<丸善と美術界 ①> 画壇の仙人と呼ばれた、熊谷守一 “ モリ ” の魅力を見出した「木村定三」と名古屋丸善・美術係「木内憲次」
▶︎ 熊谷守一(1976年/96歳のころ)
▶︎ 熊谷守一(1880〜1977)
裕福な地主の家庭に誕生した、熊谷守一。
出 典;岐阜県公式ホームページ
幼いころから絵が大好きだった彼は
17歳で東京へ。
正則尋常中学校(現;正則高等学校/東京都港区芝公園)
▶︎ 旧制正則中学校(現;正則高等学校)第32回 開校記念教職員一同
大正10年9月13日撮影(筆者私物)
2列目左から4人目が私の曾祖父
上京した守一が最初に門を叩いた学校は、後に私の曾祖父が教鞭をとった正則中学校だった
同校創設者は、東大総長だった外山正一。丸善3代目社長となった小柳津要人の恩人でもある
明治33年(1900年)東京美術学校
(現;東京藝術大学)に入学。
心優しい守一は、貧しく絵の具を買えなかった青木の絵の具箱に
そっと使いかけの絵の具を気付かせないように入れてあげたという
同級生には「海の幸」で広く知られる
夭折の悲しき画家・青木繁がいた。
▶︎「海の幸」青木繁 1904年( ブリジストン美術館蔵 ) 重要文化財
出 典;ブリジストン美術館公式ホームページ
洋画では最も早い1967年に「重要文化財」指定を受けた
東京美術学校を首席で卒業した守一だったが
父・孫六郎の急死により生活が一変。
出 典;東京国立近代美術館公式ホームページ
絵画だけでは生活できず
「樺太漁場調査隊」や渓流で木材を運ぶ
運搬の仕事(=ヒヨウ)などの
アルバイトをすることになった。
偉大な父を失った不安な生活の中
懸命に生きなければならなかった守一。
まさにその時の心境を投影したであろう
▶︎ 「蠟燭(ローソク)」熊谷守一 1909年(岐阜県美術館蔵)
出 典;東京国立近代美術館公式ホームページ
「第3回文展」入賞作品
新進画家として周囲から期待され
続く「第4回文展」に渾身の作品を出品するも
題材不適当とされ、作品の搬入さえできなかった。
その時の守一が描いたのは
偶然見かけ心に衝撃を受けた
衝撃的な現場を目撃したことで
心に痛烈に感じた “ なにか ”
同じ時期、同じような出来事を
書き記している。
「 野々宮の家の近くで
轢死(れきし)事件があった。
現場に駆けつけた三四郎は
体が引きちぎれた死体を見る。
若い女だった。
三四郎は寝付けない夜を過ごす 」
時を経て家庭を持つも
あまりに無欲だった守一。
絵が描けず生活は次第に困窮。
次男・陽が肺炎になった際も
医者にすぐ診せることができず
永遠の別れとなってしまった。
旅立った幼子に添い寝をし、子守唄を歌い
庭から木の枝を採って赤い毛布の上に添え
空き缶に蝋燭を立てた。
そうして彼は一心不乱に
わが子を描いた。
それだけが旅立ったわが子にしてあげられる
唯一のことだった。
出 典;大原美術館公式ホームページ
現物を目にするとわかる、絵の具の塗り方の激しさ。
守一のやるせない “ 心の叫び ” がいまも伝わってくる
そんな守一にもついに
人生の転機が訪れる。
昭和13年(1938年)
名古屋丸善主催の
「熊谷守一先生 新毛筆畫展覧會」
▶︎ 戦前の丸善名古屋支店(筆者私物)
(所在地;名古屋中區榮町三丁目)
46点の日本画を出品した
守一の個展会場。
ここに1人の人物が訪れた。
名古屋在住の事業家で美術に造詣の深い
美術コレクター・木村定三だった。
▶︎ 木村定三(1913〜2003)
出 典;『木村定三コレクション名作選』
出 典;『木村定三コレクション名作選』
二科会の仲間・濱田葆光の強いすすめで「日本画」をはじめた守一。
濱田はその後も守一に毛筆個展の状況伺いや手伝いなども申し出ている
のちに守一は『蒼蝿』の中で
初めて木村と出逢った日のことを
このように回想した。
(『 増補改訂版 蒼 蝿 』より抜粋)
▶︎『 増補改訂版 蒼 蝿 』(求龍堂刊)
出 典;求龍堂公式ホームページ
25歳の金ボタンの学生
木村定三と 58歳の熊谷守一。
この先40年におよぶ交流のはじまり。
▶︎ 戦前の「丸善名古屋支店社員一同」(昭和3年撮影;筆者私物)
名古屋支店支配人;後藤藤五郎(前列左から6番目)
伊藤正男(前列左から3人目)は、名古屋支店の “ 顔 ” ともいえる「永年勤続者」
岡田鉦一(前列右から4人目)は、祖父の弟 直彦(丸善人)の郷里岡崎の友人
岡田金藏(前列右から3人目)は、八木佐吉の友人として退社後も交流を続けた
▶︎ 「猫」 熊谷守一 1965年(愛知県美術館/木村定三コレクション)
出 典;東京国立近代美術館公式ホームページ
▶︎ 「雨 滴」熊谷守一 1961年(愛知県美術館/木村定三コレクション)
出 典;東京国立近代美術館公式ホームページ
▶︎ 「伸餅」熊谷守一 1949年 (愛知県美術館/木村定三コレクション)
出 典;東京国立近代美術館公式ホームページ
この絵をご覧になった昭和天皇は、こうお尋ねになったという。
「これは何歳くらいの子が描いたのですか?」
守一の芸術上の大きな転機。
彼はこう振り返る。
「 このころ気分が大きくなって
太いせんで区切ることができるようになった 」
好評を博し、守一の大きな転機ともなった
個展の翌々年の昭和15年(1940年)には
「熊谷守一先生 新毛筆畫展覧装會」が
同じく「名古屋丸善」で開催された。
これらの準備全般を担当。
熊谷守一ならびに木村定三とのやりとり
個展目録の作成、新聞社への招待連絡などを
おこなっていたのは、当時「丸善名古屋支店」で
美術係をしていた、木内憲次だった。
▶︎ 木内憲次(明治37年2月11日生) 24歳のころ
日本橋本店・営業部、店頭販売部次長、仙台支店長などを務めた
拝 啓
其の后は長らくご無沙汰致しましたが
皆様御変りなきことと存じます。ー 中略 ー
名古屋丸善に本日赴き
先生の個展の話をしてまいりました。
時季は今秋十一月頃が良いと思います。
何れ木内君から詳しく日取りは
御通知することと思いますが
その御算段で今からぼつぼつ良い絵を
描きためて置いてください。 ー 中略 ー
敬 具
昭和十五年五月二十九日
熊谷守一待史
木村 定三
▶︎ 「木村定三から熊谷守一の書簡(部分)」昭和14年5月11日付
出 典;「木村定三と熊谷守一をめぐる往復書簡(翻刻)」愛知県美術館
拝 呈
其后皆様ご無事の事と存じます。ー 中略 ー
名古屋丸善に小生個展のことを
御話し下さいまして有難を(う)御座います。
絵の方も今からぼつぼつ描きためて置きます。ー 中略 ー
草々不一
六月十九日よ(夜)
木村定三様
熊谷 守一
▶︎ 熊谷守一(1971年/91歳のころ)
撮 影;日本経済新聞社
熊谷先生
拝 啓
秋も深くなりました。
御無沙汰のみ致し失礼申上(げ)て居りますが
御変りもないことと存じます。
個展開催いただきますについて
目下の処名古屋は非常に沈滞気味なので
皆様と相談の結果先般御知らせ申上げた時期は
思わしくないとの事にて、十二月初めの三日から
七日迄と皆様の御意見が一致しましたから
申訳御座いませんが右の様に変更させていただきます。
木村様も非常に御熱心に御助力いただいて居ります。
急に変更など致し申訳ありませんが
どうか右了承願います。
会場の図面同封致しました。
敬 具
昭和十五年十月二十九日
丸善名古屋支店 美術部
木内 憲次
出 典;「木村定三と熊谷守一をめぐる往復書簡(翻刻)」 (上記書簡3点)
▶︎ この当時「名古屋支店支配人」だった、丸善8代目社長・司 忠(1893〜1986)
木村定三から熊谷に送った書中には「丸善 司 忠」の記載もみられる。
美術にも造詣が深く、数多くの美術品を愛し収集した司忠。
彼の陶磁器964点は「司コレクション」として郷里の「豊橋市美術博物館」に所蔵されている
「絵が面白いから百枚までは買ってやる」
若き日にそう言い放った木村定三の
美術コレクターとしての「絶対の自信」
▶︎ 木村定三コレクションを持つ「愛知県美術館」が入る「愛知芸術文化センター」
東京都豊島区千早。
かつて “ 池袋モンパルナス ” と称され
多くの芸術家たちが集い暮らした場所にも
ほど近いこの街にひっそりと佇む
「 熊谷守一美術館 」
▶︎ 「豊島区立熊谷守一美術館」(東京都豊島区千早2-27-2)
2014年5月29日初回来館・撮影
守一が45年もの間、隠者生活を送り
絵を描いていたという自宅があった場所。
ここには既にその面影はなく
▶︎ 「豊島区立熊谷守一美術館」正面玄関
入口右手にカフェスペース “ Cafe KAYA ”
(守一画伯次女・榧さんのCafe)
かつて守一の家だった場所で
心静かに過ごすひととき。
“ 君は君のまま
そのままでいいんだよ ”
守一に肩越しにそういわれた気がして
なんだか目頭が熱くなった。
ひょっとして守一は本物の仙人となって
いまもここで生きているのかもしれないと思った。
この日を境に「画壇の仙人」といわれた
遠い存在の熊谷守一画伯は
私の中で “ モリ ” となった。
▶︎ 「アゲ羽蝶」熊谷守一絶筆 1975年
(木村定三氏寄贈)
出 典;「豊島区立熊谷守一美術館」
先輩である、伊藤四良(しろう)の
玄関番となって一生懸命に仕事を覚えた。
▶︎ 伊藤四良(明治21年2月2日生) 40歳のころ
写真当時は「福岡支店支配人」のち取締役などを歴任。
祖父のもっとも親しい先輩であり、父の上司だった
「関東大震災」「太平洋戦争」
数々の筆舌に尽くしがたい
苦難に出遭いながらも
▶︎ 戦時中に発行された社員への「休職命令」
出 典;『丸善百年史』
日増しに激しくなる戦禍の中、ついに丸善も営業縮小・休止を余儀なくされ
多くの社員たちに休職命令が出された(写真は、当時人事課長だった祖父の直筆)
当時営業部に所属していた木内も戦禍の中、復職までの「時」を待った
前向きに頑張る気持ちと
謙虚な姿勢を忘れなかった彼は
▶︎ 寄せ書きに書かれた木内憲次の直筆メッセージ
上下関係の厳しかった丸善の中で
歳の離れた先輩やOBたちにも愛され
▶︎ 「丸善交友50年温故会 /第4回」(殆どが「Z.P.MARUYA」時代の入社)
前列左から)日下定次郎、五十嵐清彦、伊藤四良、玉井弥平
後列左から)斎藤哲郎、木内憲次、井上清太郎、福本初太郎、間宮不二雄
福本初太郎は、武者小路実篤ほか白樺派から「丸善の初さん」と愛され
『白樺』の編集会議に参加するほど、メンバーたちから信頼、重用されていた。
志賀直哉も当時16歳だった福本初太郎との思い出を『学鐙』に寄稿している
関わり合う仲間たちを大切にし
丸善一筋に生きた。
▶︎「丸善店頭販売部次長時代」 52歳のころ
左から)会田貞一郎、木内憲次、入谷重治、原島定雄、福崎好信、北川和男
<編 集 後 記>
かつて祖父がお世話になった丸善時代の仲間
1人ひとりの生きた時間をもう一度輝かせたい
そんな気持ちで始めた「マルゼニアンの彰考往来」
やっと木内憲次さんのことを記事にすることができました。
美術鑑賞が大好きで足繁くあちこちの美術館に通い
広く絵画に親しんできたことが
時を超え、祖父の後輩の生きてきた時間と出逢う
「架け橋」となったこと、本当に嬉しく思っています。
本日2月11日は、木内憲次さんの誕生日です。
「関東大震災」「太平洋戦争」と大変に困難な時代を
仲間と支えあい、丸善で懸命に生きてきた憲次さんに
50年来の先輩 “ キヨさん ” と彼の最年少の孫である
「私」から深い愛情と感謝の気持ちをこめてこの記事を贈ります。
憲次さん、そしてご家族の心に私の想いが届きますように。
「 憲次さん、長きにわたるお付き合いをありがとう 」
平成31年2月11日
マルゼニアン
▶︎ 「丸善交友50年温故会 /第4回」アルバムより
<参考文献>
『 木村定三コレクション名作選 』愛知県美術館(2008年)
『 日本美術年鑑 』(2004年版)
『 熊谷守一画文集 ひとりたのしむ 』求龍堂(1998年9月)
『 増補改訂版 蒼 蝿 』求龍堂(2014年7月)
『 奈良新聞 』(2018年4月12日付朝刊)
「木村定三と熊谷守一をめぐる往復書簡(翻刻)」石崎尚・福井敦子 編/愛知県美術館
「没後40年 熊谷守一生きるよろこび 」(2017年12月1日〜2018年3月21日迄 開催)
『 学燈をかかげて 』丸善社長・司 忠 ダイヤモンド社(1967年5月)
『 学 鐙 』49 (1) 丸善株式会社 (1952年第1号)
『 学 鐙 』53 (7) 丸善株式会社 (1956年第7号)
協 力 ;岐阜県歴史資料館
※ 『丸善百年史』(下巻)1541ページ掲載の
木内憲治は誤植。正しくは「木内憲次」