読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マルゼニアンの彰考往来

日本橋丸善を愛する私の大切な「宝箱」

祝『學鐙』創刊120周年 〜 北川和男 元編集長が繋いだ、親子三世代 その「心」と「絆」

 

昨年末の11月25日(金)熱海に新名所が誕生した。

 

f:id:koala555:20170414232235j:plain

▶︎ JR熱海駅に登場した駅ビル、LUSCA熱海(ラスカあたみ) (2017年1月27日撮影)

                   熱海の名産から道中必要な医薬品・日用品までが揃う

 

 

 

 

 

LUSCA熱海(らすかあたみ)

 

 

 

釜鶴ひもの店を始め、あをき干物店、

老舗和菓子店の間瀬、わさび漬けのカメヤなど、

伊豆エリアの名店が一堂に会する、そのフロアー構成。

 

f:id:koala555:20170414232404j:plain

▶︎  1階にはおみやげ・食品・惣菜、2階には雑貨、3階にはレストラン

           電車利用の人は、出発時間まで、ここでゆっくりできる。

      読書好きな私は「丸善熱海分店」がここに入って欲しいと願う

 

 

 

 

味わい溢れる、昔ながらの「熱海駅前商店街」と

是非ともセットで愉しんで欲しいと思う、

そんな新スポットだ。

 

f:id:koala555:20170414232531j:plain

           ▶︎ 熱海駅前、レストランフルヤさんのポークジンジャー

熱々で美味しい、東京から時折、恋しく思う一皿(2016年2月20日訪問)

 

 

 

 

日本三代温泉地として、千数百年の歴史を持つ

東伊豆の玄関口、熱海。

 

徳川実紀』には、慶長9年(1604年)

江戸幕府を開いた、徳川家康公が7日間

湯治で逗留したという記録が残る。

 

明治時代には、三島由紀夫志賀直哉

谷崎潤一郎など、数多くの文豪に愛された

この街で、もっとも有名な文学作品といえば

やはり尾崎紅葉の『金色夜叉』だろう。

 

f:id:koala555:20170414232721j:plain

          ▶︎『金色夜叉』の一場面をモチーフにした「貫一お宮の像」

 

 

 

 

 

15歳で両親と死別した、間 貫一。

彼には、鴫沢 宮という美しい許嫁がいた。

 

富豪で有名な、富山唯継の家で

開かれた、正月のカルタ会。

 

この席上で、人々の目を釘付けにしたのは

富山の指にキラリと光る、金剛石だった。

 

 

 

 

金剛石(ダイヤモンド)

 

 

 

貫一の許嫁だった宮は、富山に見初められ

また、宮もダイヤモンドに目が眩み、

貫一を裏切り、富山の元へと嫁いでゆくーー

 

熱海の海岸を舞台に、自分を裏切った宮を

罵倒するシーン、それがこの有名な

「貫一お宮の像」である。

 

 

 

 

明治 30年(1897年)1月1日

 

 

 

 

讀賣新聞』にて本作品の連載が始まると、

金剛石(ダイヤモンド)の存在が

広く人々に知れ渡る。

 

明治の世に、一大ブームを起こした

金色夜叉』著者の尾崎紅葉

 

その重篤が新聞に取り上げられたのは

明治36年 秋のこと。

 

その数日後、紅葉は、日本橋丸善に現れた。

 

f:id:koala555:20170414232846j:plain

▶︎ 『金色夜叉』作者の尾崎紅葉(1868年〜1903年) 出 典;『丸善百年史』(上)

 

 

 

 

枯槁憔悴(ここうしょうすい)した姿。

杖にすがり、書棚を物色している。

 

その姿を見つけ、対応したのは

文芸評論家で丸善社員だった、内田魯庵

 

何を買い求めに来たのかと聞いた魯庵

紅葉は、辞書を買いに来たと言った。

 

「ブリタニカ大辞典が出たら、すぐ届けるから」

 

これが2人の最後の会話となった。

 

医者から3ヶ月もたないといわれた

身体を引きづりながら、日本橋丸善

訪れた紅葉は、その10日ほど後に

この世を去った。

 

 

明治36年(1903年)10月30日のことだった。

 

 

 

尾崎紅葉が『讀賣新聞』紙面上に

金色夜叉』を発表した、明治30年。

 

ある月刊雑誌が誕生する。

 

 

 

 

『學の燈』(まなびのともしび)

 

 

 

 

尾崎紅葉が、風前の灯火となりながらも

その向学心に背中を押されて訪れた、丸善

 

その丸善がPR誌として発行した雑誌。

それが『學の燈』(のちの『學鐙』)である。

 

f:id:koala555:20170414233119j:plain

            ▶︎ 『學の燈』創刊号表紙 (明治30年3月15日発行) 

                 創刊号のこの図柄は、第43号まで続いてゆく 

                        出 典;『書物往来』 八木佐吉著 

 

 

 

 

新刊書籍のPRと文芸評論を兼ねた、1冊。

 

創刊号の奥付に記載された、編集兼発行人は

多門(おおかど)猶次郎。

 

初代編集長は、その後、明治34年に入社した

作家で文芸評論家の内田魯庵

 

夏目漱石森鴎外谷崎潤一郎ほか、

多くの作家たちの寄稿とともに

サマセット・モームトルストイなど

外国文学の数々が日本に紹介された。

 

当時の日本人が、初めて外国文学の存在を知る、

まさに、学びの燈(ともしび)だった。

 

f:id:koala555:20170414233359j:plain

               ▶︎ 『學鐙』第9年第1号 表紙 (明治38年発行)  

巻頭には、夏目金之助漱石)『カーライル博物館』が登場した

                       出 典;『書物往来』 八木佐吉著 

 

 

 

 

『学鐙』元編集長の北川和男さんは

「梅の熱海 MOA美術館」と題し、

熱海の街で、有名な2つの「梅」について

こんな風に述べている。

 

 

 

「花の兄、梅の異名である。

春、百花に先がけて

気品高く咲くことからの謂であろう。

 

年が明けると熱海の梅林は

もうあちこちと開花、

 

ここは全国でも屈指の

早咲きとして名が高い」

『學鐙』(1986年2月号より抜粋)

 

f:id:koala555:20170414233613j:plain

        ▶︎ 熱海梅園「梅まつり」2015年初日  (2015年1月10日撮影)

                          寒さの中、咲き誇る「熱海梅園」の梅の花

 

f:id:koala555:20170414233729j:plain

     ▶︎「熱海梅園」は、明治19年(1886年)開園

樹齢100年を越す「王牡丹」をはじめ 「冬至梅」など古木が多い

 



 

「熱海にはもう一か所、見事な梅がある。

街の北、相模湾を見晴らす山の上に建つ

MOA美術館では、この時期に

光琳の傑作、二曲一双の屏風

<紅白梅図>を展覧している」

『學鐙』(1986年2月号より抜粋)

 

 

f:id:koala555:20170415001105p:plain

           ▶︎ 尾形光琳紅白梅図屏風」江戸時代(18世紀) サイズ 各 156.0×172.2㎝

                                         出 典;MOA美術館 公式ホームページ

 

 

   

光琳が描いた、一双一対のこの屏風を

北川元編集長は 「熱海梅園」1万坪の梅林に対峙する、

それほどの存在感がある、と表現している。

 

 

 

福沢諭吉丸善創業者の早矢仕有的とも

交流のあった、教育者の棚橋絢子は

梅を深く愛したことで知られる。

(号・梅香、梅巷、梅庵)

 

寒い季節の中、力強く花を咲かせ、

最後には、しっかりと実を結んでいくーー

 

梅の木の強く生きる姿に、女性としての

あるべき理想の生き方を照らし合わせたのだろう。

 

性教育の大切さを訴え続けた彼女は

御年100歳まで、現役校長として教壇に立ち続け、

101歳で天寿をまっとうした。

 

その訃報は遠く海を越え、アメリカの日刊新聞

ニューヨーク・タイムズ』にも掲載された。

 

f:id:koala555:20170414234530j:plain

▶︎  棚橋絢子女史(1839~1939)

            出 典 ; 愛知エースネット

 

 

 

昨年末、不思議な偶然が重なり

『学鐙』元編集長の北川和男さんが

私たち家族と深い縁(ゆかり)あることを知った。

 

和男さんのご尊父・北川鶴之輔さんは

私の祖父の旧友で、和男さんは、

父の会社の同僚。

 

双方の父子が知り合いだったのだ。

 

遠い歳月を越え、かつて親しくしていた、

2つの家族が再び 「いま」という、

この瞬間に繋がった、不思議な偶然。

 

いつまでも涙が止まらなかった。

 

f:id:koala555:20170414234959j:plain

▶︎  丸善日本橋・洋書売場のメンバー(会田貞一郎さん、福崎好信さんほか)

 

            写真前列・右が編集長になる前の北川和男さん(筆者推測)

 後列・左の会田貞一郎さんは「丸善洋書部の大久保彦左衛門」とあだ名された

 

 

 

 

 

晩年の父は、毎月送られてくる『学鐙』を

とても愉しみにしていた。

 

封筒が届くと、すぐさまリビングから

自分の書斎へと消えていく。

 

全く感情を出さない父の背中から

それはそれは、嬉しそうな気配が漂っていた。

 

それは『學鐙』編集長が、親子2代でよく知る

北川和男さんだったからなのだろう。

 

f:id:koala555:20170414235148j:plain

                                    ▶︎『学鐙』編集室にて  (平成3年撮影)

                 出 典 ;『 塔の旅 ー北川和男遺稿追悼集ー』 北川隆子 編

 

 

 

なぜこのタイミングで、この不思議な偶然に

出合ったのかはわからない。

 

もしかすると、『学鐙』創刊120周年の記念年に

祖父と父は、かつて親しくしていた、

北川さん親子のことを、私に伝えたかったのかもしれない。

 

こんな素敵な人が『学鐙』の編集長だったのだよ、と。

 

f:id:koala555:20170414235507j:plain

 

北川さんは「六月の誕生石」の中で

真珠について、こう表現している。

 

 

 

 「自然の中で、人間とともに育つ宝石。

非情なまでの鋭いダイヤモンドの美しさに対して、

真珠のやわらかい肌の輝きは、

ひとの心を和ませ、豊かにさせてくれる」

『學鐙』(1988年6月号より抜粋)

 

 

 

金色夜叉』のお宮は、真珠の放つ

そのあたたかな優しい光に気づくことが

できただろうか。

 

北川さんの遺した文章の数々から溢れ出る、

その穏やかさ、繊細さ、心の優しさ。

 

人にとって、もっとも大切なものは

「心」だと伝えたかった、北川和男さん。

 

彼自身が、明治の世から長きに渡って続く

『學鐙』歴代編集長の中で、優しくあたたかな光を放つ

真珠のような存在だったのかもしれない。

 

f:id:koala555:20170414235731j:plain

▶︎  隆子夫人のご厚意により、我が家にお嫁入りした和男さんの遺稿集は、私の宝物だ

 

 

 

  

<参考文献>

 

丸善百年史』(昭和55年発行・丸善株式会社)

書物往来』  八木佐吉著(東峰書房発行)

『塔の旅』     北川和男著 北川隆子編

 

f:id:koala555:20170414193645j:plain