祖父が親しくしていた友人に
福本初太郎さんという方がいる。
通称「初っさん」
明治37年(1904年)4月1日。
後に丸善株式会社5代目社長となる、
山崎信興氏の元、仕事のノウハウを学び、
その後「万年筆」という名のルーツとなったといわれる、
洋書部・金澤井吉氏の部下となり、ドイツ書を中心とした、
「洋書係」をつとめた人物である。
▶︎ 大正5年(1916年)撮影・丸善株式会社・集合写真より
前列左より、丸善3代目社長・小柳津要人氏、後に4代目社長となる、中村重久氏、八田庄治、内田魯庵
後列右から2人目が、丸善在職時の福本初太郎氏(筆者推測)
出逢ってから、50年以上。
祖父が先に天に召されるその日まで
2人は「温故会」の一員として
長きにわたり親しくしていた。
その福本さんが生涯「師」と仰いでいた人物がいる。
ラファエル・フォン・ケーベル
ドイツ哲学、哲学史などの講義を行い
我が国における、哲学の黎明期に、多大なる影響を与えた彼は
ピアノを教えるなど、あの滝廉太郎にも
大きな影響を及ぼしたという。
教え子の中には、文豪・夏目漱石もいた。
漱石はその著作『ケーベル先生』の中で
こんな風に記している。
「東京帝国大学の文科生徒に
“ 一番尊敬する教授は? ” と尋ねると、
100人中90人は、 日本人教授をさておいて、
“ フォン・ケーベル ” と答えるだろう」
秋の紅葉を愛でようと、
伊豆・修善寺の町へと向かう途中
車窓に流れる景色を見つめながら、
そんなことを思い浮かべていた。
▶︎ 伊豆・修善寺。正式名称「福地山修禅萬安禅寺」
この日も多くの人々が訪れ、参拝には絶えず行列ができていた(2016年11月27日訪問・撮影)
療養のために訪れたのが、ここ修善寺温泉だった。
8月6日
十一時の汽車で修善寺に向ふ。
東洋城来らず、白切符二枚懐中して乗る。
(岩波書店発行『漱石全集』第25巻 日記及び断片 中 より抜粋)
東洋城とは、漱石の門下生で俳人の “ 松根東洋城 ” のこと。
この静かな街で、読書をしたり、散歩をしたり
温泉に浸かり静養する筈が、漱石は胃痙攣を起こし
その後、2ヶ月あまり、床に伏す毎日を送ることになる。
四季折々に、趣ある修善寺の街。
中でも一番は、やはりこの秋の紅葉だろう。
▶︎桂川から臨む、修善寺の門前。いつもより多くの人で賑わっていた
この日は、修善寺の庭園・東海第一園が
特別公開されていた。
▶︎ <秋の特別公開>修善寺・東海第一庭園 ~2016年11月30日まで開催
明治38年(1905年)に拝領・移築したものが
この修善寺庭園の始まりといわれる。
▶︎ 修善寺庭園・東海第一園の中庭
福地山 修善寺 公式ホームページより
下賜された建物は老朽化のため、
昭和初頭に建て変えられるも
庭園は当時のままの姿を残す。
修善寺を訪れた際、この庭園をご覧になり
「東海第一の庭園である」と仰ったことから
「東海第一園」と呼ばれるようになった。
美しい錦鯉たち。
大小の岩を積み、作られた見事な滝。
▶︎ 修善寺庭園の上からの景色。高低差に富んだ作りあることが、体感できる
伊豆の名刹が大切に大切に守り続けてきた、
由緒ある庭園での秋のひと時に、心が安らぐ。
桂川沿いの「竹林の小径」も色づいていた。
紅葉の美しさよりも「今年は人が多い」という印象が強かった。
10月11日(火)
愈(いよいよ)帰る日也。
雨濠々。人々天を仰ぐ。
荷拵出来。九時出立の筈。
二月目にてはじめて戸外の景色を見る。
雨ながら樂し。
目に入るものは、皆新なり。
稲の色尤も目を惹く。
山々僅かに紅葉す。
秋になって又来しと願ふ。
(岩波書店発行『漱石全集』第25巻 日記及び断片 中 より抜粋)
大量吐血し、一時は生死の境を彷徨う
危篤状態に陥った漱石は、東京に帰る道すがら、
馬車から見える、伊豆の秋の風景を目にし
来年の秋にも、またこの場所に来たいといった。
目にするものすべてを新鮮に感じ、
生きていることの素晴らしさを実感すると同時に
自然の移り変わりの中、それに抗うことなく、
寄り添うように生きる植物たちの姿に
「なにか」を感じたのだろう。
「小さな私を捨て、身を天地自然に委ねて生きる」
漱石が晩年至ったこの「則天去私」の文学観。
そのターニングポイントになったのが
漱石同様、ケーベル先生を敬愛し続けた
福本初太郎さんのことを
小説家・詩人の武者小路実篤は
こんな風に記載している。
「その時分、丸善には、僕達が『初さん』と
呼んでいた、若い気が利いた、要領のいい、
親切な店員がいたので、この人に頼んで、
西洋からとってもらった」
(『学鐙』昭和27年1月号掲載「丸善の思い出」より抜粋)
この「初さん」こそ、福本初太郎さんである。
文学愛好家であると同時に、美術愛好家であった
ドイツの芸術雑誌の中で、
若い芸術家に影響を与えているという、
ゴッホなる人物の名前を目にする。
どんな絵なのだろう、そう思った武者小路は
「印象派」というタイトルの洋書を取り寄せた。
到着したその本の中の口絵をみて、
異口同音にこういっただろう。
「これがゴォホ(ゴッホ)の絵か」
「白樺派」の面々だった。
「白樺美術館」構想を練り、なんとか
ゴッホの絵を日本に購入しようと、意気込む。
彼らの友人・実業家の山本顧彌太が
ゴッホの「ひまわり」を当時2万円で、
日本にはじめてやって来た、
間接的ではあるも、このできごとは
丸善の仲介によるもので、
我らが「初っさん」の頑張りがあったからなのだとわかり
美術好きの私は、なんとも言えない気持ちになった。
こうした背景があり 「初っさん」は
白樺派の人たちと交流を深め
『白樺』創刊前から、あれこれ相談を受けたのだった。
▶︎ 1910年4月創刊 雑誌『白樺』創刊号の表紙
度々その「編集会議」にも出席し、
出向き、校正作業の手伝いをしたこともあったという。
編集者は、信頼ある人物にしか
掲載前の原稿を見せないし、校正など任せない。
「初っさん」あなたは、どれだけ信頼されて、
どれだけ多くの人たちに愛されたのーー。
知らなかったよ。
溢れ出る思いと同時に、祖父の親友「初っさん」が
その昔、私の愛し暮らすこの街へと『白樺』の校正作業のため
足繁く通っていたことがわかり
その不思議な偶然に涙が止まらなくなった。
▶︎ 丸善「温故会」のメンバー(昭和31年12月撮影)
前列左より)斎藤哲郎 、伊藤四良、日下定次郎、玉井弥平
後列左より)間宮不二雄、福本初太郎、井上清太郎、五十嵐清彦、木内憲次
昭和31年12月19日、第四回「温故会」の集まりが
浅草・米久で開催された。
その詩「米久の晩餐」で詠んだ、
浅草にある、牛鍋の老舗である。
まだ若く、お肉をたくさん食べたい時に
皆で何度も来た、懐かしい思い出の店だった。
割り下を入れた鍋のことを忘れ、焦げつかせてしまうほど
お互い元気で、また会えたことを喜び、笑い、語り合った。
その際、全員で作成した寄せ書きに、
福本さんは自身が得意とした「囲碁」を引き合いに、
こんなメッセージを残している。
それは囲碁に必要な「心得」としながらも
人生を生き抜く上で、大切な教訓ばかりだった。
「要の石を捨てるな」
福本さんの生きた人生は、2度に渡る世界大戦、
そして関東大震災などが起きた、大変な時代だった。
神奈川県平塚市にあった「海軍火薬廠」に
奉職したこともあった。
次々遭遇する困難の中、「要」となる石を抱き続けた
福本さんは、大正15年 (1926年)9月、東大・赤門前に
ついにドイツ書販売の「福本書院」を開店させる。
生涯に渡り貫いた福本さんは、こんな言葉で、
大切な仲間たちへのメッセージを締めくくっている。
「明治三十八年夏頃、立小便の廉により
全弐拾銭(?)の科料に処せられたる以外、賞罰なし」
このユーモアのセンスこそ、福本さんが「白樺派」の
面々に愛された理由かもしれない。
福本さんの残した人間味溢れる、
あたたかな言葉の数々は、
遠い遠い歳月を乗り超え、親友の孫である
「私」に勇気を与え続けている。
<参考文献>
『丸善百年史』 昭和55年(1980年)発行