祝『學鐙』創刊120周年 〜 北川和男 元編集長が繋いだ、親子三世代 その「心」と「絆」
昨年末の11月25日(金)熱海に新名所が誕生した。
▶︎ JR熱海駅に登場した駅ビル、LUSCA熱海(ラスカあたみ) (2017年1月27日撮影)
熱海の名産から道中必要な医薬品・日用品までが揃う
LUSCA熱海(らすかあたみ)
釜鶴ひもの店を始め、あをき干物店、
老舗和菓子店の間瀬、わさび漬けのカメヤなど、
伊豆エリアの名店が一堂に会する、そのフロアー構成。
▶︎ 1階にはおみやげ・食品・惣菜、2階には雑貨、3階にはレストラン
電車利用の人は、出発時間まで、ここでゆっくりできる。
読書好きな私は「丸善熱海出張所」がここに入って欲しいと願う
味わい溢れる、昔ながらの「熱海駅前商店街」と
是非ともセットで愉しんで欲しいと思う、
そんな新スポットだ。
▶︎ 熱海駅前、レストランフルヤさんのポークジンジャー
熱々で美味しい、東京から時折、恋しく思う一皿(2016年2月20日訪問)
日本三代温泉地として、千数百年の歴史を持つ
東伊豆の玄関口、熱海。
『徳川実紀』には、慶長9年(1604年)
湯治で逗留したという記録が残る。
谷崎潤一郎など、数多くの文豪に愛された
この街で、もっとも有名な文学作品といえば
▶︎『金色夜叉』の一場面をモチーフにした「貫一お宮の像」
15歳で両親と死別した、間 貫一。
彼には、鴫沢 宮という美しい許嫁がいた。
富豪で有名な、富山唯継の家で
開かれた、正月のカルタ会。
この席上で、人々の目を釘付けにしたのは
富山の指にキラリと光る、金剛石だった。
金剛石(ダイヤモンド)
貫一の許嫁だった宮は、富山に見初められ
また、宮もダイヤモンドに目が眩み、
貫一を裏切り、富山の元へと嫁いでゆくーー
熱海の海岸を舞台に、自分を裏切った宮を
罵倒するシーン、それがこの有名な
「貫一お宮の像」である。
明治 30年(1897年)1月1日
『讀賣新聞』にて本作品の連載が始まると、
金剛石(ダイヤモンド)の存在が
広く人々に知れ渡る。
明治の世に、一大ブームを起こした
その重篤が新聞に取り上げられたのは
明治36年 秋のこと。
出 典;『丸善百年史』(上)
枯槁憔悴(ここうしょうすい)した姿。
杖にすがり、書棚を物色している。
その姿を見つけ、対応したのは
何を買い求めに来たのかと聞いた魯庵に
紅葉は、辞書を買いに来たと言った。
「ブリタニカ大辞典が出たら、すぐ届けるから」
これが2人の最後の会話となった。
医者から3ヶ月もたないといわれた
訪れた紅葉は、その10日ほど後に
この世を去った。
ある月刊雑誌が誕生する。
『學の燈』
(まなびのともしび)
尾崎紅葉が、風前の灯火となりながらも
その向学心に背中を押されて訪れた、丸善。
その丸善がPR誌として発行した雑誌。
それが『學の燈』(のちの『學鐙』)である。
▶︎ 『學の燈』創刊号表紙 (明治30年3月15日発行)
創刊号のこの図柄は、第43号まで続いてゆく
出 典;『書物往来』 八木佐吉著
新刊書籍のPRと文芸評論を兼ねた、1冊。
創刊号の奥付に記載された、編集兼発行人は
多門(おおかど)猶次郎。
初代編集長は、その後、明治34年に入社した
作家で文芸評論家の内田魯庵。
多くの作家たちの寄稿とともに
外国文学の数々が日本に紹介された。
当時の日本人が、初めて外国文学の存在を知る、
まさに、学びの燈(ともしび)だった。
▶︎ 『學鐙』第9年第1号 表紙 (明治38年発行)
巻頭には、夏目金之助 (漱石)『カーライル博物館』が登場した
出 典;『書物往来』 八木佐吉著
『学鐙』元編集長の北川和男さんは
「梅の熱海 MOA美術館」と題し、
熱海の街で、有名な2つの「梅」について
こんな風に述べている。
「花の兄、梅の異名である。
春、百花に先がけて
気品高く咲くことからの謂であろう。
年が明けると熱海の梅林は
もうあちこちと開花、
ここは全国でも屈指の
早咲きとして名が高い」
『學鐙』(1986年2月号より抜粋)
▶︎ 熱海梅園「梅まつり」2015年初日 (2015年1月10日撮影)
樹齢100年を越す「王牡丹」をはじめ 「冬至梅」など古木が多い
「熱海にはもう一か所、見事な梅がある。
街の北、相模湾を見晴らす山の上に建つ
MOA美術館では、この時期に
光琳の傑作、二曲一双の屏風
<紅白梅図>を展覧している」
『學鐙』(1986年2月号より抜粋)
▶︎ 尾形光琳「紅白梅図屏風」江戸時代(18世紀) サイズ 各 156.0×172.2㎝
出 典;MOA美術館 公式ホームページ
光琳が描いた、一双一対のこの屏風を
北川元編集長は 「熱海梅園」1万坪の梅林に対峙する、
それほどの存在感がある、と表現している。
交流のあった、教育者の棚橋絢子女史は
梅を深く愛したことで知られる。
(号・梅香、梅巷、梅庵)
寒い季節の中、力強く花を咲かせ、
最後には、しっかりと実を結んでいくーー
梅の木の強く生きる姿に、女性としての
あるべき理想の生き方を照らし合わせたのだろう。
女性教育の大切さを訴え続けた彼女は
御年100歳まで、現役校長として教壇に立ち続け、
101歳で天寿をまっとうした。
その訃報は遠く海を越え、アメリカの日刊新聞
『ニューヨーク・タイムズ』にも掲載された。
▶︎ 棚橋絢子女史(1839~1939)
出 典 ; 愛知エースネット
昨年末、とても不思議な偶然が重なり
『学鐙』元編集長の北川和男さんが
私たち家族と深い縁(ゆかり)あることを知った。
和男さんのご尊父・北川鶴之輔さんは
私の祖父の旧友で、和男さんは、
父の会社の同僚。
双方の父子が知り合いだったのだ。
遠い歳月を越え、かつて親しくしていた、
2つの家族が再び 「いま」という、
この瞬間に繋がった、不思議な偶然。
いつまでも涙が止まらなかった。
▶︎ 丸善日本橋・洋書売場のメンバー(会田貞一郎さん、福崎好信さんほか)
写真前列・右が編集長になる前の北川和男さん(筆者推測)
後列・左の会田貞一郎さんは「丸善洋書部の大久保彦左衛門」とあだ名された
晩年の父は、毎月送られてくる『学鐙』を
とても愉しみにしていた。
封筒が届くと、すぐさまリビングから
自分の書斎へと消えていく。
全く感情を出さない父の背中から
それはそれは、嬉しそうな気配が漂っていた。
それは『學鐙』編集長が、親子2代でよく知る
北川和男さんだったからなのだろう。
▶︎『学鐙』編集室にて (平成3年撮影)
出 典 ;『 塔の旅 ー北川和男遺稿追悼集ー』 北川隆子 編
なぜこのタイミングで、この不思議な偶然に
出合ったのかはわからない。
もしかすると、『学鐙』創刊120周年の記念年に
祖父と父は、かつて親しくしていた、
北川さん親子のことを、私に伝えたかったのかもしれない。
こんな素敵な人が『学鐙』の編集長だったのだよ、と。
北川さんは「六月の誕生石」の中で
真珠について、こう表現している。
「自然の中で、人間とともに育つ宝石。
非情なまでの鋭いダイヤモンドの美しさに対して、
真珠のやわらかい肌の輝きは、
ひとの心を和ませ、豊かにさせてくれる」
『學鐙』(1988年6月号より抜粋)
『金色夜叉』のお宮は、真珠の放つ
そのあたたかな優しい光に気づくことが
できただろうか。
北川さんの遺した文章の数々から溢れ出る、
その穏やかさ、繊細さ、心の優しさ。
人にとって、もっとも大切なものは
「心」だと伝えたかった、北川和男さん。
彼自身が、明治の世から長きに渡って続く
『學鐙』歴代編集長の中で、優しくあたたかな光を放つ
真珠のような存在だったのかもしれない。
▶︎ 隆子夫人のご厚意により、我が家にお嫁入りした和男さんの遺稿集は、私の宝物だ
<参考文献>
『書物往来』 八木佐吉著(東峰書房発行)(資料ご提供;八木正自 氏)
『塔の旅』 北川和男著 北川隆子編 (資料ご提供;北川隆子 氏)