幼いころからなぜかとてもお気に入りだった
1枚のポートレイトがある。
幕末から大正期までを生きた
古い家族たちの写真とともに
我が家の「写真箱」の中で
家族同然、それ以上に大切にされてきた
1枚の立派なポートレイト。
そこに写っている人物は
白い髭をたくわえた、1人の上品な紳士だった。
幼い私は一体いつごろから
正確にその人物を認識していたのだろうか。
お気に入りだったそのポートレイトに
精一杯の親しみを込め
「オヤイヅサン」と呼んでいた。
その人物が家族とどう関係しているのかも
全くわからない年齢だったにもかかわらず
父の書斎にそっと忍び込んでは
お気に入りの「オヤイヅサン」をひっぱり出し
嬉しそうに、家族の面々に
「ねぇ見て!」「見て!」と見せてまわった。
普段無口で無表情な父も、その時ばかりは
“ 書斎の小さな侵入者 ” を戒めることもなく
にっこり笑い「小柳津さんか」といい
母は「小柳津さんね」とやさしく微笑んだ。
「オヤイヅサン」とは、明治33年(1900年)から
大正5年(1916年)まで、丸善3代目社長を務めた
小柳津要人のこと。
▶︎ 小柳津要人(1844〜1922)
ポートレイトの撮影者は
「鈴木真一」
日本の “ 初期写真界 ” を代表する
大変著名な写真師である。
▶︎ 写真師・鈴木真一(初代)夫妻
出 典;『伊豆新聞』2014年12月15日付
なぜ家族ではない人物のこれほどまでに
立派なポートレイトが我が家にあるのか。
その謎が概ね解け始めるのは
それから30年近く後のことだった。
忙しい日常の中、すっかり忘れかけた
「オヤイヅサン」と再会したのは
数年前のこと。
懐かしさもあり、幼少期を思い出し
ゆっくりと見つめているうち
写真の裏に書かれている、文字の存在に気がついた。
明治32年(1899年)11月23日
かつての「新嘗祭」の日付け。
そして、添えられていたのは
小柳津の直筆サインと
私の高祖母の名前だった。
小学生になったころから
「祖父と父の会社の社長だった人物なので
きっと社員全員に配られたものだろう」と
勝手に思い込み、自分を納得させていた私。
残された日付けと文字から、丸善入社以前から
そして、父の家系の関係者ではなく
高祖母と直接の知り合いだったことがわかった。
「オヤイヅサン」が高祖母の家系同様
岡崎藩士であったこと。
(小柳津家は、忠勝公のお父上・忠髙公御代より出仕)
まだ少年だった小柳津が、初めて岡崎藩に
出仕した際の上司が、高祖母・みきの父で
あったらしいこと。
その繋がりがあって、祖父とその弟が
▶︎ 高祖母・みき(1847〜1925) 明治32年(1899年)12月撮影
撮 影;西尾錦城舘(参州 三河国・西尾)
小柳津が江戸詰めとなっている間、我が家を含む親族内に起きた「ある災難」に
巻き込まれ、みきは止むを得ず、急遽我が家に嫁ぐこととなった
やさしく穏やかな「オヤイヅサン」が
幕末の動乱期「戊辰戦争」に参加した
人物であったことを知るまでに
そう時間はかからなかった。
慶應3年(1867年)10月14日
行うや否や、中央政局が一気に動き出し
同年12月「王政復古の大号令」を発すると同時に
徳川家の影響力を強引に排除すべく
将軍・慶喜公に対し、一方的に役職を辞任し
領地を返還することを強く求めた。
▶︎ 徳川慶喜公(1837〜1913)
出 典;Wikipedia
あまりにも乱暴で一方的すぎる
薩摩と長州のやり方。
この理不尽な状況に強く反発した幕臣たちや
親藩大名である會津藩の家臣団たちは
翌年の慶應4年(1868年)1月3日に
薩摩・長州から成る「新政府軍」と
京都の鳥羽・伏見にて激突。
これが「戊辰戦争」の緒戦となった。
▶︎「見聞細吟諸方出火之画図」(鳥羽伏見の戦い)
小柳津の所属する岡崎藩では、表面的には
旧幕府軍指示の態度を取りつつも
藩内では「旧幕府軍指示派」と政情を考慮した
「朝廷指示派」とに二分されていた。
▶︎ 岡崎藩の国許;岡崎城(愛知県岡崎市康生町561) 2016年4月30日訪問
「侍たるもの、どのようなことが起きようと
最後まで主君に忠実に生きなければならない」
藩祖・本多忠勝公の遺訓である
この「惣まくり」を掲げ、代々
主君に忠実に生きてきた、本多岡崎藩。
家老・梶 金平は、悩んだ末に
こう結論づけた。
「朝敵の者と相成り、城を枕に討ち死にしては
徳川家のためにも相成らず」
慶應4年(1868年)1月17日。
家老・梶 金平は、岡崎藩の
朝廷側への恭順を宣言。
同時に反幕の態度を表明した。
これに対し、異論を唱え
立ち上がったのが
小柳津たち20数名の藩士たち。
「惣まくり」を遵守、本多岡崎藩士としての
「志」を貫こうと、同年4月30日、藩に脱藩状を提出。
▶︎「成道山松安院 大樹寺」(愛知県岡崎市鴨田町広元5-1) 2016年5月1日参詣
小柳津たちは、沼津への出立前、三河松平氏の菩提寺である、この場所へと足を運んだのだろう
旧幕府軍遊撃隊へと参加すべく、岡崎を出立。
一団の滞陣地・沼津の地を目指した。
▶︎ 小柳津要人 (明治初年撮影)
「 五月六日、沼津在香貫村着
遊撃隊下陣霊山寺へ到リ
▶︎ 曹洞宗兜率林「霊山寺」(静岡県沼津市本郷町25-37) 2015年8月9日訪問・撮影
隊長伊庭八郎、参謀岡田斧吉に面會
則遊撃隊エ加ハル 」
(『遊撃隊戦記』小柳津要人誌より)
▶︎ 伊庭八郎(1844〜1869) 市立函館博物館蔵
「江戸四大道場」の1つ、御徒町の剣術道場「練武館」に生まれる。
将軍の親衛隊に抜擢されるなど、その剣術は “ 伊庭の小天狗 ”と異名を取るほどだった
沼津城と狩野川を隔てた
香貫村にある、霊山寺。
▶︎ 兜率林「霊山寺」の山門
この場所に「遊撃隊」の記録は、何一つ残されてはいなかったが
ここに来ることができただけで、とても嬉しく胸が熱くなった
この場所で、 人見勝太郎、伊庭八郎ら
幕臣たちを中心に組織された
「遊撃隊」に合流。
▶︎ 人見勝太郎(1843〜1922)
出 典;Wikipedia
二条城詰め鉄砲奉行組同心・人見勝之丞の嫡男として誕生。
明治以降は「実業家」となり、利根川と江戸川とを繋ぐ「利根運河会社」や
神谷バーの創業者・神谷伝兵衛とともに「日本酒精製造株式会社」を設立する
幕臣たちを中心としたこの精鋭部隊には
藩主自ら脱藩、九段坂から家臣たちを率い
遊撃隊 第四軍を組織した、若き大名
請西藩主・林昌之助忠祟公もいた。
▶︎ 上総国請西藩主・林昌之助忠祟公(1848〜1941)
出 典;Wikipedia
波乱万丈な人生を乗り越え、 昭和16年( 1941年)まで生きた、我が国「最後の大名」
江戸詰の藩医・和多田貢を隊長に
遊撃隊 第三軍 岡崎隊となった小柳津たちは
他部隊との連携をはかりながら
大雨が降り続く中を、三島宿を経て
箱根へと向かった。
これが「箱根戦争」を皮切りに「會津浜街道」
小柳津たち岡崎藩士の命をかけた、千辛万苦の
戦いの日々の始まりだった。
▶︎ 箱根湯本の「三枚橋」 (神奈川県足柄下郡箱根町) 2016年1月1日撮影
慶應4年(1868年)5月26日 この場所で「新政府軍」へと寝返った、小田原藩兵と大衝突。
遊撃隊 第二軍隊長・伊庭八郎は左手を失い、 多くの第四軍請西藩士たちが命を失った
慶應4年(1868年)7月29日
長岡城 二本松城
落 城
▶︎ 「二本松少年隊士像」(福島県二本松市郭内) 2016年10月27日参詣
「奥羽越列藩同盟」締結後、二本松藩の主力部隊は、白河へ。 留守になった
二本松城を必死で守ったのは、高齢者と刀もさせないほどの幼い少年たちだった。
「藩民を守ることが第一」幼い少年たちは、藩主の教えを胸に、決死の覚悟で守り抜いた
慶應4年(1868年)8月16日
長岡藩家老・河井継之助死去
▶︎ 長岡藩・河井継之助終焉の地 (福島県南会津郡只見町) 2016年8月13日参詣
戦いでなく「中立」を望んだ、長岡藩家老・河井継之助は、左足に打ち込まれた
砲弾の苦痛に耐えながら「八十里越え」をするも、ここ只見町で最期の時を迎えた
美濃国 郡上藩 凌霜隊
隊長 朝比奈茂吉以下45名
會津藩籠城戦に参加
▶︎「凌霜隊顕彰碑」(岐阜県郡上市八幡町) 2017年5月2日参拝
国許郡上では「新政府軍」の一員として飛騨出兵などを行うも「旧幕府軍」が勝利した時を考え
朝比奈茂吉を隊長とする藩士45名をひそかに脱藩させ、戊辰戦争・会津の戦いへと送り出した。
2つに分かれた「藩論」で引き裂かれた、1つの家臣団の悲劇は、あまり知られていない
慶應4年(1868年)8月23日
會津藩白虎隊士中二番隊士
飯盛山で自刃
▶︎ 會津・飯盛山(福島県会津若松市一箕町八幡弁天下) 2016年7月16日参拝
會津藩家老・西郷頼母一家自刃
▶︎ 會津藩家老・西郷頼母邸宅跡(福島県会津若松市追手町) 2017年8月14日参拝
明治以降、西郷頼母は、西伊豆にできた「謹申学舎」の校長に招聘され、教鞭を振るう。
一族でたった1人生き残った妹・美遠子の再婚相手、それは奇しくも私の宝物である
「オヤイヅサン」を撮影した写真師・鈴木真一だ
慶應4年(1868年)8月29日
會津藩・佐川官兵衛部隊
長命寺の戦い
慶應4年(1868年)9月22日
會津藩、新政府軍に降伏・開城
▶︎ 會津若松「鶴ヶ城」(福島県会津若松市追手町) 2016年7月16日訪問
各地での旧幕府軍たちの状況を耳にしながら
小柳津たち遊撃隊は「會津浜街道」沿いを
転戦し続けていた。
▶︎ 磐城平城跡敷地内 ( 福島県いわき市平) 2017年8月14日訪問
磐城平城下に滞陣し、平潟口付近を戦っていたころ
第三軍隊長・和多田貢が渡辺村の「新田峠」付近で
「新政府軍」の銃弾に倒れた。
「和多田貢田綴手ニテ弾丸二当リ死ス
然ル処尾撃烈シク死骸持参不能
小柳津首級ヲ揚ゲ澤録三郎騎馬ニテ持参
泉藩江回向相頼ミ左之通取斗
回向料金五百疋遺ス
六月十七日和多田貢
楽翁院法勇義山居士
奥州菊田郡渡辺萬福寺二葬ル」
(『遊撃隊戦記』小柳津要人誌より)
▶︎ 遊撃隊第三軍岡崎隊・和多田貢が眠る、渡辺村付近(現;いわき市渡辺町)2017年8月14日訪問
この付近はかつて「瀬峰」と呼ばれ、小柳津たち岡崎隊も磐城平城滞陣時、足を運んだ場所である
同じ岡崎藩士の血を引く末裔として
そして小柳津要人に縁ある者として
山あいの寂しい土地で絶命した、和多田貢に
何とかお線香を手向けたい、その思いを胸に
いわきへと向かい、山の中のあちこちを探すも
「渡辺村・萬福寺」を見つけることは叶わなかった。
見渡す限り、山と森ばかりーー。
人の姿もなく、神社も無人で途方にくれた。
この辺りは、明治期に行われた
「廃仏毀釈」が多かったエリアというだけに
廃寺となった可能性が高い。
その後、和多田貢が絶命した「新田峠」近く
現在のいわき市渡辺町田部字渡部という場所に
かつて「時宝山 満福寺」という真言宗の寺院が
存在していたことがわかった。
軍夫として従軍・戦死した農民たちの供養が
明治2年(1869年)この「満福寺」にて
取り行われたという。
以降、姿を消した「満福寺」跡には
渡辺小学校が建てられた。
小柳津が書き残した「奥州菊田郡渡辺村・萬福寺」は、地図上の26の位置にあったと推測
赤印部分が訪問記録として、写真に残した「小名浜線・上釜戸」に該当する
「六月廿七日晴。
小柳津、菅野、櫻間、岡本、小林、
吉永、橋本都合七人磐城平城下逗留ス」
(『遊撃隊戦記』小柳津要人誌より)
▶︎ 磐城平城本丸跡 ( 福島県いわき市平) 2017年8月14日訪問
慶應4年(1868年)7月13日、平藩は「新政府軍」に降伏した
隊長・和多田貢を失った彼らは
どんな思いで、この町で戦い続けたのだろう。
若き日の小柳津も歩いたかもしれない
この町の道をただただ歩いた。
▶︎ 會津藩 2,558名 二本松藩 336名 長岡藩 310名 平藩 58名 幕臣1,598名 岡崎藩 7名 請西藩26名
ほか 数多くの「志」同じくする仲間たちが、戊辰戦争で尊い命を失った。小柳津さんの足跡を辿り
各地に眠る、東軍仲間の元へと出向くこと。それが私から小柳津さんへの「感謝」の印である
戊辰の夜明けを駆け抜けた
小柳津たち遊撃隊の戦いの日々。
その瞬間を書き綴った戦記を目にし
「この戦いの足跡をなんとか形にしたい」
そう強く願った人物がいた。
小柳津の五男・小柳津宗吾である。
▶︎ 小柳津宗吾(1893〜1976) 昭和3年撮影
旧制第五高校を経て、東京帝国大学法学部卒業。大正7年丸善入社。
取締役秘書部長を経て、昭和22年「丸善商社」社長。昭和33年丸善参与
父・小柳津要人の遺文である
『遊撃隊戦記』に自らの読解文を付け
発行したい。
その思いを相談した相手。
それは八木佐吉だった。
▶︎ 八木佐吉(1903〜1983) 昭和40年撮影
大正5年4月 丸善株式会社入社。書籍部次長、洋書整理部長・和書部長など歴任。
昭和40年9月から、丸善「本の図書館」館長に就任。以降、終生在任。
その後、病に倒れ、思いを果たせぬまま
旅立った、小柳津宗吾の意思を引き継ぎ
若き日の祖父の勇姿を、父の切なる願いを
叶えようと尽力したのが、長女の淑子さんだ。
八木佐吉の協力を得て『小柳津要人追遠』として
発行された、小柳津の『遊撃隊戦記』を初めて
目にした時、様々な思いが私の心を駆け抜けた。
小柳津一家の家族を尊敬し、慕うあたたかな気持ち。
まるで、武家の「長男」のような
淑子さんの強い強い使命感。
その「志」の高さに感服すると同時に
なぜもう少し早く小柳津家と我が家との
深い繋がりに気づかなかったのだろうかと
深く悔やみ、何度も何度も泣いた。
大好きな「オヤイヅサン」の素晴らしさを
心の底から共感できる、この世でたった一人の人物と
色々と話すことができたかもしれない貴重なチャンスを
永遠に失ってしまったのだから。
▶︎ 『小柳津要人追遠』を国会図書館へと寄贈したのは、八木佐吉さんだった
118年前、小柳津要人が高祖母・みきに贈った
明治の写真師・鈴木真一撮影の1枚のポートレイト。
そうした戦禍の中、古い時代を生きた家族たちが
懸命に守り続けたことで、後世の私の元へ
「オヤイヅサン」として引き継がれた。
すっかり成長した私の元へ、小柳津要人として
再び姿を現した「オヤイヅサン」は、まっすぐな
「志」を胸に、戊辰の夜明けを駆け抜けた
仲間たちとの熱い戦いの日々を伝えると同時に
私たち家族との深い繋がり、高祖母・みきの
辿った悲しい人生の「真実」を教えてくれた。
「オヤイヅサン」に出逢えたからこそ
古い時代に生きた家族1人ひとりの存在を大切に想い
人間の人生とは、それぞれに尊くとても素晴らしいもの
なのだと感じるようになった、そんな気がしてならない。
君も強く生きなさい
55歳のままの「オヤイヅサン」は
今日も優しく温かな眼差しで
ポートレイトの中から
私へとエールを送り続けている。
▶︎ 「オヤイヅサン」の裏に記載された、小柳津要人直筆のサイン
▶︎ 晩年の小柳津要人 大正5年ごろ撮影
<参考文献>
『小柳津要人追遠』富澤淑子編(昭和53年発行)
『小柳津要人小伝』八木佐吉 著
『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』 中村彰彦 著
「オヤイヅサン」は、高祖母・みきに贈られた、大切なプレゼント。
小柳津さんへの敬意を払い、ネット上への掲載は差し控えます。