その昔、江戸へと向かう船舶の寄港地として
大いに栄えた下田港。
▶︎ 下田港に佇む、マシュー・ペリー像 2017年3月18日訪問・撮影
我が家の “ ラストサムライ ” だった
高祖父・泰輔が書き残した日記に
度々登場するこの町は
幕末の息吹を感じることのできる
私の大好きな場所の1つでもある。
▶︎ 現在も昔のままの姿を残す「安直楼」 2014年5月3日訪問・撮影
日米修好通商条約締結のため来日した、初代駐日公使 タウンゼント・ハリス。
彼のお世話係として幕府から指名された、斎藤きちが明治期に経営した飲食店
下田港の目と鼻の先にある
静かな町「蓮台寺」
いまから約700年も前に廃寺となった
寺の名をそっと残すこの町には
皮膚病の治療のため訪れた温泉が残る。
▶︎ 下田市蓮台寺にある共同風呂「上の湯」 2015年9月19日訪問・撮影
下田湊に停泊中の黒船に便乗すべく
この共同風呂に入浴していた。
見かけぬ顔の青年たちの姿を目にした
地元の医師・村山 行馬郎は
ある日そっと声をかけた。
「日本の未来のため 欧米列強に
対抗できる日本を作りたい。
そのために広く世界をみなければならないのです」
事情を知った六十八歳の村山医師は
若く情熱溢れる、2人の若者たちを
自宅にそっと匿った。
▶︎ 村山医師が松陰と重之輔をかくまった自宅は 「吉田松陰寓寄処」として姿を残す
平屋で藁葺屋根の外観。
向学心溢れる大変に素晴らしい職員の方が「松陰先生」について熱く解説してくださった
外からみれば、1階のみのつくりだが
“ 隠し階段 ” をのぼると2階がある。
▶︎ 当時、この窓の外には、多く木が生い茂っていたため、外から確認できなかった
この8畳ほどの天井の低い部屋に
密航の機会を窺っていた。
「瓜中 萬ニ(くわのうち まんじ)」
「市木 公太( いちぎ こうた )」
2人はそれぞれに偽名を使用し
この部屋のこの机上で
手紙を懸命にしたためた。
▶︎ 吉田松陰と金子重之輔が使用した机 (吉田松陰寓寄処蔵)
自分たちがどんなに異国の地に行きたいのかを
どれほど危険なことを冒しているのかを
一生懸命に伝える手紙。
漢字全てにルビがふられていることからも
何としてでもまっすぐな強い思いを伝えようとする
その熱意・必死さが手にとるように感じられる。
最後は、こう締め括られている。
「柿崎村の浜辺へ 伝馬舟一艘
寄せていますので迎えに来てください
甲寅三月二十二日 市木 公太 瓜中 萬二」
艦隊士官のポケットに
この手紙を忍び込ませた二人は
翌日の深夜、小舟に乗り込み
日本人を合衆国に連れて行きたいと切に思うも
艦隊は暫く下田に滞在している予定なので
日本側に許可を求める、十分な機会があると伝える。
2人は提督のこの回答を聞き
陸に帰れば、自分たちは斬首されると断言。
どうにかこの船に留めてくれと懇願した。
どれほどの長い間、議論がおこなわれたのだろう。
2人は自分たちの出せる全ての言葉を駆使し
相手の心に訴えたに違いない。
この機会を逃せば、捕まり死罪は免れない。
まさに「必死」なのだから。
しかしその願い空しく、一隻のボートが下ろされ
▶︎ 松陰たちも目にしたかもしれない、下田・白浜海岸の美しい浜辺 2017年1月28日撮影
「広く世界をみてみたい」
誰もが心に抱くごく自然な思い。
閉ざされていたこの時代であれば
なおのこと、大いに讃えるべき「好奇心」
しかし、そうした熱い思いが
許されることは決してなかった。
「親思うこころにまさる親ごころ
けふの音づれ何ときくらん
松陰 詠 」
投獄され、いつかは処刑される
自分のこの身の上を知ったら
どんなに親は悲しむことだろう。
松陰の「親」や「家族」を思う気持ち。
そして自分のこの苦しい気持ち以上に
親は自分を思ってくれているだろうと
そっと思いを馳せるやさしさ。
親子相互の深い愛情がよく伝わってくる歌である。
「これは、松陰先生の辞世の句です」
「私たちはこの句を広めたいと思っています」
松陰先生への “ 熱い思い ” を込めた
手作りの素敵な栞を「
吉田松陰寓寄処」の方から頂戴した。
▶︎ 「吉田松陰寓寄処」の方にいただいた、手作りの栞。思い出の詰まった「大切な宝物」
今現在もカリフォルニアの地で
大切に保管されているのです」
目を輝かせながら教えてくれたこの話が
なぜか私の心の奥底で強く強く
いつまでも響き続けていた。
なぜだか理由はわからないが
私の心をぎゅっとつかんで離さなかった。
平成 29年(2017年)3月
140年ぶりに日本に里帰りしたという
ニュースを耳にし、大きな驚きとともに
桐生出身の実業家・新井領一郎に
昭和62年(1987年)に出版した『絹と武士』の中で
触れていたが、長年その所在はわからなかった。
明治 9年(1876年)3月10日
いままさに太平洋を越えようとしていた。
東京順天堂の第2代堂主(順天堂医院初代院長)
横浜港に停泊中の蒸気船・オーシャニック号に
乗り込む、5人の青年たちの姿。
その一団の中に
新井領一郎の姿があった。
▶︎ 蒸気船・オーシャニック号(RMS Oceanic ; 1871年)
「王様のヨット」と呼ばれた、大型客船。イギリスのホワイト・スター・ライン社建造。
大西洋航路で活躍した後、太平洋航路(サンフランシスコ、ハワイ、横浜、上海)に使用された
米国・ニューヨークの地で
ビジネスを学ぶことを目的に
佐藤百太郎により「米国商法実習生」として
集められた5人の青年たち。
生糸の市場開拓を目指す・新井領一郎
丸屋商社(現;丸 善)代表・鈴木東一郎
狭山会社(製茶)代表・増田 林三郎
▶︎ アメリカを目指した、佐藤百太郎と「米国商法実習生」 たち 明治9年撮影
出 典;森村商事株式会社(MORIMURA BROS., INC)
写真前列左から)新井領一郎(21)佐藤百太郎(23)増田林三郎(18)伊達忠七(26)
写真後列左から)鈴木東一郎(21)森村 豊(22) ※ カッコ内は年齢
のちに “ オーシャニック グループ ” と呼ばれる
彼らを乗せた、1,047名乗船のオーシャニック号は
同日午後5時、横浜港を出港していった。
東の佐倉順天堂」
佐倉泰然が始めた「佐倉順天堂」
長崎にて遊学中だった
佐藤泰然の次男・松本良順に師事。
その後、郷里に戻り、祖父と父に続き
▶︎ 松本良順(1832〜1907)
出 典;Wikipedia
幼名 佐藤順之助。長崎にてオランダ軍医・ポンペに蘭学を学ぶ。
「幕府陸軍医」として戊辰戦争に従軍した、小柳津要人の戦友でもある
“ もっとも優れた弟子の中から
ことができなかった百太郎。
▶︎ 佐藤百太郎(1853〜1910)
不憫に思った泰然の配慮により
「米国留学」をすることになった。
そこで出合ったのが「米国商法」だった。
明治8年(1875年)ニューヨークのマンハッタンに
日本品の輸入と米国品の輸出をおこなう
“ 初の日本人経営デパート ” と呼ばれる
「日本・亜米利加両国組合会社」を開いた。
「米国で日本人が経営する商店を開設するには
まず日本人ビジネスマンをニューヨークへ
連れていかなければならない」
こうして「米国商法実習生」の募集が始まった。
17歳から27歳までの身体が健全な人。
略略英語に通じ、商工業に多少心得のあるもの。
往復の旅費400円および
1カ年の修行入費400円支払えるもの。
商業上の実習を目的とするもの。
この応募条件をクリアして選ばれたのが
5人の青年たちだった。
当時、外国商館を通さない直輸入業を
福澤諭吉の強い推薦あって
「米国商法実習生」に参加した
森村 豊は、ニューヨークの地で
兄・森村市左衛門と「日之出商会」
(のちの「森村ブラザーズ」)を開業。
その後、徐々に経営を拡大。
現在の「ノリタケカンパニーリミテド」
「TOTO」設立へと繋がっていった。
▶︎ 森村 豊 と兄・森村市左衛門
出 典;TOTO株式会社
福澤諭吉の「自主独立」の考えに感銘を受けた兄が、弟・豊(とよ)を米国へ送り出した
京都・西陣から出発した、伊達(早川)忠七は
度々海外に渡航し、三井物産會社で活躍した。
▶︎ 伊達忠七(早川忠七)
出 典;『国際ビジネスマンの誕生』口絵
吉田松陰の “ 魂 ” を携えた新井領一郎は
佐藤百太郎の「日本米国用達社」を拠点に
生糸の販促活動を開始。
外国商館を通さない、直輸入での
生糸ビジネスを日本人で初めて成功させ
実業家の道を歩んでいく。
▶︎ 新井領一郎(1855〜1939)
出 典;『絹と武士』 口絵
海外で生活すると改めて自国「日本」の
魅力や素晴らしさを再認識するものだが
それはいまも昔もかわらないのだろうか。
1年2ヶ月の米国留学を経て
西南戦争真っ只中の日本に帰国した
丸屋(丸善)社員の鈴木東一郎は
こんな思いを友人に告げた。
「米国の技術はすごいけれど
花火の技術に関しては日本は負けないさ。
▶︎ 『横浜花火図録』( 花火師・平山甚太が明治期、米国輸出用に作成した「花火カタログ」)
出 典;神奈川県立図書館
このカタログを発行した「平山煙火製造所」は、平山甚太が旧中津藩士で慶應義塾出身の岩田茂穂と
明治10年(1877年)に、横浜に共同で設立した花火会社である
この話を聞いた、横浜に暮らす
同郷・三河吉田(豊橋)の花火師
平山甚太と仲間たちは大いに喜んだ。
明治10年(1877年)11月3日
天長節の祝日
▶︎ 「豊橋祇園祭」を彩る、力強く美しい花火
出 典;TASUKI(豊橋煙火社長インタビューページ)
横浜の夜空を美しい花火が彩った。
「日本の花火の素晴らしさを外国人たちに見せてやろう」
「花火技術」をベースに
新たに開発した、色付き花火(=西洋花火)が
次々打ち上がった。
それは、午後3時から深夜0時に至るまで続き
多くの観衆の目を釘付けにした。
東一郎の仲間である、
豊橋出身の花火師たちによって催された
日本初の「西洋花火大会」の壮観さに酔いしれる人々。
▶︎ 福澤諭吉(1835〜1901)
出 典;『近世名士写真 其1,2 』 国立国会図書館オンライン
この日の花火大会を県に申請したのは、旧三河吉田(豊橋)藩士で横浜在住の花火師・平山甚太だった
彼は中村道太の弟で、花火制作のほか関内にて旅館「伊東屋」も経営。福澤諭吉も度々利用していた
福澤が記した小文「煙火目録之序」の中に
鈴木東一郎のことがこう書き残されている。
友人に告げて曰く『 亜米利加百般の技術光明なるの
固より多しと雖(いえど)も煙火の術に至ては
遠く我日本人の技術に及ばざるが如し』(中略)
友人は 則ち旧同藩の平山甚太これを聞て大いに悦び
其同志、中尾、奥村、倉垣、 両仙河、小林と謀りて
祝日をもって横濱の公園内に場を設け
午後3時から12時に至るまで大小300余発を放揚したり」
(『横濱毎日新聞』掲載「煙火目録之序」より抜粋 )
▶︎ 中村道太(1836〜1921)
出 典;神奈川県立歴史博物館
旧三河吉田(豊橋)藩士から幕府公用人となり、勝海舟や福澤諭吉を知る。
豊橋で「好問社」を設立。女子教育に力を尽くすとともに、士族授産のため
中村屋(洋物商)を立ち上げる。丸善経営、第八国立銀行設立などをおこなった
鈴木東一郎の保証人として
関係が密接だった阿部泰蔵は
▶︎ 阿部泰蔵(1849〜1924)
出 典;Bibliographical Database of Keio Economists
旧三河吉田(豊橋)藩士。穂積清軒とその叔父の幕臣・中島三郎助に蘭学を学ぶ
新しい時代へと変わりゆく中
東一郎の姿だけはどこにもなかった。
あの日、横浜の空を彩った花火が
眩しい光を放ち、パッと一瞬で消えたように
彼の存在だけがこの世から切り取られ
時の流れの中に埋没していった。
▶︎ 幼き日の鈴木東一郎(右)と門野幾之進(左)
出 典;『 国際ビジネスマンの誕生』口絵(慶應義塾図書館蔵)
門野幾之進は、東一郎とともに明治2年に慶應義塾生となり、若干15歳で慶應の教壇に立った。
慶応義塾教員・副社頭。 明治37年(1904年)阿部泰造らと千代田生命を創設した
35年も前に派遣された、鈴木東一郎こそが
▶︎ 『丸善百年史』の中で “ 初洋行社員 ” と記載される、松下領三(中央) 筆者私物
写真左)丸善6代目社長・金沢末吉 写真右)丸善5代目社長・山崎信興
松下領三は、旧三河吉田(豊橋)藩士の2代目社長・松下鉄三郎の令息。一族で丸善に貢献した
太平洋を渡った人物が、同じ仲間内にいたこと。
140年も前に何かに思い悩み
帰国後、自ら命を絶ってしまった
1人の青年の「心」を思い、涙が出た。
あの日の花火には、同郷の仲間たちから彼への
“ 鎮魂の祈り ” が込められていたのかもしれない。
多くの人々へと投げかけたメッセージの末尾には
こんなことが書かれている。
開港既に二十の星霜を経たり
事物漸く秩序を成し
人応漸く沈着するに至らば
彼の埋没したるものも更に世に出て
恰(あたか)も再び晴天白日に逢ひ
之を脩治改良して眞の聲價を得ることある可きや必せり
「日本の西洋化が進む中、二十年の歳月を経て
すっかり埋没しかけた日本文化にも
再び焦点が当たり、必ずいつか真の評価を得るだろう」
年月を経て、見直された日本の花火のことを
表現したく、記載した一文なのかもしれないが
再び日が当たった、この日本の伝統文化のように
次第に人々の記憶から消され、埋もれていくであろう
東一郎の生きた時間にも
いつの日か必ず「光」が差し込む時がくるだろう。
そんな “ 切なる願い ” を福澤がそっとこの文の中に
封じ込めたような気がして、胸が痛かった。
鈴木東一郎は、明治初期に異国の地で
ビジネスの勉強をした日本人の「魁」であり
また、人々が西洋化へと突き進む中
“ 日本の素晴らしさ ” を人々に再認識させた
日本人の「魁」ではなかろうか。
素晴らしい未来があった筈のかわいい教え子に向けられた
福澤諭吉の静かな賛美の言葉は、140年経ったいまも
少しも色褪せることなく、後世を生きる私たちに
その日の出来事、その一瞬の輝きを伝え続ける。
人生には色々なことがある。
生きていくのが辛いと感じることもある。
それでもやはり命ある限り
生きていかなければならないのだと
東一郎に教えられた気がする。
1人の人間の突然の死は、こんなにも
周りの人の心を深く傷つけるのだから。
在りし日の足跡をその地名に刻み残したように
たくさんの仲間たちに愛されていたことを
「私」が遠い時を超え、ここにそっと残したい。
彼の生きた22年の人生を
いまそっと「光」で照らしたい。
Special thanks to Mr. KIYAMA.
関西学院大学教授 木山 実氏のご研究に深く感謝いたします。
「明治10年『天長節 横濱花火』」
打ち上げメンバー
三州・豊橋 平山 甚太
三州・豊橋 奥村 巌
三州・豊橋 倉垣 義男
三州・豊橋 仙河 左太郎
三州・豊橋 仙河 亥十
三州・豊橋 小林 吉蔵
明治期に平山甚太の作成した「平山花火」の現物2点が
オランダで発見され、平成25年(2013年)横浜に里帰りした。
現在「横浜開港資料館」で大切に大切に保管されている。
( オランダ在住;勝山 光郎氏 寄贈 )
▶︎ 「平山煙火製造所の昼花火」
出 典;「横浜開港資料館」
赤い漆が塗られた、直径約14㌢の「昼花火」
平山煙火製造所では、輸出する際に夜花火は「黒」昼花火には「赤」の漆を塗った
▶︎ 人形(袋物)花火
出 典;「横浜開港資料館」
約2㍍15㌢の円筒形の西洋人をイメージした花火
<参考文献>
『 丸善社史 』丸善株式会社 編(昭和26年発行)
『 慶應義塾総覧 』 慶應義塾 編(明治41年発行)
『 慶応義塾出身名流列伝 』三田商業研究会 編(明治42年6月発行)
「横浜の花火師 平山甚太」 櫻井孝著 『 web版 有鄰』第527号
『 かながわニュースレター 』第60号(2017年6月発行)
『 開港のひろば 』 第125号 (2014年7月16日発行)
『 東京新聞 TOKYO Web 』 2017年3月29日付