明治の終わりごろのこと。
大きな看板が掲げられた。
「 婦人像(紫調べ)」
▶︎「婦人像(紫調べ)」 岡田三郎助
高橋義雄の夫人をモデルに描き、
明治40年(1907年)開催の「東京勧業博覧会」で
一等賞を受賞した洋画家・岡田三郎助の作品を
当時大きな話題を呼んだ。
▶︎ 高橋義雄(1861〜1937)
大規模な「近代化改革」を推し進めることで、誕生した日本初の 百貨店「三越」
創業者・日々翁助を三井呉服店へと引き抜いたのは、彼と旧中津藩士の中上川彦次郎だった
明治から昭和にかけて活躍した、
日本近代洋画の巨匠・岡田三郎助。
岡田三郎助は、その画塾「天真道場」に入門。
2年後、彼らとともに洋画団体である
「白馬会」創設に参加する。
その「白馬会」の付属部門という位置付けで
美術学校卒業生や一般洋画専攻者の研究機関として
「 白馬会 洋画研究所 」
レベルの高いこの研究所には、のちに
娘・麗子をモチーフにした、味わい豊かな
当時赤坂溜池にあった、この「白馬会洋画研究所」に
夜になると姿を現わす、ある1人の人物がいた。
「 画業で身を立てたい 」
誰よりも強い意志を持って
この場所へとやってくる人物。
幼いころから絵が大好きだった「彼」は
足繁く通っては、豪華な西洋の美術本を
穴があくほど見つめていたという。
それが少年だった「彼」の
一番の楽しみだった。
やってきた「彼」は
この日を境にただの
“ 美術好きの珍しい少年客 ”
ではなくなった。
▶︎ 大浦周蔵(1890〜1928)
同期入店の社員には、その後
作家・志賀直哉 や武者小路実篤ら
「白樺派」の面々に「初っさん」と
いう呼称で愛され『白樺』編集会議に
まで出席するようになる、異例の
「 ドイツ書係 」福本初太郎がいた。
<「初っさん」については、こちら>
▶︎ 写真上段左から「福本初太郎」「池上鉱次郎」
下段は、若き日の丸善重役・八田庄治(左)と内田魯庵
大正5年 (1916年)1月撮影
寄宿舎での共同生活をしなければならず
日本橋丸善とは、目と鼻の先の「 青物町 」
(現;東京都中央区日本橋三丁目) に
自宅がある周蔵も、同期の福本初太郎とともに
新入店社員が入る「 五号室 」へ。
新入店社員たちの管理係を務めた栗野 彬のもと
先輩社員の布団の上げ下ろしから
「下足番」まで厳しく躾けられた。
日中は、店内の細々した仕事の数々。
大学などへの新刊書籍の配達もした。
「正則英語学校」(現;正則学園)へ行き
懸命に英語を学ぶ。
こうした忙しい日々の中で、こっそり
「白馬会洋画研究所」にも入会し
洋画も学び続けていた。
そんな努力の積み重ねもあり、時ほどなくして
大正期 “ 画家の登竜門 ” とされていた
「二科展」に見事入選。
社長・小柳津要人からも賞讃された。
▶︎ 小柳津要人(1844〜1922)
明治33年から大正5年までの間、丸善3代目社長を務めた、旧岡崎藩士。
丸善社員だった、志賀重昂、多門(おおかど)傳十郎らとともに、
郷里岡崎の八丁味噌(カクキュー)を「宮内庁御用達」へと導いた
前途を嘱望された、有能青年社員となった
これを機に、毎月のように新聞紙面や雑誌に
▶︎ 「 図案係 」であった、大浦周蔵が手がけた
当時「三越」の装飾図案は「杉浦非水」が担当し、高評価だった。
周蔵はこれに対抗し「丸善」の装飾図案係として、大活躍した
▶︎ 「 知名商店飾り責任者の苦心談」の括りで掲載された周蔵の寄稿
出 典;『 実業の日本 』(大正8年12月発行)
記事の中で「 一工夫が必要なのは飾窓の背景 」と語る周蔵。
100年も前の人とは思えぬほど不思議とその心を近くに感じる。
対向面は「 白木屋呉服店 」で飾窓を担当した河合定五郎の寄稿
ショーウィンドウのディスプレイ 」
▶︎ 周蔵が手がけた日本橋丸善のショーウィンドウ
出 典;『 実業界 』(大正7年1月発行号掲載)
どことなくアール・デコの香りを感じる周蔵のディスプレイ。
「 意匠簡潔而かも優秀なる飾窓陳列 」というキャプションが添えられている
イギリスの月刊美術雑誌『 Studio 』
(現;『Studio International』)を始めとする
立体広告の数々は、衆目を集めて好評を博した。
▶︎ 『 Studio 』(Studio-cover-15-3-1894)
出 典;Studio International
1893年4月創刊。 現在も『Studio International』として存続する同誌は
イギリスを始め、ヨーロッパ中の建築家、デザイナーに影響を与え続けている
“ 店の顔 ” ともいえる、ショーウィンドウを
周蔵へと任せた、社長・小柳津要人を筆頭とする
繋がり、周蔵に更なる芸術活動への渇望を与えていく。
大正後半から昭和の初めにかけて
工業化や国際化により大きな転機を迎えた
近代日本の新しい造形を検証・紹介した
この中に、周蔵の手がけた
掲載されている。
▶︎「丸善インキ広告塔」 大浦周蔵作 (1924)
『Mavoマヴォー』第3号にもこの作品写真が掲載された
インキ製造。
この工作部製のインキは
しばしば博覧会等に出品され
受賞に始まり、大正3年(1914年)までに20以上の
として、一時代を築く商品となっていく。
昭和6年(1931年)開催の「 東都広告祭 」に
登場した、斬新な仕掛け付きの
「 丸善アテナインキ 」宣伝カー。
丸善ほか、90余台の他社宣伝カーと
それに続く、60台の車、仮装人員1,150人。
この パレードは、東京港区の芝公園を出発し
昭和通りを通過。上野公園まで続く
大規模なものだった。
▶︎ 昭和6年(1931年)開催の「東都広告祭」に登場した「 丸善アテナインキ宣伝カー 」
出 典:『 丸善百年史 』
社を挙げての「 商業美術 」の一大イベント。
現場を取り仕切る、社員たちの中にも
沿道でその華やかな様子を見つめる
幼いころから深く芸術を愛し
芸術という 自らの「得意技」で彩った
周蔵は、 業半ばにも至らぬまま
3年以上も前に、39歳の若さで
天へと旅立ったのだった。
▶︎ 「 丸善本社社員集合写真 」 大正9年(1920年)1月1日撮影
(東京銀座・小島信一写真館撮影)
前列 写真左から)中村春太郎、中山良謙、五十嵐清彦
後列 写真左から)大浦周蔵、加藤伊三郎
遠い昔、夭折した1人の丸善社員。
祖父にさえ生きて会うことのできなかった私が
なぜ「 大浦周蔵 」という人物の存在を知っていたのか。
それは、 祖父の旧友だった丸善「 ドイツ書係 」の
福本初太郎さんが書いた仲間へのメッセージの
随所にその名前が残されていたからである。
懐かしい丸善の仲間たちとの集まりの際には
必ず同期入社だった “ 大浦周蔵さん ” を
同席させた「 初っさん 」
もしも周蔵さんが生きてこの場所に
いてくれたら、どんなだったのだろうと
人知れず思い巡らせていたのかもしれない。
同じ時代、丸善でともに生きた仲間のことを
ずっと大切に思い続けた「 初っさん 」のために
丸善社員で芸術家だった「 大浦周蔵 」という
短くも眩しい光を放って、一時代を駆け抜けた
1人の人物が、この日本橋丸善に存在していた
ことを祖父に代わり、ここに伝え残したい。
▶︎ 自らの手がけたショーウインドウのディスプレイが
話題となっていたころの周蔵 (写真中央;大正11年ごろ)
前列左)島崎菊雄 前列右)平原暹三郎
▶︎ 冬用帽子をディスプレイした日本橋丸善のショーウィンドウ
( Design by ; Suzo Ohura, 1917 )
丸善株式会社 装飾部主任/大浦 周蔵
<参考文献>
『 実業界 』早稲田同文館(1917年1月発行号)
『 実業の日本 』実業之日本社(1919年12月1日発行)
『 丸善百年史 』 丸善株式会社(1980年発行)
資料提供;国立国会図書館
2020年2月19日写真追加および追記;遠くの周蔵さんに愛を込めて