日本橋丸善と切磋琢磨した、明治の実業家「 清水卯三郎 」
慶應3年(1867年)1月11日。
一隻の船がフランスに向かい
横浜港を出航した。
フランス船「アルフェト号」
乗船していたのは、15代将軍
筆頭とする、40名ほどの日本人の一団。
出 典;松戸市戸定歴史館公式ホームページ
一行は、パリで開催される
万国博覧会に参加するため
一路フランスを目指していた。
「日本国将軍代理」として参加した
徳川昭武公は、この時14歳。
この一団には、その後の明治の世で
約500の企業育成、約600の社会公共
事業や民間外交に尽力していく
▶︎ 渋沢栄一(1840-1931)
出 典;公益財団法人 渋沢栄一記念財団ホームページ
従兄・渋沢成一郎(渋沢喜作)は「彰義隊」 頭取 として、戊辰戦争を箱館まで戦い抜いた
首席教授・箕作阮甫の孫 、箕作貞一郎(隣祥)
▶︎ 箕作貞一郎(麟祥)(1846-1897)
出 典;Wikipedia
箕作阮甫の娘・しんと水沢藩下級武士・佐々木省吾(箕作省吾)の子。
蘭学、英学に通じた彼は、22歳で翻訳御用として、徳川一行に参加した
この翌年に勃発する、戊辰戦争の際
戦うことになる、幕府・奥医師の高松凌雲。
▶︎ 高松凌雲(1837-1916)
緒方洪庵の適塾出身者。一橋家の専属医師を経て、幕府の奥医師へ。
箱館戦争時に「箱館病院」を開院。日本における赤十字運動の先駆者
凌雲と同じく戊辰戦争において
旧幕府軍の一員となり
書記官・通訳として行動をともにする
幕臣の山内六三郎(堤雲)らが乗船していた。
▶︎ 山内堤雲(1838-1923)
出 典;Wikipedia
母方の叔父は、旧幕府軍の従軍医師・松本良順の父で
フランスのマルセイユ港に到着したのは
慶應3年(1867年)2月29日の朝のこと。
▶︎ パリ万国博覧会に向かった、徳川昭武公率いる「日本使節団」
出 典;松戸市公式ホームページ
1867年のパリ万国博覧会は、1867年4月から10月1日までフランス・パリで
開催された国際博覧会。42ヶ国が参加し、会期中1,500万人が来場した
薩摩藩は「独自の勲章」を作成・配布 するなど、独立政府として出品。
日本の正当政府としての立場をアピール したい幕府との対立が生じた
▶︎ 箕作秋坪(1826-1886)
出 典;Wikipedia
「慶應義塾」と並び称される、洋学塾「三叉学舎」を開設した
パリ万国博覧会で、人気をあつめた
「日本茶屋」 は、清水卯三郎が
日本で実際に使われていた茶屋の
建物を解体して運び、大工に
建てさせたものだった。
立体ブースにすることにより
「日本の空間」を体感してもらおうという
その斬新なアイデアは、大当たり。
卯三郎は、ナポレオン三世から
銀メダルを授与されたのだった。
出 典;Wikipedia
慶應4年(1868年)日本に帰国した
卯三郎は、浅草に「瑞穂屋」を開店。
洋書や歯科医療器具などの輸入販売を行う
貿易商となった。
翌年、卯三郎は店の移転を行う。
その場所は、日本橋本町三丁目。
西洋書籍、活版印刷機、西洋花火、
薬品、器械類の輸入ならびに、出版等の事業。
まさに、丸善の競合相手だった。
▶︎『かなのしをり』物集高見著 表 紙
出 典;国立国会図書館デジタルコレクション(表紙・奥付とも)
▶︎『かなのしをり』物集高見著 奥 付
著者の物集(もずめ)高見は、豊後国速水郡杵築北新町(現;大分県杵築市)出身の国学者。
東大教授・文部省記録課長等を歴任。百科事典の先駆けである『広文庫』(20巻)を手がけた
このころ印刷機を購入した卯三郎は
『 六合新聞(りくごうしんぶん)』を発行。
海外事情を次々紹介していくほか
周りの人々との協調もはかり、積極的に
新しい挑戦への手助けをしていく。
明治5年(1872年)に東京で最初に
発行された日刊新聞『東京日日新聞』
(現;毎日新聞)の第1号は
卯三郎の印刷機を使用して印刷したものである。
▶︎『東京日日新聞』第1号(明治5年・1872年創刊)
岸田吟香が入社し、主筆となるも、翌年、福地源一郎に主筆の座を譲る
こうした事業を行うと同時に
当時一流の知識人であった森有礼、
「明六社」に「会計係」として参加。
出 典;Wikipedia
沼津の町で「沼津兵学校」一等教授・乙骨太郎乙のもと、英学を学んだ
同会の発行する機関誌『明六雑誌』へ
国民への知識普及のため、わかりやすい
平仮名を使うべきだという、自らの説
「平仮名ノ説」などを寄稿した。
▶︎『明六雑誌』明治7年(1874年)創刊
出 典;Wikipedia
文明開化時の日本に大きな影響を与えた雑誌の1つ
『福翁自伝』の中で、清水卯三郎を紹介。
出 典;慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション
卯三郎が「薩英戦争」の際
エピソードを紹介し、彼の功績を讃えた。
ずば抜けた先見性と斬新なアイデアで
新しい時代をリードした、清水卯三郎。
同じ日本橋の地で、同じ生業。
両者は互いをどんな風に
思っていたのだろうか。
ここに卯三郎が自ら著した
『西洋烟火之法』がある。