作家 三島由紀夫が自ら命を絶つ9カ月前
英国の翻訳家、ジョン・ベスターと対談した
肉声テープが、赤坂TBS内にて発見された。
▶︎ 三島由紀夫(1956年撮影;31歳) 出 典;wikipedia
約1時間20分にわたり自身の死生観、
文学論などを淡々と語るそのテープ。
その日の朝に終えた、と語っていることから
1970年2月19日に録音されたものとみられている。
数多くの作品を遺した三島。
2005年には、学習院中等科在学中の
三島由紀夫文学館に所蔵される未発表作品の中から
発見され話題となった。
▶︎『決定版三島由紀夫全集補完』(新潮社刊行)
この中に、2005年発見の作品が収録されている
『決定版三島由紀夫全集補完』に収録された
1937年(昭和12年)執筆のその作品のタイトルは
『我はいは蟻である』
主人公は、生まれたばかりの働き蟻。
重たいビスケットを運んだり、仲間の長老に
敵対する蟻のことを聞かされたりーー
なんだかどこかで聞いたことのある
そのタイトルに、思わず耳を疑ったことは
いうまでもない。
似ていると感じた作品は他にもある。
明治大正を生きた、文芸評論家で
翻訳家、小説家の内田魯庵の書いた
『犬物語』である。
慶応4年(1868年)江戸下谷車坂六軒町
(現在の台東区東上野3丁目付近)に
誕生した、内田魯庵(本名;貢)。
▶︎ 明治40年(1907年)39歳の内田魯庵 出 典; Wikipedia
彼の父・内田鉦太郎(のち正と改名)は、
父・鉦太郎は上野市中を守る「彰義隊」に参加する
そのまま1ヶ月の間、どこかへ姿を隠してしまう。
それからほどなくして明治の世となり、
父・鉦太郎は東京府に出仕するも
不安定な相場の世界へとのめり込んでいく。
父は蛎殻町のコメ相場で失敗し
ついに広大な屋敷(旧松前藩下屋敷)を
手放すことになった。
そんな父を反面教師としたのだろうか。
魯庵は文学の道を志す。
文芸評論で名を挙げた魯庵は
明治34年(1901年)丸善株式会社に
書籍部顧問として入社。
その先駆的な知識や教養を活かし、
丸善のPR雑誌である『学の燈』(のちに『学鐙』)
への執筆・編集を精力的におこなっていく。
▶︎ 『学鐙』 第113巻 第4号
2012年より年4回の季刊発行となるも
明治30年3月から続く、その “ 学びの燈(ともしび)” は、
今日も赤々と灯り続ける
これに魂を吹き込んだのは、福沢諭吉。
それに肉づけをした者こそ、
じつに内田魯庵であった
(『丸善百年史』昭和55年発行より抜粋)
20世紀の丸善にとって大変に重要だった
という、内田魯庵の存在。
現在の丸善でも、彼の「偉勲」を
目にすることができる。
今も “ 丸善の象徴 “ として
お買い上げ袋に印刷されている「フクロウ」
明治30年代頃より、丸善から出版される本には
MとZの組み合わせで「フクロウ」を模った
マークを使用しているという。
このモデルとなったのは「知恵の女神・アテナ神」と
その使者である「フクロウ」
これらを “ 丸善の象徴 ” として考案したのは
内田魯庵ではないか、と出版人で
丸善OB の八木佐吉氏はそう推測する。
▶︎ 八木佐吉著『書物往来』(東峰書房刊行)
ご子息・正自さんのご厚意により、いただいた1冊。
丸善の歴史を後世へと遺した、佐吉さんの功績を忘れてはならない
大正 8年(1919年) 創業 50周年
丸善では、過去に功績のあった
先人たち6氏を選出。
3月22日にその追悼会が
本郷の駒込・吉祥寺にて執行された。
▶︎ 本駒込「諏訪山 吉祥寺」(東京都文京区本駒込3-19-17)
旧幕府軍総裁・榎本武揚がその妻多津とともに、静かに眠る吉祥寺
伊村克己(岩村藩士)
金沢廉吉(岩村藩士)
三次半七(江戸出身・岩村藩士の従者)
斎藤豊八
松下鐡三郎(豊橋藩士・2代目社長)
しながら、見習生たちに、電話での話し方や
取り扱い方を教えていたという
多門(おおかど)傳十郎。
丸善OBで祖父の親友だった、
間宮不二雄さんは
「いつも長い髭をたくわえ、
黒木綿の紋付袴を着用され
とても身だしなみの良い老人だった」
こう当時を振り返っている。
多門氏は、三代目社長の小柳津要人同様
岡崎藩士の家柄だった。
本多岡崎藩家臣団で、私の五世祖父の家系同様、
本多平八郎忠勝公時代から、その名を連ねる名家
(700石)で、子息・猶次郎とともに、
丸善に勤務していた。
▶︎ 徳川四天王・本多平八郎忠勝公 出 典;Wikipedia
その昔、本郷・森川町一番地にあった、本多岡崎藩江戸藩邸。
敷地内の「龍城館」には、藩士やその家族が暮らせる邸宅があった
関わり合う仲間を大切にーー
どんな時も先人への感謝の気持ちを忘れない、
そうした「三河武士」の心意気と、折り目正しさを
1人ずつが大切にしていたのではないか、そう思う。
この追悼会執行とともに、社員には祝意として
等級に応じ「フクロウ文鎮」ほか全3種の
新海竹太郎作・記念品が配られた。
新海竹太郎は、当時「帝室技芸員」
優秀な美術家・工芸家に対して
宮内省(戦前)から与えられる「顕彰」を
背負った、日本を代表する著名な彫刻家だった。
▶︎ フクロウ文鎮の裏面。丸善50周年の文字が刻まれている
社員1人ひとりに配られた、社のシンボル。
丸善にとって「フクロウ」はそれほど
歴史ある “ 大切な象徴 ” なのだということを
今ここに伝え残したい。
前述の彼の著作『犬物語』は、夏目漱石が
『吾輩は猫である』を発表する3年前
1902年(明治35年)の作品である。
そのインパクトの強い江戸っ子口調に
心をぐっと掴まれた。
「俺かい。俺は昔しお万の覆した油を
甞アめて了つた太郎どんの犬さ。
其の俺の身の上噺が聞きたいと。
四つ足の俺に咄して聞かせるやうな
履歴があるもんか」
(内田魯庵著『犬物語』『社会百面相』(博文館刊行)より抜粋)
舞台はお屋敷町・千代田区番町。
外国帰りの裕福なご令嬢に飼われている
まじりっけなしの日本犬である「俺」
飼い犬の視点から、次々と人間模様を描写する
この小説は、まさに『吾輩は猫である』の
先駆的作品ともいえる。
魯庵ならではの、鋭い風刺加減はもとより
この中に描かれている、プードルやマスティフ、
幅広い犬種には、目を見張るものがある。
この作品を発表した数年後に訪れる、
魯庵は、どう感じたのだろうか。
▶︎夏目漱石43歳頃(明治43年4月撮影)『漱石全集』第9巻 『門』 口絵
明治38年(1905年)10月29日
卒業演奏会を聴きに、寺田寅彦と上野を訪れた
イルミネーションを見て、夜9時頃に
書斎の机には、1通の手紙。
差出人は「内田魯庵」
『吾輩は猫である』を賞賛する書面と
ともに同封されていたのは
27枚もの「猫の絵葉書」だった。
粋な計らいに漱石は感激したのだろう。
早速魯庵へ返事を書いた。
その追伸にこんな茶目っ気のある
一文があった。
猫儀只今睡眠中につき
小生より代わって御返事申上候
「百年の知己」と表現している。
その感覚の鋭さ、上品な知性を賞賛。
『猫』『坊ちやん』『草枕』『ロンドン塔』
そして『学鐙』に寄稿してもらった
「カーライル博物館」を挙げている。
また、漱石は気難しいところもあり、
何かと都合をつけ、来客を返してしまうことが
多かったというが、魯庵だけは、
突然訪ねて行っても、2〜3時間は話込んだという。
そんな嘘のつけない、正直な2人だからこそ、
お互い胸襟を開き、語り合うことが
できたのかもしれない。
▶︎ 旧幕府軍・土方歳三が11歳の時、奉公に来た歴史あるデパート
昭和4年(1929年)2月、上野松坂屋のある
この街を舞台に『下谷広小路』を執筆していた
内田魯庵は脳溢血で倒れ、言葉を失う。
そして同年6月29日、61歳で旅立った。
▶︎ 丸善株式会社 社員写真帖(昭和4年1月発行)
巻頭の重役・部長ページより 丸囲みの人物・右上が「内田貢」
この社員写真帖が発行された5ヶ月後、魯庵は旅立った
“ 猫年か ”と思う位、数多くの「猫葉書」が
彼の元へ届いたという。
漱石が保管し続けたといわれる、数百枚にも及ぶ
「猫葉書」のうち、数枚が昨年公開された。
その中の1枚に、内田魯庵が送ったとされる
ニューイヤーカードが紹介されていた。
▶︎ 2016年5月4日付『朝日新聞』紙面 より
なんともかわいいらしい。
毒舌な魯庵が送ったカードとは
とても思えない。
「失敬極まる――
此奴め、ワンワンワンワン!」
(内田魯庵『犬物語』より抜粋)
魯庵からこんなお叱りを受けそうなので
そろそろこの辺で。
<参考文献>
『圕とわが人生』間宮不二雄著(丸善OB・日本図書館協会理事)