わざわざ案内をして理由もなく中止す。
驚ろくべき無責任なり」
それから4年後のことだった。
数々の賞牌を受けると同時に、巷に出回る
「類似品」に頭を悩ませ始めていた。
▶︎ 丸善インキ「賞牌」の数々
出 典;『丸善百年史』丸善株式会社(昭和55年発行)
それまで「洋物卸部」の管轄にあった
気持ちも新たに、今後より一層
自社製「インキ」と「墨汁」の大口卸売に
力を入れようと効果的な宣伝活動を模索していた。
昭和12年(1937年)
当時、日本の民間航空事業が諸外国と比較し
大きな遅れを取っていることに
焦りを感じていた「帝国飛行協会」は
逓信省と組み、あるキャンペーンを仕掛けた。
「切手一枚 輝く航空」
▶︎ 「切手1枚輝く航空」ポスター(政府公報)
民間航空振興と「愛国切手」購入を呼びかけるキャンペーンを 繰り広げた
「愛国切手」の購入を呼びかけた
この大々的なキャンペーンに着目した
商品のキャッチコピーを広く民間に募集すると同時に
その応募用紙を逓信省発行の「愛国郵便ハガキ」および
「愛国切手貼付の私製はがき」に限定することで
帝国飛行協会への「民間航空充実資金」を
社として寄贈することにしたのだった。
▶︎ 1937年6月1日発行「愛国切手」(左から4銭、3銭、2銭 )
日本アルプスの上空をフライトする、ダグラスDC-2型輸送機を描いた切手
厳選なる審査の結果、1等に選ばれたのは
「ペンを持つ人皆アテナ」
1等から3等には賞金および、副賞として
帝国飛行協会から丸善へと寄贈された
「飛行機模型」を記念品として進呈。
この時の「愛国切手」「愛国はがき」による
丸善から帝国飛行協会への寄贈金は
5,300余円に達すると同時に
丸善インキの名声は、全国津々浦々に
広がっていった。
▶︎ 「帝国飛行協会」が丸善に寄贈した、飛行機模型(67機のうちの1機)
当時、広告課長だった祖父の仕事の「軌跡」は、80年経ったいまも大切に保管されている
このキャンペーンのきっかけとなった
寄付金付き切手「愛国切手」の発売。
わが国でこうした特殊な切手が発売される
に至った経緯として、忘れてはならない
人物がいる。
「荒城の月」の作詞をした土井晩翠の
子息・土井英一である。
▶︎ 土井晩翠(1871~1952)
出 典;小学館「デジタル大辞泉」
仙台英学塾、旧制第二高校(現;東北大学)を経て、東京帝国大学英文科卒
大学卒業後、棚橋一郎創設の「郁文館中学」に勤務する
幼少の時から英才といわれた英一は
大変に身体が弱く、高校を休学して
転地療養することもあり
旧制仙台一中(現;仙台第一高校)を経て
東北大学法学部に進学した頃には
迫り来る「死」を予期するほどだった。
そうした中で、彼が強く興味を持ったもの。
それはまだ日本にない「慈善切手」だった。
ある日、ヨーロッパの文通相手から受け取った
手紙に、見慣れない料金表示の切手が
貼ってあることに 気づいた、英一。
郵便料金の額に寄付金をプラスして販売される
「慈善切手」であることを知るや否や
これを日本にも導入し、ハンセン病や結核などで
苦しむ人々の救済を目的にした「社会事業」に
役立てられないかと考え始める。
早速、文通相手を通じ、ヨーロッパ諸国での
「慈善切手」 発行の経緯や状況、寄付金の
使い道など、詳しい調査を進めると同時に
衆知のため、新聞社への投書を行った。
これは例へば一銭五厘切手を二銭に
同じく三銭切手を四銭に
全国の郵便局より發賈するもので
政府はその付加額を回収して
慈善の目的に使用する。(中略)
この切手を貼つた手紙が
全国津々浦々に行き渡る時
それは全國民の公共心を
刺戟せずに止まないだろう。
英一は「慈善切手」に関する調査結果を
レポートにまとめ、父・晩翠の二高時代
働きかけた。
▶︎ 内ヶ崎三郎(1877〜1947)
現在も続く、宮城県最古の酒造メーカー「内ヶ崎酒造店」に生まれる。
初代 内ヶ崎筑後は、伊達政宗の命により宿場を開設、二代目から酒造業を営んだ
そのまっすぐな精神と熱心さに動かされた
「慈善郵便切手発行ニ関スル建議案」を提出。
その調査の緻密さ、グローバルさに
なかなか発行には至らず。
病床の英一は、死の直前まで
「愛国切手」のことを訴え続けた。
英一の遺志を継いだ、内ヶ崎は
突破口を求め、政府に受け入れられやすい
「民間航空事業奨励」という名目で
紆余曲折な局面を辿り、英一が切望した
彼が天国へと旅立ってから4年後の
数年前、わが家に長年保管されていた
それはそれは古い品々の中から
若くして亡くなった、父の弟が
集めていたたくさんの外国の切手を見つけた。
▶︎ 父の弟が集めていた数多くの外国切手のうちの「英吉利(イギリス)」
エキゾチックな切手たちがひしめく中
ひっそりと保管されていた、僅かばかりの
日本製の切手、これこそが土井英一発案の
「愛国切手」だった。
「この切手はなんだろう、普通の切手と
金額部分の表記が違うけれど‥‥‥」
私がふと目を留めたように、遠き日の英一も
そうしたきっかけで「慈善切手」の存在を知り
短くも情熱溢れる日々を過ごしたのだろう。
そのまっすぐな熱い気持ちが
やがて多くの人々の心を動かし
我が家に残る、曾祖父教員時代の古写真。
「正則中学校・第三十三回開校記念」と記載されている。
▶︎「私立正則中学校」職員一同 大正10年9月13日撮影
前から2列目、左から4人目が曾祖父(57歳の姿)
明治22年(1889年)東大総長だった外山正一らによって
港区芝に「芝正則予備校」として設立。その後「正則高等学校」として現在に至る
幕末・元治元年生まれの曾祖父は
元々医師を目指し、医学校へ通っていたが
様々な事情で諦めざるを得なくなり
その後、教員免許を取得し、教師となった。
身を粉にして教員の仕事を探してくれたのは
深川小学校校長だった、稲垣知剛氏。
ともに郷里・西尾出身の友人たちだった。
▶︎ 稲垣末松(1866〜1926)
栃木、東京、新潟、島根、滋賀の各府県の中学校を歴任し、明治39年
▶︎ 稲垣知剛(深川小学校校長時代)
出 典;『実業之日本』
彼らの紹介あって就職できたのが
「東京女子商業学校」(昭和27年廃校)
▶︎ 「東京女子商業学校」 明治45年3月30日撮影
第二回本科/専修科卒業生・職員一同(後列左から2人目が曾祖父)
創立者で校長;原 龍豊(前列左から4人目、3人目は「原隼人」と推測)
その後、港区芝にある「正則中学校」の教員となった。
会議の席上、職員同士の意見のぶつかり合いで
瞬間湯沸かし器の如く怒り、辞職を決意し
自宅に帰ってしまった、曾祖父をなだめ
どうか学校に戻ってきて欲しいと
優しく諭し、手を差し伸べてくれた仲間の先生たち。
その中心に「外山岑怍」という人物がいた。
▶︎ 外山岑怍(1879〜 1924 ) 出 典;東北大学資料館
新校長として迎えられた、外山岑怍は
英法科で講師を務めており、同僚の1人が
▶︎ 土井教授(本名;土井林吉)
熱くなりやすい、曾祖父の窮地を
そっと救ってくれた
心やさしき、外山岑怍。
▶︎ 当家文書・大正期記載頁 曾祖父の日記より
仲間たちの依頼と新々校長 外山岑怍の懇望により再勤とある(大正13年3月25日)
大変不思議な偶然なのだが
彼のお父上様である、外山正一は
小柳津要人の窮地を救った人物である。
▶︎ 外山正一(1848〜1900)
その時の繋がりがあって、その後の
外山正一著作の数々。
▶︎『社會改良と耶蘇教との関係』 外山正一 著 発行人;丸善商社(現;丸善)
後の世に次々と誕生していったのが
働きかけをきっかけにわが国で初めて
発売された「愛国切手」
それが元となり始まった「帝国飛行協会」の
一大キャンペーンを自社のインキ宣伝活動と
全社を挙げての大きな宣伝活動を
広告課長として粛々と率いた、祖父。
彼の誕生日を祝すると同時に、人と人とを繋ぐ
不思議な縁とその中で少しずつ築かれていった
貴重な「歴史」とを言葉なく教えてくれた
曾祖父に感謝の気持ちを捧げたい。
▶︎ 土井英一、外山岑怍同様、帝大生だった父の弟も若くして命を失った
▶︎ 旧制二高・英法科の生徒たちに囲まれる、外山岑怍先生(写真中央)
< 東京女子商業学校について>
幼いころからずっと気になっていた、1枚の古い卒業写真。
「東京女子商業学校」とは一体どこなのだろうか。
曾祖父の残した古い日記に筆で記された
「校 長;原龍豊」の名前だけを手掛かりに
教育者だった原龍豊氏が「実業家や商家として活躍できる
才能溢れる貞淑な女性を教育したい」という希望を掲げ
懸命に創設した女子商業学校だったこと。
現在の「神田神保町2丁目44番地付近」にあったこと。
昭和27年に惜しまれながら廃校となったこと。
昭和の初め頃に同校の教員でいらした
織田真一さんという人物が
消えてしまった「東京女子商業学校」の歴史を
なんとか後世に残そうと出版した
『さ丶れの上行く水のごとく』
この1冊がなければ「東京女子商業学校」の存在は
時の流れの中にすっぽりと埋もれてしまったと思います。
フルネームは不明だが、かつて存在した
同校の教職員の名前として列記された中に
曾祖父の苗字もしっかりと記載されていました。
創設から廃校までの卒業生、ならびに教職員たち。
同校と関わり合った全ての事柄を余すことなく
後世に残さなければという強い思いを掲げ
織田真一さんのまっすぐな「志」は
女子教育に尽力した1人の先生の曾孫である
「私」の元にもしっかりと届きました。
郷里の友人だった、稲垣両氏に紹介してもらいながら
原龍豊氏と意見の大衝突を起こし
たった2年で同校を辞めてしまった、曾祖父。
それでも彼の残した日記の中には
「恩人・原龍豊」との記載が残っています。
東京・新橋に出てきた彼に新たな職を与え
自らの住居の一部を住まいとして
一時提供してくれた、原龍豊氏。
意見がぶつかり関係性が決裂したにせよ
大恩人であることは、変わらない事実です。
古い家族がお世話になった恩人のため
曾孫の私が「いまできること」
それはやはり「東京女子商業学校」のこと
なんらか残すことだと思い
この場に記載することにしました。
創設から廃校までの卒業生・2,407名のうち
ご健在な方はどれくらいいらっしゃるかわかりません。
それでもきっと「おばあちゃまの出身校のことを知りたい」
そう思い、ネット検索をする方はきっといらっしゃると思います。
そうした方たちにこちらの記事を見つけていただき
明治時代に撮影された「東京女子商業学校」の
晴れやかな卒業の日の様子を一目ご覧いただけば幸いです。
稲垣末松氏、稲垣知剛氏、原龍豊氏の末裔の方々
そして織田真一さんとそのご家族の方々にも
私のこの思いが届くことをそっと願いつつ‥‥
2019年2月4日追記
マルゼニアン
<参考文献>
「寄付金つき切手の生みの親 土井英一」
東北大学大学院文学研究科 教授 後藤 斉 氏
『東京朝日新聞』 (昭和12年6月16日付)
『 東京日日新聞 』(昭和5年10月9日付)
『 東京朝日新聞 』(明治44年4月3日付)
『 さ丶れの上行く水のごとく 』織田真一 著(平成元年5月15日発行)
『 家庭文化 』第4巻第3号
『 西尾の人物誌 』西尾の人物誌編集委員会 編(平成7年3月10日発行)