新吉、斎藤 哲郎、佐々 弘文
三宅 利夫、大塚 金太郎、田中 二郎、川村 善之助、金澤 末吉
< 編 集 後 記 >
明治の昔、丸善が鉱山投資をした事実を追い求める途中
「 辻 金五郎 」という加賀藩にゆかりある人物を知り得ました。
真っ暗な道なき道を手探り状態で歩んだ先に見えてきたのは
その人物が「 共立学校 」の創立メンバーだったこと。
そしてその弟君が丸善にとって重要な存在である内田 魯庵と
同じ「 集古会 」に所属していたこと。
また、旧丸善社員・五十嵐 清彦の伯父も
「 集古会 」のメンバー且つ開成中学校に
ゆかりある人物であったことがわかりました。

▶︎ 「 共立学校 」で高橋 是清から英語を学んでいた南方 熊楠
出 典;『 学界偉人南方熊楠 』
丸善社員・内田 魯庵などが編集していた集古会発行の雑誌『 集古 』に
清彦の伯父等とともに寄稿していた南方熊楠も 「 共立学校 」出身者
帝国大学文科大学(現;東京大学)漢学科を卒業したのち
明治末期に開成中学校の分校だった「 第二開成中学校 」
(現;逗子開成中学校)の教員となった「 彼 」は
明治43年( 1910年 )1月23日、生徒12名が命を失うという
あの悲しい「 七里ガ浜ボート遭難事故 」に直面しました。
遠い時を超え、初めて知るあまりに傷ましい水難事故の事実。
ひたすら無事を祈り夜を明かす父兄たちの姿、奔走する教員たち。
夜を徹して捜索を続ける警察と地元消防団の姿。
その様子はまるで昨日起きた出来事のように
私の脳裏に浮かんでは消え消えては浮かび
いつまでもいつまでも心を揺さぶり続けました。
たとえ時が100年経とうが200年経とうが何も変わらない。
「 その日 その時 その瞬間 」を共有した者の血族にとって
心の悲しみ苦しみに決して終わりはないのだと感じた瞬間でした。
この悲しい出来事をいま敢えてここでいうべきか。
自分勝手に歴史を掘り返して良いものなのだろうか。
100年以上経っているとはいえ幾度も幾度も迷いましたが
かつては姉妹校だった「 開成中学校・高等学校 」が
令和3年( 2021年 )創立150周年を迎えるにあたり
“ 開 成 ” を学舎に選び、これからの人生を送る方々に
どうか安全で幸せな学校生活を送って欲しいと切に願い
いまこの真情を吐露することにした次第です。

▶︎ 歴代校長の肖像画が並ぶ「 東京開成中学校 」の校内
(「 東京開成中学校 」卒業記念写真帖より)
右より)初代校長;高橋 是清、鈴木 知雄、田邊 新之助
橋 健三( 三島 由紀夫祖父 )宮本 久太郎、黒田 英雄 筆者推測
開成中学校にゆかり深い田邊 新之助先生と
同じ時代に同じ漢学者として生き
ともに情熱を語り合い
同じ学校の教壇に立った「 彼 」
その人生といま向き合いともに歩むことで
命を失った12名の大切な生徒たちと
深い悲しみの中、必死で生きていくしかなかったご家族
および “ いま ” という時代をどこかで生きていらっしゃる
末裔の方々の心にそっと寄り添いたいと思います。
令和2年5月31日
丸善の小さな応援団長
マルゼニアン

▶︎ 「 東京開成中学校創立70周年記念式場 」
( 昭和16年11月1日/撮影;五十嵐 順三 )
ペンに剣の校旗の上に掲げられた肖像画は「 佐野 鼎 先生 」
開成学園は佐野亡き後も創立者への敬意を忘れることはなかった

▶︎ 上記写真裏に走り書きされた文字
遠い昔の古い家族も創立者・佐野 鼎 の「 志 」を知り得て
いまの私同様にその歴史と伝統に感動したのかもしれない

▶︎ 「 小学校時代の恩師・仲間たちと 」
写真2列目左より)大内 輝夫(千葉中学校;県立千葉高校)川辺 正二(安田商業;安田学園)
写真1列目左より)五十嵐 順三(開成中学校)林田 信治先生 髙尾 浩一(千葉中学校;県立千葉高校)

▶︎ 時計台のある「 東京開成中学校 」の校舎
(「 東京開成中学校 」卒業記念写真帖より )
大正12年( 1923年 )9月1日に起きた関東大震災により神田淡路町の校舎は消失。
大正13年( 1924年 )現在の道灌山(荒川区西日暮里)の地に移転した
